いわき市立美術館「牛腸茂雄写真展 “生きている”ということの証」について②
バタバタの日々、で、気づいたらいわき市立美術館での「牛腸茂雄写真展“生きている”ということの証」の会期末まで、あと1週間を切っていた。ごちょう・しげおさん。最終日は12月15日(日)。ダッシュだ。いわき市立美術館さん、展覧会チラシのメインビジュアルを何案かつくるほど気合いが入ってるので、ぜひ、ぜひ、ご覧ください。
そして関係ないですが、最終日12月15日(日)は、いわき市立美術館のお隣いわきアリオスで、まもなく92歳のレジェンド鍵盤楽器奏者、小林道夫先生によるバッハの「ゴルトベルク変奏曲」もあります。(ついでに言うと、同じ日の同じ時間にいわきアリオス小劇場では、市立美術館との企画による小森はるかさん瀬尾夏美さんの上映会+トークをやってます。体を2つか3つに割れという話ですわねぇ)。
前回と同じく、写真展の開幕日に、牛腸茂雄さん(1946-1983)の18歳の頃からの友人である写真家の三浦和人さんと、この写真展のキュレーションを担当された佐藤正子さんによるレクチャーで聞いたメモを元に書いています。そのなかに、私の主観による感想も混ざっています。事実関係はなるべく間違いのないよう書いてますが、専門外なので初歩的なミスや誤認があったら予めお詫びしておきます。
多摩美術大学の受験に失敗し、試験官から手紙をもらって勧められた「桑沢デザイン研究所」に進学して、三浦和人さんと出逢った牛腸さん。3歳のときに発症した「胸椎カリエス」という難病の影響で身体の成長が止まり、身長が低く、医師からは「20歳まで生きられるか」という診断をされたそうですが、三浦さんと知り合ってから36歳で亡くなるまでの牛腸さんはとても元気で、(作品制作のために)徹夜もしたし、ものすごく明るく、純粋で目の澄んだ人間だったといいます。ただ、「自分の人生あとどれくらい」と、残り時間を意識しながら生きていたところはあったのではないか、と三浦さんは語っていました。今回の展示タイトル「“生きている”ということの証」とリンクするところですね。
桑沢デザイン研究所の、「デザイン」を知るためのカリキュラムのなかで、牛腸さんも三浦さんも写真と出逢い、自ら写真を撮ることになります。課題として、「1/4が黒」「3/4が空」とかいったお題が出ていたそうですが、牛腸さんは黒の多い写真を撮ったりしていたたそうで、それに対して、指導する先生も何も言わなかったそうです。
当時の桑沢デザイン研究所では、巨匠・石元泰博さん(1921-2012)も教えられていたというような話もしていたと思います。石元さんといえば、それこそバウハウスの流れをくむ、シカゴのインスティチュート・オブ・デザインの出身ですから、指導者としては打ってつけだったでしょう。
学校で貸し出されたカメラは6×6のフジカ・シックスだったそうですが、そのうち、牛腸さんは、自分でミノルタ製のカメラを入手し、撮り始めるようになったそうです(細かい機種名はメモし忘れた)。
桑沢デザイン研究所のカリキュラムは2年で修了となりますが、牛腸さんに対して「写真を続けろ」と熱心に説得した方がいます。それは、2年で修了した人が進む「研究科」があり、その研究科で写真を教えていた大辻清司さん(おおつじ きよじ 1923-2001)でした。牛腸さんも、三浦さんも、研究科に進むと大辻さんに学べるとは知らなかったようですし、牛腸さん自身も、「写真を志す」とはおくびにも出していなかったようですが、大辻さんは、「この才能を野放しにするのは教師として罪だ」とまで言うほど熱心に説得したようで、牛腸さんは試験を受けて、桑沢デザイン研究所の研究科に進みます。
そして、1968(昭和43)年の卒業制作で発表した作品が、当時出版されていたカメラ雑誌のなかでも権威のあった『カメラ毎日』の展評(展示会評)で取り上げられました。そのころの評者には、堀内誠一(1932-1987)も名を連ねていたそうです。私の世代(1976年/昭和51年生まれ)からすると、堀内誠一といえば、まずもって絵本『ぐるんぱのようちえん』の絵を描いた人として思い出しますが、高度成長期の広告業界やグラフィックデザインの世界で大きな足跡を残した巨人だったんですね。
そういう意味で、当時の第一線で活躍していた方々が、「牛腸茂雄」という才能に目を奪われ、世に送り出そうとしていたという事実。どれほど評価されていたのかが、今になってさらにその重みを増して我々の前に浮かび上がってくる気がします。
そして4月号の『カメラ毎日』の展評から2号後の同誌6月号に、牛腸さんの作品4点が掲載され、これが「デビュー」。世の中に認められるきっかけとなります。
折しも、アメリカでは「Contemporary photographers」という、写真以外の仕事をちゃんと持ちながら、仕事以外で、自分の写真、特に日常の風景に社会的な意味があるといって撮影をする潮流が生まれ始めたようです。この潮流はアメリカに限ったことでなく、世界各地で同時多発的に起きていたようで、三浦さんも牛腸さんも、「自分たちが撮っているような写真を、アメリカでも撮っているひとがいた」と思ったそうです。日本では、Contemporary(コンテンポラリー)を略した「コンポラ写真」の担い手のひとりとして、牛腸さんは位置づけられることになります。そして『カメラ毎日』は、そうしたコンポラ写真を紹介する舞台となる媒体であったようです。牛腸さんは、アトリエブロックという建設会社に、三浦さんは、凸版印刷の写真部に入社し、社会人勤めを始めていました。
美術の分野やダンスの分野におけるcontemporaryの言葉が指す、とにかく時代の最先端をいく、前衛的だったり、先鋭的だったりした表現とは違った、「日常」に密接な要素を内包する作品が、写真の分野ではcontemporaryと言っていたのか、ということを知ることができたのは個人的に新鮮でした。ある意味、ことばの本義における「con-tempo」だよな、と思います。そして、日本においては「コンポラ派」と略して流通していた点も面白いと思ったし、そこに時代の空気が滲んでいるのがいいな、と思いました。写真の世界は、実に懐が深い。
そして、1960年代後半から70年代にかけての世相といえば、安保闘争を始め、学生運動が盛んな時期で、それこそ牛腸さんと同世代の大学生は、デモや過激な行動に出ていた若者も多かったはずです。私たちは、歴史を学ぶ際、そうした大文字の動きに目が行きがちで、また、そうした出来事について記したドキュメント、書籍から時代の文脈を取りたがる傾向があります。
だから私は逆に、牛腸さんや三浦さんのように、大らかな学生時代や、穏やかな日常に身を置き表現活動をしていた人がいたんだ、ということを知ることができ、なにか救いのようなものを感じました。教科書では学べない時代の空気を、視点を、おそらく牛腸さんは、フィルムに、印画紙に留めてくれたのだと思います。
当然、この時代の趨勢としては、森山大道(1938-)とか、中平拓馬(1938-2015)とか、動的でcontemporaryな写真家の勢いもありましたから、彼らの同志でありイデオローグ的存在でもあったであろう評論家の多木浩二さん(1928-2011)が、牛腸さんらに代表されるコンポラ写真のことを「牙のない若者たち」と評されたのは、むべなるかな、とは思います。
いずれにしても、アラーキー(1940-)も篠山紀信(1940-2024)も、細江英公(1933-2024)も躍動していた時代。
おのおのの写真家自身が放つ強烈だったり穏やかだったりする多様な才能と感性が被写体を四角(視覚)のなかに押しこんでいた、それがそのまま時代を象徴し牽引できていたころ。それは陽と陰、動と静、さまざまな輝きが乱反射して世相が留められた時代だったのでしょう。そして、そのなかに、牛腸茂雄も、三浦和人も存在していた。そのダイナミクスを想像するだけでもゾクゾクします。まだ、モノクロ写真が主流だった頃の百花繚乱さ。素人の感想ですが。(つづく、のか?)