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野球を通して学んだこと
これまでいくつか記事を書いてきましたが、自分自身のことをあまり書いていなかったので今回は自己紹介をします。(2022年5月追記)
高校時代
とにかく野球漬けの日々でした。甲子園を目指す毎日で、特に高校では強豪校で寮に入りました。先輩たちのおかげでセンバツ、夏の甲子園、神宮にも連れて行ってもらいました。
学べたことはたくさんありますが今回は一つに絞ります。
100人以上部員がいる中でどう自分の価値を出すか
という部分では毎日考えていましたし、今でもそれは活きていると思います。
私は選手として秀でた特徴がありませんでした。だから、考えました。
結論は
・打者によって守備位置を変える(自分がプレー中)
・配球を読んで、仲間に伝える(ベンチで)
・相手チームのクセや動き、監督のサインの法則性を見て、指導者に共有する(ベンチで)
ということを実践しました。
自分のプレーに集中するのは当たり前ですが、全体を見てチームのためになることができれば存在感を出せるのではないかと考えたのです。
選手として試合に出ることはできませんでしたが、ベンチでチームに貢献できる存在にはなれたのかなと思います。
この経験が指導者を志すきっかけになりました。
また、社会人としてもこの視点は活きています。
要するにブルーオーシャンですね。
部員が100人以上いるチームで選手として試合にでるのははっきり言ってレッドオーシャンです。自分より秀でた人はたくさんいました。
僕の場合、3年生の後半は「ベンチで欠かせない存在になる」というブルーオーシャンを狙ってました。結果、3年生では記録員でしたがベンチ入りすることができました。
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大学時代
選手として活躍したいと思い、大学を選びました。
しかし、1年の冬に肩の故障もあり、選手としての自分に見切りをつけ、学生コーチへ転身。
僕の所属していた大学は当時1部リーグの入れ替え戦で敗退、2部リーグに降格し雰囲気も最悪でした。
当時のチームに不満を持っていて、「もっとこうすべき!」という思いも強かったです。
将来は指導者になりたいと思っていたこともあり、学生コーチという立場からチームの改革に乗り切ろうと思ったのです。
しかし、一筋縄にはいきませんでした。先輩、同世代、後輩にも指摘しなければいけない立場で精神的に大変なことも多かったです。
初めは反発もたくさんあったし、
「お前学生コーチになって変わったな」と言われたこともありました。
でも、結果的には学生コーチになったおかげでここでも他人とは違う視点でチームを見ることができました。
意識したこと、磨かれたことは
指摘する力
これに他なりません。
ときには間違ったこともあったと思います。
しかし、学生コーチという立場になって先輩や同級生がいい加減なプレーや行動をしていた時、はじめは見て見ぬふりをしてしまう自分がいました。
野球をやっていない人でも他人の行動を見て、見て見ぬふりをしてしまうという経験は誰でもあるのではないでしょうか。
しかし、
「自分がこれを見逃していたら、意味がない。何のために学生コーチになったんだ。ここで何もしないのは男が廃る。」
そんな気持ちが沸々と湧いてきて、自分の苦手な指摘もできるようになっていきました。
完全に立場が僕を育ててくれました。
また、孤軍奮闘するよりも、うまく周囲と協力して組織を作っていくこともの大切さも学びました。
自分が言っても変わらないことが、主力選手の言動や行動により変化することもあります。
チームとして大切なことを全体で伝える前に、キャプテンや副キャプテンたちに相談、伝えておくことでその広がり方が全く異なることも学びました。
そうすることで自分の行動や言動にも自信が持て、チームとして一枚岩に慣れた気がしました。
結果的に1部リーグ復帰、4年の秋には神宮大会は逃しましたが2位の成績で幕を閉じました。
教員時代
大学卒業後、語学留学のためカナダへ1年間滞在しました。そこでは大学のチームでコーチもさせてもらいました。1年間の留学期間を終え、教員採用試験に無事合格。
その後、公立高校の教員として野球部に関わることになりました。
田舎の高校だったということもあり、2年目から監督を務めました。
北海道の田舎の高校では部員不足に悩まされていますが、僕の高校も例外ではありませんでした。
選手は5人、マネージャー1人という中での野球でした。
練習試合では他チームから選手を貸してもらい、公式戦では同じ高校のバスケ部、スケート部、卓球部などから助っ人として生徒にでてもらいました。
できない理由を探せばキリがありませんし、できることもできないマインドになってしまいます。
選手にはできることを考えて、それに全力を尽くそうと常に話していました。
だからこそ監督である自分も人数が少ないからダメだとかそういったことは考えず、この環境だからできることを徹底しました。
むしろ人数が少ないからこそ、一人当たりに割ける練習時間は多くなります。
人数が少ないからこそフットワーク軽く動けます。
しかし、前向きにやってもやっても公式戦では勝てません。
監督初年度は一つも勝てませんでした。
シーズン中は近隣の学校にお願いしてメンバーに入っていない選手を貸していただき、たくさん試合をさせてもらいました。
冬になれば、強豪校の監督に電話をし、
「学ばせていただきたいので練習に混ぜていただくことはできますか」
とお願いしました。
全部で約5校ほどの練習に混ぜてもらいましたが、うちの選手5名とマネージャーは緊張しながらも充実感いっぱいでたくさん吸収させてもらいました。
根底にあったのは
「この生徒たちが高校時代の野球を通して、何か一つでも学んでほしい。勝たせることができるかわからないけど色んなところに連れて行って野球を見せてあげることはできる。」
という思いです。
自分が野球を通して学ばせてもらったように、この生徒達にもなにか財産となるものを学ばせてあげたい。
そう思い毎日を過ごしていました。
最後の夏も選手は5名、助っ人4名でした。
他の競技も高体連を控えている中、他の部活の先生方も
「野球部は頑張っているから」
と生徒を送り出してくれました。
ケガなんかさせたらもうお詫びのしようがないと思いました。
細心の注意を払いながら、心を込めて戦いました。
北海道では北北海道大会、南北海道大会の優勝校2校が甲子園に出場できますが、高校数が多いため北・南北海道大会に出るための地区予選が行われます。
最終的には地区大会で準優勝まで勝ち上がることができました。
勝ちがすべてではありませんが、勝つことでしか味わえないことはあります。
前年1勝もできなかった生徒たちが勝ち進み、決勝戦まで駒を進められたことは彼らにとっての財産になったと思います。
そして、どんな環境でもできることは無限にあるということ、
制約の中でこそ知恵を絞り、アイディアが生まれ、執念が出るということを私自身が学ばせてもらいました。
現在
なぜ教員を辞めて米国行きを選んだのか
3年半教員を務めていて、このまま教員として数十年間働き続けることに疑問を感じていました。
「自分はまだ20代そこそこで『先生』と呼ばれ、自分が学んだことや自分の周りで常識とされていることを生徒たちに伝えていく。素直な生徒ほど先生の言うことを聞いてくれる。本当にそれで良いのだろうか。英語を教えていても自分がカナダで学んだ英語をこのままずっと教えていくので良いのだろうか。学ぶ時間がないとは言わないが、この狭い世界で教え続けることは自分にとっても生徒にとっても良いことではないのではないか。」
と感じるようになりました。
当然、仕事を頑張れば頑張るほど「来年は担任だ」とか「卒業生を出したら分掌部長だ」とかどんどん自分の背負うものが大きくなっていってそれにも待ったをかけたいというのもありました。
やりがいと同時に「自分はこのままで良いのだろうか」と思うようになりました。
当時から結婚はしていましたが、子どもができると数年は思い切った挑戦もできないと思いました。
そんなときに監督を務めていた野球部員が引退して部員がゼロになってしまいました。当時は目の前の生徒と関わるのに精いっぱいで選手のリクルートの仕方もわからず、勧誘をしていませんでした。また、「しっかりやっていれば噂は広まって選手は集まる」と考えていました。
野球部の活動がなくなり、時間ができて考える時間が多くなったこともあると思います。
もともと、日本の野球界には良い部分とそうでない部分があると思っていました。私自身、野球を通して本当に多くの出会いがありましたし野球への取り組みを通して成長させてもらった部分が大きいです。だからこそ私も野球の指導に携わりたいと本気で思えました。
一方で野球界への疑問もありました。本当に社会で重宝される人間を育てるためには自分で考え、行動する人を育てることが大切だと考えています。
そこでアメリカ野球の指導に携わりたいと考えたのです。アメリカは良くも悪くも日本とは文化が大きく違います。その中で英語を使って指導をするという困難な状況に身を置くことによって自分を磨く、そしてアメリカでの指導を通して野球そのものを学び、将来日本の指導者として人を育てていきたいと思いました。
場所選びのプロセス
そして、所属するチームを探し始めました。
ネットで「アメリカ野球 指導者」などと検索しいくつか候補となるところを見つけました。メールを送って思いを伝え、返信があったところと数件オンラインとオフラインで面談をしました。
オンライン面談をすっぽかされたり、面談をしても何かピンとこないところもありました。
そんな中で一つだけ、わざわざ私の住む地方の田舎までアメリカから飛行機で来てくれた方がいました。直接会って話をしそこでお世話になることに決めました。
そこはアメリカの大学野球部とつながりがある日系企業でそこでお手伝いをさせていただきながら野球部に携わるという条件でした。こちらから頭を下げてやらせてもらうわけですからボランティアでも良い気持ちで探しましたが結果的に働かせてもらう場所もあったのは幸運としか言いようがありません。
夫婦で話し合い、妻は日本に残ることにしました。経済的な問題もありました。
複雑な気持ちと周囲からの風当たりが妻にはあったと思います。
なので
「必ず何かを学んで帰ってくる。将来の自分を支える経験にする。」
と心に決めて渡米しました。
渡航、野球部へ
渡航後は早速、大学の野球部に関わらせてもらいました。
非ネイティブである私が野球部の指導者として価値を見出すためにはどうしたら良いのか。関わりながら考えていました。過去にカナダの大学野球部に所属していた時の経験から圧倒的な行動力が大切だということはわかっていました。
誰よりも早くグランドへきて、芝刈りをしたり、選手にノックを打ったりと行動で示していく。しかし、今回は少し違いました。前回は学生という立場で時間にも制約はありませんでした。一方、今回は働く場もある中での野球指導です。この会社がなければビザもなく、野球の指導に関わることもできないのです。当然会社には感謝しかなく、仕事に貢献したいという気持ちも強かったです。その分、特に平日はずっとグランドにいるということにはなりませんでしたし、数時間かけてのバス移動が必要な試合には帯同できないこともありました。
なので時間ではなく、質、実力で見せるしかないと思いました。
どうすればそこで価値を生み出せるのか
数日野球部の練習や試合を見ていると気付くことがありました。
「体がデカいな」
「打者のスイングが強いな」
それと同時に
「守備、カバーリングは粗い」
「走塁もまだまだ詰めれる」
「バントはきちんと教えてもらったことはないんじゃないか」
打つ、投げるに関しては長年チームで指導をしている監督、コーチがプライドを持って教えている感じはありました。
「ここは自分がグイグイ行くところではない。ある程度尊重すべきところ」
と感じました。
OBばかりが監督、コーチを務めているチームです。
やはり外様に対する警戒心というのはありますし、ましては僕はどこから来たかもわからないアジア人。彼らにもこれまで積み上げてきたものがあります。
粗くなってしまいそうな鼻息を抑えて、相手を尊重する姿勢が大切です。
一方で前述した守備や走塁、バントなどに関しては監督、コーチも重要性はわかっていたもののなかなかそこまで手が回っていない、どう指導したら良いかわからないという様子でした。
「ここしかない」と思い、上記の分野に特化して教えるようにしました。
そうはいってもなかなか簡単に英語で技術的な指導ができるわけではありません。ただ一生懸命話せば選手は理解しようとしてくれました。時には冷たい態度を感じることもありましたが、実力不足を受け止め、失敗しながらも果敢に攻めていきました。
とはいえ、野球指導の英語なんてネットで調べても中々出てくるものではありません。
「後ろから入れ」
「グラブを出すのが遅い」
しかし、Youtubeで技術解説をしている動画を字幕付きでみてはそれを止めて
"Get behind the baseball" (後ろから入れ)
"show your glove earlier" (もっとグラブを早く見せろ)
などの表現をノートに書き留めていきました。
また、練習中は常にメモを携帯し、
「こういう時は何て言うの?」と選手やコーチ、監督に聞いて知ったことをメモしていきました。最初はメモを見ながら必死に話しました。野手陣とかポジション別、さらにはチーム全体を集めて話すこともありました。事前に何度も何度もリハーサルをしたはずなのに中々言葉がうまく出てこず、口がパサパサになるのを感じるのことが最初は多かったです。笑
そんなことを何度も繰り返し、時には"What?"(なんて言っているのかわからん?)とか10代の選手に言われたりしながら、それでもめげずに前へ前へ進んできました。
言語面では劣等感はありましたが私はノックには自信がありました。体は小さいですが、長いバットを使い、うまく体を使うことができればノックの打球は飛びます。アメリカでは特に良い打者が多いので、試合中外野への大飛球が多いです。その練習のために伸びる外野フライ、外野手後方のフライを毎日打ちました。目を切ってボールを追う練習もさせました。また、外野手へのゴロも試合と限りなく近い回転で打つよう心掛けました。
私は外野手担当だったので外野ノックを打つことが多かったです。
外野手にとって一番難しいのは真後ろのフライ。これをたくさんやりました。ゴロ捕球も地道な練習をたくさんやりました。グラブの面を前に向ける、グラブは下から上へなど毎日毎日繰り返しました。
内野手に対しても、なるべく低いバウンドで試合と近い回転の打球を打つようにしました。
私は「ノックで内野手、外野手のレベルが変わる」と思っています。
「野手をうまくするノック」というのが存在します。もちろん言葉がけや選手の意識は大切ですが、それを生かすも殺すもノック次第だと思っています。
そんなことを伝えながら毎日毎日ノックを打ち続けました。
すると選手もどんどんうまくなっていき
「また打ってくれ」
と選手が言ってくれるようになります。
それと同様のことを走塁やバントでも積み重ね、少しずつチーム内での信頼というか立ち位置を作っていくことができた気がします。
私にとってアメリカ大学野球での指導は野球そのものを学ぶというよりも人生修行でした。
「どうすればこのチームで自分の価値を出せるのか」
これを考え続けた3年間だったと思います。
捉え方によっては差別や冷遇と感じるような出来事もあったかもしれません。でも私は実力不足と捉えるようにしました。
「実力があれば言葉も人種も関係ない」
そう自分に言い聞かせて、できることを毎日積み重ねてきました。
野球でなければ続けることができていなかったかもしれません。
コロナがあり、活動ができない期間もありました。
コロナが流行り始めた時は
「このまま妻に会えないまま死んだらどうしよう。アメリカにいて良いのだろうか。野球どころじゃない」
と本気で考えたこともありました。
それでも続けました。
「ここで辞めたら妻に申し訳ない」
その気持ちが野球を続ける原動力になりました。
野球の指導方法よりも人として
・一つのことと向き合ったこと
・マイノリティとして自分の価値を生み出すために努力をしたこと
がアメリカ野球での私の財産になりました。
ただ、この経験をしたことでさらに野球への思いが強くなりました。
日本へ帰ったら野球の指導者として、良い野球選手よりも社会で通用する人、広い視野を持てる人を育てられる人間になりたいと考えています。
世の中は野球だけではありません。
野球がうまくても、天狗になって野球でしか輝けなければ意味がありません。野球選手としての栄光が大きすぎてそれにすがっているようではいけません。
下手くそでも構わないので、人の気持ちを考えることができて、物事を広い視野で見れる人になれば社会に出た時にも重宝される人間になると思います。
やらされる野球ではなく、自ら考えて失敗して成功する。自らの経験からしか学べないものはあります。能動的な人間は能動的な野球ができます。
アメリカで3年間大学野球部の指導に関わらせてもらい、これを可能にしてくれた会社、受け入れてくれた野球部、そして妻には感謝しかありません。
この3年間で自分が何かを成し遂げたとかそういうことはありませんが、貴重な経験ができたと思っています。
最後の年には所属地区2位の成績でプレーオフに進出。
また、奨学金をもらって有名私立4年制大学へ編入する選手を3年間見ることができました。活躍する選手はどのようなメンタリティで日々を過ごしているのか、それを近くで見ることができたのは財産です。
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そしてこの経験をここで終わらせてしまっては意味がありません。
この経験を将来の選手たちや日本の野球のために還元することがこれからの私の役目です。そしてそれが関わってくださった方々への一番の恩返しだと思っています。
繰り返しになりますが私は野球を通して「人を育てたい」と本気で考えています。
良い選手を育てること、勝つことも当然大切です。
むしろそれを目指さずに人間形成だけを謳うのは勝てないことやうまくならないことへの言い訳というか正当化だと思うこともあります。
なので、結果を出すことはもちろん大切ですがそれ以上に多角的に物事を考えることのできる人を野球を通して育てたい。
それが今後の私の目標です。
※2024.01.14 追記
2022年8月に日本に帰国しました。
現在は中学硬式野球チームでコーチを勤めています。
おわりに
長い自己紹介となってしまいましたが、自分がこれまで野球を通して学ばせてもらったことを関わる人たちやnoteを読んでくださる人たちと共有したいと考えています。
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