虚構に全ベットされた本物、Netflix『Mr. マクマホン: 悪のオーナー』と私の中のWWE
2003年頃のこと。学校帰りに遊びにいった友達ん家でWWEに出会った。最初はゲームだった。混沌たるリング内で人間離れした動きを繰り返すレスラーたち、リング下から無限に供給される武器、リングを離れ花道を走り回って戦った挙句、6.1mの金網上から飛び降りるレスラー、粉々に崩壊した実況席、流れ弾ならぬ流れ技を食らって気絶するレフリー、ひとたび相手がフィニッシュムーブに入れば座して死を待つかのごとく技を受けるのを待つレスラーたち…。ゲーム自体も荒唐無稽だったが、数日後にDVDを借りて見た「本物」はその上をいく破茶滅茶な世界観で、その過剰なるフィクションの濁流に飲まれ、当時中学生の自分は一気にプロレスの世界そのものにのめりこんだ。
その時点で俺は古き良きWWE (WWF時代)の後追い世代ということになるが、逆にいえば、最も勢いがあり苛烈だった90sアティテュード時代の映像資料が潤沢に揃っており、渋谷TSUTAYAの特設コーナーから過去のPPVを手あたり次第選んでは見まくるという至福の時間に浸ることが許された、なんとも贅沢な視聴者だったとも思う。2003年のレッスルマニアXIXをDVDで見たときの衝撃は今でも忘れない。2000年代初頭には、テイカーやトリプルH、ショーン・マイケルズなど、90年代を知る大物たちがまだ現役で闘っていて、そこにベノワやジェリコ、エディ・ゲレロ、カート・アングルといった実力派の中堅〜ベテラン勢が絡み、さらにはシナやオートン、バティスタら、その後の一流スターたちがデビューから成り上がっていく様をほぼリアルタイムで目撃できた。いま思えば結構幸運だったのだけど、とにかくそれからの数ヶ月ないし数年に関しては、WWEを中心に、親日やノアなどの日本プロレス、時にはメキシコのルチャまで、プロレスというプロレスを見まくった。(ちょうど同時期、ミスター高橋の暴露本が物議を醸し、日本のプロレスが大きな岐路に立たされていたことを後から知る)
中学生の当時俺はすでにそれなりの映画少年だったと思うけど、とりわけWWEの世界にはそれまで見たどんな映画にも代替されない紛いモノの世界観が詰まっていた。それは、小学生の時からすでに目にしていたK-1やPRIDEといった格闘技の提示する「本物」とは明確に異なっていた。つまりそれは、「ケーフェイ」という隠語で表される以上に、WWEのプロレスが格闘技だけに留まらない (映画も含めた) 現実に起こるあらゆる事象の悪辣で倒錯的なコピーだったからなのだけど、一方で、まさしく虚実皮膜というか、「虚構に全ベットされた本物」の凄味というのが、確かにそこには存在した。その剥き出しの波動みたいなものを画面越しに真正面から浴びて、ティーンネイジャーの俺は為すすべなく感電してしまった。
デタラメに満ちた芸術と、愚劣極まりないスポーツの美しさ、その狭間を激しく往来し止まることのないレスラーの身体性、積極的受動とでも呼ぶべき「受けの美学」の奥深さ、どれほど卑しく呼んでも呼びすぎることのないエロとグロとナンセンス、悪しきポピュリズムやナショナリズムの援用、いってしまえば資本主義のもっとも醜悪な一面がそこには花開いており、当時の自分にとってはさながら現代の桃源郷のように映った。
同時期に同じようにプロレス熱にやられた同級生たちとともに、無邪気にその世界に浸っていた俺は、畳の上でのじゃれ合いのみに留まらず、高校生になって人前でプロレスの真似事 (通称中庭プロレス) をしてみせる機会にさえ浴した。
柔道場でひたすら繰り返したクローズラインの受身も、次第に上達しスムーズになっていった足4の字固めも、フレアーウォークも、ロック様以上に溜めすぎて時間の迷宮入りしたピープルズエルボーも、そのすべてが今となっては気恥ずかしくも捨てがたい青春の思い出だけど、その一方で、それらありとあらゆる創造的瞬間はたまた生物的滞留の源泉であり、いちプロレス団体を超えた世界宗教の始祖ともいうべきWWEのオーナー、ビンス・マクマホン・ジュニアについて、これまであまり深く考えたことはなかった。端的に言って彼のことは、たまに出てきては色々なものをぶち壊しにするオッサン、昼ドラより下世話な家父長家族ドラマの憎たらしい父親、無駄に筋骨隆々のキモいジジイ、くらいにしか思っていなかった。
つまり、当時ただひたすらにガキだった自分にとって、まさしくビンスに用意された筋書どおりに、彼は一刻も早くリング上から駆逐されてほしい存在以上でも以下でもなかった。誰もが退場させたいと思っているのにそれが叶わない最高権力、悪辣で下品で卑しい金の亡者。時には自ら観客の代弁者たるベビーフェイスと対峙し、冷酷無慈悲に戦うも、最後はボロ雑巾のようにやられて憎々しく退場していく。いついかなる時も観客の安直な願望に感応し、裏切り、触発する、ヒールを超えたヒールとして、これ以上に素晴らしいキャラクター、そしてアングルの動力源は存在しない。あの時代、まさしくビンスはWWEの永久機関であり、彼の存在こそWWEが体現するプロレスという概念そのものだったと言って差し支えないだろう。
折につけ目にする至言ではあるけれど、上手な嘘をつくコツは、時に真実を織り交ぜて語ることだという。
奇しくもトランプvsハリスの米大統領選を控えるなか配信がはじまった本ドキュメンタリーでは、第一次トランプ政権誕生と盟友ビンスの共犯の歴史さえ批判的に語られるが、今日日これほどフェイクが溢れかえる世の中で、逆説的に、虚構の力はかつてないほど弱まっていると感じる。俺たちはもはや、すべての外的な現象をあまねく「情報」として処理し、それが正しいか正しくないか、有用か無用か、信じられるか信じられないか、そんな二元的な基準の中にしか人生を生きられなくなりつつある。
しかし、見ただろうか。今や映画スターとしてハリウッドの頂点にのぼりつめたザ・ロック、もといドゥウェイン・ジョンソンが、WWFの全盛期に思いを馳せた時のあの恍惚の表情を。史上最強のギミックレスラー・アンダーテイカーが、ビンスへの思慕を語る際の純粋無垢な瞳を。ビンスとの愛憎交々の歴史にそれでも縋るハルク・ホーガンの、子犬のような眼差しを。人生をプロレスに奪われ強権的な父に反発しながら、それでも愛を求めてしまうシェインの目に浮かんだ涙を。あれらはもはや本当でも嘘でもない。本当とか嘘とかの話ではない。自らの人生を丸ごとプロレスにしてしまったビンスのその巨大な引力を前にして、もはや虚実は不可分になった。一番恐ろしいのは、当のビンス本人がもっとも深い霧のなかにいるかのように時折見受けられることだ。それでも彼は言う。すべては虚構なのだ、と。(本来そう言えるのは、自分が現実に生きていると確信できる者だけである)
そうしてビンスへのインタビューは、本シリーズの制作中であった2024年1月に、当人の度重なる性的虐待疑惑が(再)浮上し、突然の(とはいえ2度目の)会長職辞任が発表された後に打ち切られる。いやはや、なんというか、合法だろうが違法だろうが、この世のダークサイドをすべて己のビジネスに利用してきたともいえる業深きビンス・マクマホンのドキュメンタリーにとって、あまりにも出来すぎた幕切れだ。これさえも彼の筋書きなのではないかと、そんな穿った見方をしてしまいそうになるほど、禍々しくも苛烈な幻影を我々に与え続けたビンス・マクマホンという生き様(キャラクター)は、おそらく今後現れる何者にも取って代わられることはないだろう。
本シリーズの制作陣は基本的に、ビンスの人物像とWWEが歩んだ道のりに対して一定の評価を下しつつも、それ以上に厳しい批判的態度を崩していないように見受けられるが、その虚実さえもはや俺にはわからない始末。(Netflixは2025年以降のWWE放映の独占契約を発表した)それが実に四半世紀以上にわたって生きられた虚構の重みである。嘘か本当か、そんな次元はとうに超えている。誰しもがこの虚構のメタ的な非当事者にはなれない。すべては加速度的に駆け上がる虚構の梯子(ラダー)に包摂されている。(おそらく例の暴露本もとい提言書の意図を好意的に解釈するなら、日本のプロレスも早くその次元へ行け、ということだったのだろう)
本シリーズに挿入される、とりわけ90年代アティテュード時代のピークにおけるWWE(WWF)の映像は、今見返すと目を疑うような光景が平然と繰り広げられている。リング外のモラル、秩序、恥じらい、宗教的禁忌、家族によって禁じられたありとあらゆる愚行を全身で体現してみせるレスラーたち。その有り様に我を忘れて狂乱の歓声をあげる観客。まるでドラッグに頭をやられた人間のサイケデリックアートか、悪魔主義のグロテスクな宗教画のようだ。これが虚構を通り越した超現実ではなく何なのだろう。虚構に全ベットされた本物が、時に本物以上に本物である証拠でないというなら何なのだろう。
数多の人々が受けた、顧みられることのことのない深い傷と、いま再び掘り起こされるべき傷と、紛れもない現実の死と。それらすべてを欲望の渦中に飲み込んで、スポーツエンターテインメントという枠を大きくはみ出した物語は今なお続いている。
かつて信じられた虚構の世界が今や見る影もなく消失しつつある世の中で、WWEロゴと共に挿入される「Please DO NOT Try this at home」というお馴染みのディスクレーマーが、俺の脳内でリフレインする。
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