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現れる 386

最近は、自然と朝3〜4時台に目が覚めることも多い。みんな寝静まっている静かな時間に一人の時間を過ごしている。

昨日ヒーラーのレッスンの第一回目を受けた。生まれて初めてZOOMをした。スマホもwifiもないけど、夫のスマホの4GからPCにデザリングをして問題なく出来た。そんなことに少し感動し、人との関わりでまた私に出来ることが一つ増えたと思った。例えばZOOM(ピアノ)レッスンなども出来ますね。遅れてきたコロナ下のようですが…。

X(旧Twitter)を再開しました。

まだ完全に着地はしていないけど、やっていけそうなイメージ。1月中に新しい音を発表しようと思っていたけど、セッティングにも新案を思いついてしまい、準備に時間がかかっていて2月になりそうです。

昨日第一回目を受けたヒーラーのレッスンは、内容は言ってはいけないので言えないけど、古代日本の奥義のような、癒しという本質に全力で向き合うようなもので、確かにスピリチュアルと軽く言ってしまってはいけないと感じました。そこに、また分断も現れてしまうのだろうと思うのですが、それは望んでいません。

数日前に畑からの帰りに竹やぶの横を歩いていてふと思ったことは、道に倒れ込んでいる竹も「間違っている」とは言えないということ。「自然」だということ。イノシシが畑を荒らすのも間違っているのではなく、自然なこと。犬が庭に穴を掘るのも、部屋で嘔吐するのも普通のこと。犬は教えたら学んでいってはくれますが、人間に合わせさせているだけで、その犬の行為が生物的に間違っているとまでは言えない。

人間は「正しい」「間違っている」を決める。それは、答えが決まっている、決めているからだと思いました。常識やルールで決めている、個人個人が別々の価値観で決めているなど。社会があるからなのか。

社会的な生き物、例えばハチやアリではどうかなと思って想像してみたら、アリは一定の割合で常に働かないアリが出てくると聞いたことがある。それは、全員が同じ行動をすると、同じ方向へ進むと全滅する可能性があるから、種の保存機能として、別行動をするアリが現れるといったようなことで、私は前から自分は人間という種のために別行動をしている役目を担っているんだと思って生きていました。

ということで、社会があるからと言って、行動に「正しい」「間違い」が地球の仕組みとして決まっているのではなく、やはり、誰かが決めている。

「間違い」は無い。

間違ったことは出来ないようになっているのが世の仕組みだと思った。植物が空中から生えることは出来ない。植物が出来ることは全て自然。コンクリートの隙間から生えるのも自然な光景。その機能が元々備わっているから。

間違いはないからなんでもやって良いという意味ではない。

思った以上に、「間違い」とされることの中に、善意やDNA的知や必然や神の意識といったようなものがあるということ。逆の悪習慣やカルマ的にやってしまうということも必然という部類に入るかなと思う。その次に、この国の法律に則って、人の気持ちを考えて、自分はどうしたいのか。人に迷惑をかけてまでしたかったらするしかないけど、度合いによって、相手によって、法的報いや天罰を受け入れなければいけない。それは、相手側や世の仕組み側の自然なことだからそうなって当然。

そんなこんなで、私は、やはり、みんな誰も間違っていないと思うのです。

それでも、一見軽く見えてしまうスピリチュアルと一緒にしてはいけないということはなくなるわけではなく、一見軽く見えてしまうのは自分の見方がそうだからという理由で本当に軽いかはもっと直接話をしてみないとわからないし、自分より愛に溢れた人で、右脳でパッと言ってしまって言葉としては軽いけど中身は軽い訳ではないなどあると思うのです。それでも、軽いというそういった印象を抱かせてしまうことは確かなので、伝える時にどう伝えれば良いのかを「音楽」や他のことも同じで、「伝え方」というものを真剣に考えている日々です。

スピリチュアルヒーラーとは言ってはいけないのはそうで、そうだとどうすれば良いのか。呪術ヒーラーというのは別の意味で怪しく感じるし、医師免許がないので治療者と言うのも誤解を与えそうで難しい。今のところは良い言葉が浮かびませんので、単なるヒーラーということにしておきます。

この名前の重要さ。

音霊もあるし、集合意識もあるので。

良いものを良いものとして伝える重要さ。

これからはそれをやっていかないと、と思う。

何にせよ、新たなヴィジョンで生きたいです。

伝え方こそが「術」のような。

風景も、田んぼの刈り取った後の稲の残りも、日が当たっている部分と当たっていない部分で輝きが違い全く別の印象を持つ。太陽の光は最大の「術」だなと感じます。同じものなのに、全く別物に見える。

朝日と夕日、雨や曇りや雪や雷も。

そこに、季節の螺旋もレイヤーとして重なって。

たくさんの術が重なって。

人を本質的に癒すレッスン、毎日の「行」を行いつつ、自分の心や身体にも向き合う、半年後に終了予定です。私は現在、良い意味であまり感情がなく、主観も少ないので、自分なりの「愛」はあるんだけど側から見たら一見ちょっと冷たい感じに見えることがあると思います。その部分が、他の人の立場から見て、癒される存在になれるのかもしれません。本質的にだけではなく、表面的にもそうなれたら良いなと思うし、現状がこうなっている理由は、傷ついた経験が多すぎてちょっと人が怖いところがあるからなのかもしれません。防御を張っているつもりはなく、オープンマインドなつもりだけど、気恥ずかしさというか、期待されて大雑把な感性の人にズケズケと介入されるのが嫌なのか…。

何かしらあるんだろう。
これからもっと強く優しくなる予定。


太さが足りないが長く育った三浦大根、紫のニンジン、ケール。今年は、ジャガイモ、サツマイモ、キクイモと芋は十分にある。でも、人にあげれるだけの分量はまだ出来ていない。

そろそろ、春の畑計画を立てようと。

その前に、イノシシにぐちゃぐちゃにされた畝の立て直しをしているところ。

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