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アリオスコミュニティ「アリコミしゃべり場~いわきの文化施設のこれからを考えよう~」に参加して ―― 文化政策の限界や息苦しさをみんなで乗り越えていくために


11月13日
 アリオスコミュニティ 、11月の月イチ情報交換会「アリコミしゃべり場~いわきの文化施設のこれからを考えよう~」が行われました。ご覧のように小さな集まりなんです。でも、この小さな場の開催のために、関係者の皆さんが随分前からお力を注いでくださったから成立したということで。以下、ちょっとふわっとした長めのメモだけ置いときます。

 設立前から関わっていると当たり前のように感じてしまうのだけれど、「アリコミ」の立ち位置というのは些かユニークで、その活動を正確に、かつ一般の方に興味をもっていただけるレベルでコンパクトに説明するには、なかなかの苦労が伴います。
●いわきアリオス(という市の直営館)やいわき市の文化の将来を、市民の方々が主導して考える。
●参加する際は、みんな「肩書き」や「立場」を捨てて「個人」として参加する(肩書がある〇〇さんの“ポジショントーク”よりも、そのひとがこのまちに住む一人の市民、個人としての本音に近いところを話してもらうため。といって、肩書のある方が「アリコミで、こう言った」という発言が独り歩きして立場が悪くならないよう)。
●そして、急いで結論を求めるようなことはしない(でも「先延ばし」はせず、少しでも「前進」はしたいと思う)。

 公立文化施設の運営や文化政策についての意見交換の場といえば、長らく行政や施設「側」が主導し、それの「説明」「報告」に対して、市民「側」が意見や要望を物申す(そしてそこで出された意見の行く先(活かされるか)といえば……)、ともすれば市民の市民の“対立”の構図が立ちこめる場になったりもするのですが、アリオスコミュニティは、いい意味でそれらを回避しながら、オープンな対話と、自分たちでできることを探る場にしようというカルチャーが、役員の皆さんの努力で醸成されつつあると思います。

 またその道の「プロ」や「専門家」を入れれば、対話が促進されたり、「答え」らしきものに早く見つかったりすることもあるかもしれませんし、実際に「そんなときもあってもいいんじゃないの?」とは言うのですが、あくまで「自分たちの力で協調しながら」という道を選んでいるところも、これからの地方自治のあり方を考えれば、大切な考えかたかもしれません。
 
 それは傍からみれば「それって、余計に面倒くさいことをしようとしてない?」と見えることがあるかも。でも、その面倒くささや、別の対立、意見のまとまらなさを「それとして」受け入れつつ、一歩でもよき道を探って歩もうとする方々がおられることに感謝すると同時に、それを誇りに思います。「文化芸術」に携わる方々が、「わかりやすさ」「単純明快さ」を追い求めるとしたら、それ自体がとても気持ち悪いことでもあるし。また住民が何でもかんでも行政頼み、行政も「民間の力を借りる」というお題目をかかげて丸投げする(いわき市がそうだというわけはない)、という時代は終わっているはずですから、長い長い時間をかけて向き合って、ともに知恵を出しながら、少しでもよい形で「未来」にバトンタッチするための最適解を模索し続けたいものですね。文化芸術活動は、ゴールがあるようで、ゴールのない駅伝のようなものですから。

 さて、今回のアリコミの「いわきの文化施設のこれから」ってテーマは、狭くとらえても大きくとらえても割とホットな話題で、アリコミ役員の皆さんもそれぞれ、この場に参加してほしい方々に事前に粘り強く説明を繰り返して、当日を迎えました。会場には、座布団も用意して(笑)話しやすさも考えて……。

 文化施設を様々な形で使用している(が故に文化施設の廃止や老朽化の影響で活動の制限を余儀なくされている)実演団体の皆さま、行政の職員、文化施設の職員、議員さん、それにこのテーマに興味に持って参加してくださった方々(いわきアリオスへの来館が数回という方なども)……なるべく立場を意識せず、それぞれの置かれている状況や、現在の対応について、おだかやかに話し、耳を傾け合う。
 いわき市は1,232平方メートルという広大なまちだから、地区や学校、団体の状況を俯瞰して把握することすらなかなか難しいことも多く、やはり初めて知る話も多々出てくる。

 私は一応いわき市の文化政策の末端を汚す者であるので、東北随一の文化施設がある土地であっても、長らくいろいろな文化活動の“たましい”の継承が「待ったなし」のままの状況が続いていることは把握している。そしてそれに対して、行政が即時的に講じられる対策は限られること(ほとんどない)もわかっている。そして具体的に有効な施策を講じるとすれば、5年、10年なんか簡単に過ぎてしまうし、待ったところで、自分たちの望む形になるかについては全くわからないことも。でも、その5年、10年の“狭間”に、大事な子ども時代、学生時代、老年期の文化活動を充実させたいと思っている方々の人生はどうするのだ。そう考えると、いわゆる「文化政策」や行政の施策の機動性のなさや限界も感じて、胸が苦しくなることも多い。

 同時に一市民としては「いや、行政としては何年もかかる話かもしれないけど、ここに住む人たちが知恵や力を持ち寄れば、小さいことでもできることはあるだろう。このまちは勿体ない」と思うこともある。その処方についても自分のなかでは小さなプランはいくつもあるが、それは私が、いまある立場でやることか、一市民としてやっていくべきことなのか、その狭間に立ち、やはり胸が苦しくなる。「役職」でなく、「個人」で参加しようというアリオスコミュニティの理念ゆえに、そうした苦しさを感じるのだろう。割り切れない。しかし「苦しい」と弱気な気持ちを吐露できることも、アリオスコミュニティにいるからこそ、だと思う。

 なかなか「明るい」地域の文化芸術の未来を夢見ることができない昨今にあって、「ここでは、これはできるかも」という処方への道筋を朧気ながら感じていながら、何も手を講じようとしないのは、立場や市民という衣装を取り去って、「ひととしてどうなの」と自分に対して突きつけるものもある。わかっていて、なにもしないで、手をこまねいているというのは、未来に対して、一番の罪ではないか。2011年11月にいわきに来てくれた不世出のバレエ・ダンサー、シルヴィ・ギエムが、あの時期、被災地に行って踊ることについて「人としての義務」と言い放ったことを思い出す。一つ一つ、一歩一歩、できることをやっていきたいと思った。仲間たちと。根拠のない“絶対安全圏”にあぐらをかいて、根拠のないところからあれこれ言うだけで何もせず、ただ足を引っ張るだけの人間にだけは、絶対なりたくないよねー。
 いつだって苦しいんだから。

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