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いわき市立美術館「牛腸茂雄写真展 “生きている”ということの証」について①
「観る・見る」だけでない。思わず「読む」方向へと惹き付けられざるを得ない何かがある。明らかなインパクトが現れているものは当然。何気なく写っているものなら、尚のことその意図や真意、それを捉えるまでの時間の経過や空間の把握、偶発的に重ねられる色彩への反射神経を読み解きたい。それが「写真」という「表現」であると同時に、すべからくあらゆる芸術表現との向き合い方はそうあるべきだ、とも思う。人生を懸け、研ぎ澄ませた感覚が選んだ「何気ない」表現に対して、私たちも、全神経を傾けて向き合いたいではないか。今の時代は、もはや写真というより、目の表層をなぜる「画像」ばかりになってしまったがゆえ、余計に……。
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2024年11月2日(土)から、いわき市立美術館で行われている「牛腸茂雄写真展 “生きている”ということの証」に出遭って、そういう想いを強くした。展示は12月15日(日)までだから、会期は残り2週間になってしまった。急いでほしい。
「牛腸」と書いて、「ごちょう」ですって。読めましたか? 私は読めませんでした。おそらく、ほとんどの方と同じく、告知物を初めて見たときは「ぎゅうちょう しげお……?」と読んでいました。写真の世界に明るい人ではないと、なかなか知りえない写真家かもしれません。そのような作家の足跡を紹介しようと展示を企てたいわき市立美術館、素晴らしい。
展示の初日11月2日に、生きていれば78歳の誕生日を牛腸さんは迎えるはずでした。私の親世代の写真家。実際には、36年でその生涯を閉じています。終戦の翌年、1946(昭和21)年に生まれ、東京ディズニーランドが開業した1983(昭和58)年、私が小学校に入学した年に身罷られています。
「“生きている”ということの証」というサブタイトルには、だから、いろんな意味や想いが圧縮されているのだと思います。
展示初日には、牛腸さんにとって18歳からの盟友であり今回のプリントの監修もした写真家の三浦和人さんと、本展のキュレーションを担当された株式会社コンタクトの代表、佐藤正子さんによるレクチャーが開かれました。これを拝聴できなかったら、私ももっとさらっとしか展示を見なかったかもしれない。感謝したい。
以下の紹介は、そのときのメモをもとに。
新潟県に生まれた牛腸さんは3歳のときに難病「胸椎カリエス」を発症し、医師からは、20歳まで生きられるか、という診断がなされていたといいます。この病気の影響で身長が伸びず、三浦さんが椅子に座っているのと同じ目線に、立っている牛腸さんの目線があったそうです。のちに、低い視点から捉えた写真が、牛腸さんの写真を語るうえでの重要なファクターになった側面はあるようです。
健康面の不安にさらされながら、牛腸さんは中学生時代に机の上で作業ができる「デザイン」と出会います。もともとは写真を志したわけではなかったのです。そしてポスターのデザインなど様々なコンクールで入賞してメキメキと頭角を現し、地元紙には、10代なのに「ベテラン」と書かれるほど、その才能は知れ渡っていたようです。
そして、その学びを深めるために、意を決して東京に出ることにします。身体への心配から、親きょうだいは反対したともいいます。
進学先として第一志望にしていた多摩美術大学のデザイン専攻への受験は失敗しますが、そのとき試験官が、わざわざ牛腸さんに手紙を送ります。そこには、「ご自分を、創意ある人に着替えてください」と書かれており、当時、創立から10年くらいだった新しい専門学校、桑沢デザイン研究所に進学することを勧めます。試験官が、試験に落ちた学生の才能を評価し、応援するために手紙を送るなんて余程のことではありませんか。
1965(昭和40)年。東京オリンピックの翌年。高度成長期の入口に差し掛かったころ。牛腸さんと三浦さんは、その桑沢デザイン研究所の入学初日に席を並べたことから友達になり、牛腸さんが亡くなるまで、数多くの活動をともにしました。
ふたりとも写真を志して入学したのではなかったのです。しかし、ドイツのバウハウス建築に影響を受け設立された桑沢デザイン研究所は、デザインだけでなく社会のあり方との連関を考えるカリキュラムを組んでおり、ふたりはデザインを知るためのプログラムの一環として必修とされていた「写真」と出逢い、向き合い、生涯を通してそのモチーフを究めることになります。(つづく、のか)