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谷川俊太郎さんの訃報に接してーーいわき芸術文化交流館アリオスの16年と未来を重ねる

珍しく朝5時台に起きたら、いきなり谷川俊太郎さんの訃報が飛び込んできた。もう動揺してどうしようかと思った。

職場のいわきアリオスでは、16年前、2008(平成20)年のオープン時に俊太郎さんに「アリオスに寄せて」という4篇の組詩を書いていただいた。開館半年前に来館され、オープニングスタッフ1人1人から新しい施設への想いを聞いてくださった。4ヶ月後、1篇にまとまらないから、と4篇も送ってくださった。スタッフは誰もが「この詩のこの言葉は、私の想いを詩にしてくれたはず」と思いこむような言葉が散りばめられ、それぞれが放つ強力な引力で均衡を保つような見事な作品群だった。

そこから16年が経ったというのに、この詩とともに当館のことを覚えてくださる方も多く、今日も取材の連絡が来たり、声をかけてくださる方が結構いて……。
未来にむけて大きな大きな宝物を置いてってくださったと、詩人への感謝の念を強く感じた。
「使い倒して、詩もハコも」と仰られたことを実現させようと、いろんなクリエイターの方々とこの詩であそばせてもらって、創造の輪が拡がった。

広報紙の編集を担当していた時は、年に一度は俊太郎さんとの詩とのコラボをしたいと思ってて、2008(平成20)年3月の開館直前号(vol.0.9)は、平間至さんが撮影された俊太郎さんの写真と、当時地元の広告代理店のアド・プランのチーフデザイナーとして在籍中で、いま、いわきアリオスの告知物の多くをお願いしている亀岡高幸さんのデザインによって送り出した。

開館後、創刊号以降は平間さんの写真に加え、アートディレクターの長尾敦子さんと「あーでもない、こーでもない」の延々議論をしつつの制作。
2009年、俊太郎さんを敬愛している熊谷和徳さんが宇宙石のふもとの芝生の上で裸足でタップを踊る(足裏は知っている)のを、平間さんが寝転びながら撮りまくったのは、とても思い出深い出来事で、そうして仕上がった写真を見た俊太郎さんも喜ばれていた。

イッセー尾形さんに表紙を飾ったときも、俊太郎さんの詩と組み合わせることを想定していた。たぶん「いまここ」が候補だったと思う。しかし、イッセーさんの動きがあまりに奔放すぎて(笑)、「いまここ」すぎて、これは詩と食い合う。写真だけで強烈なインパクトが出せると思って掲載を見合わせたこともあった。見えない背景で俊太郎さんの詩が響いている、と思ってほしい。

一方、震災や新型コロナウイルスの際は、もうどうしたらいいかわからないと頭をかかえて追い込まれていると、その時々のメンタル、状況に相応しい俊太郎さんの詩が降ってきて、遠い先を指さしてくれたように思う。

震災で広報紙が休刊した後は、こどもたちの絵と「いまここ」、8月に再開した直後は、2階バルコニーで放射線量を気にしつつ、なるべく短い時間で撮影しようと配慮しながら撮られた子どもたちの写真と、「ハコのうた」だった。

コロナ禍で、tupera tuperaとNUUさん、シーナアキコさん、良原リエさんの絵本コンサートが無観客開催になってしまったとき、NUUさんその日のために曲をつけてくださった「ハコのうた」の歌声を受け止めた、音楽小ホールの響きは忘れられない。

ふくしまFMの番組での当館のコーナーを長年担当していた頃は、ふくしまFMアナウンサー矢野真未さんに、毎年必ず「アリオスに寄せて」から1篇を指定して、朗読したものをオンエアしてもらった。たぶん、世の中で一番「アリオスに寄せて」を読んでいる人だ。訃報が一斉に報じられた今日、矢野さんは番組内で「場」を読んでくれたそうだ。悲しい1日だったけど、粋な供養がしてくれてありがたいと思った。

2012年に、東日本大震災の発生から1年間のいわきアリオスの取り組みを記録した共著『文化からの復興 市民と震災といわきアリオスと』(水曜社)の第一部を執筆した時も、章の最後に俊太郎さんの4篇の詩を掲載したいと思って転載許可のファクスをお送りしたら、ほどなく本人からいわきアリオスの事務所に、
「谷川俊太郎です。どうぞ自由に使ってください。皆さんお元気ですか? 皆さんによろしくお伝えください」
と連絡をいただいたのだった。

いただいた詩をもとに作品を創作する前や、詩そのものを使用させていただく際はだいたいこうしたプロセスを経るのだが、作品や内容について確認や言及をされることは一切なく、全面的にOKという感じでお返事をくださり、恐縮するのが常だった。

オープニングスタッフは谷川俊太郎さんとお話をしているし、旧マーケティンググループ→旧広報のスタッフはお宅にもおじゃましているから自然と「俊太郎さん」と呼んでしまうけど、今朝、訃報を知って通勤してきた在籍年数が短いスタッフも、「俊太郎さんが」「俊太郎さんが」と言っていて、先輩たちの俊太郎さんへの想いを有形無形に受け継いでいてくれてるんだと思い、ひとり胸が熱くなった。

実は来月アリオスペーパーは創刊100号を迎えるが、私がいわきに着任してガリガリ編集していた頃に近い年齢になった若手スタッフが、偶然にも、これまで紙面にしたことがない俊太郎さんの詩を表紙に据えるために、地元のカメラマン吉田和誠さんと格闘に近い試行錯誤をしていた。きのう校了を迎えた矢先の訃報。いそいで追悼のコメントを加えていたが、ドンピシャのことば選びだった。その過程をずっと支えるベテランもいて、つくづくありがたいチームだなと思った。

これからも、谷川俊太郎さんのことばは、私たちのカルチャーやいわきの芸術文化、劇場の行く道を照らし、こどもも、大人も、文化芸術、劇場の世界にふわっと誘ってくれるし、アーティストたちとも、深く、高い創造の世界へと旅立てる気がします。それが一番の供養になるのではと。合掌。

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