映画カラオケ行こ!で聡実くんが捧げたのは、ソプラノじゃなく狂児が肯定した地声の方だったのでは?って話

以下は自分の前からあるXに投稿していた内容です。

ねえ!!!!あとさあ!!!!今日気付いたんだけど!!!
映画カラオケ行この聡実くん、紅で捧げたのってソプラノじゃなくない!!!?? 狂児に「綺麗じゃなくて良い」って言われた方の、地声じゃない!!!??? ハ!!? でもそうじゃん!!! 原作が「最後のソプラノ」だから超バイアスかかってた……

めちゃくちゃ目から鱗というか……逆になんで今まで気付かなかったんだ……! ソプラノじゃないよ!!! ソプラノじゃないじゃん!!! 合唱の時と全然違うじゃん!!! 少年期の最後の一筋じゃなくて、狂児が認めてくれた、地についた「これからの自分」を……あげてるんじゃん………………

え……じゃあ何……?? 狂児って原作と映画で、聡実くんの今までとこれからを両方貰ってんの……??? ハ??? 何??
“全部”じゃん………………

すべて書いてしまってると言えばそうなんですけども、これ自分が映画を10回くらい見た時にやっと気付いた要素で、再度触れる機会を失っておりました。
しかし円盤発売前に、改めて検証したく掘り起こして来ました。
以下おつきあい頂けますと幸いです。



⬛︎そもそも音域が全然違う!のに、強固だった原作の先入観

映画では冒頭、聡実くんの合唱シーンが映り、この時の聡実くんはソプラノで歌っています。ただ何かのイベント登壇でご本人が仰ってたんですけども、聡実くんのソプラノ音声は『吹き替え』だそうなんです。(口パクが大変だったとおっしゃっていた)
……言われてみればそりゃそうだ!岡聡実にぴったりな上に、ボーイソプラノまで出せる14歳(15歳)の俳優なんて、地球上のどこを探したって見つかる訳がない!
しかし、「原作はソプラノの紅を捧げたので、映画もその設定のはず」という先入観は固かった。吹き替えを知ったにも関わらず、その後も自分はその思い込みを抱いたままでした。

⬛︎映画の聡実くんは、ソプラノではなく、声変わり後の声を捧げている! そしてそれは、映画の狂児だけが認めてくれたもの。

そのフィルターが剥がれ落ちたのは、たぶん映画を10回以上見たタイミングでの上映中でした。紅のシーンで、急に雷に打たれた様に、「……この紅、ソプラノじゃないじゃん!!聡実くん、狂児に肯定された、地声の方で歌ってるんじゃん!!!」と気付いたのです。
まさに目から鱗。同じ歌声を二桁以上聴いていながら、それまで全く認識しなかった(というか、判っていたのに無視していた)事実に初めて気付くとは、先入観の恐ろしさたるや。
そして同時に、「だから屋上のシーンってあったのか! ただの友好を深めるイベントじゃ無く、地声の紅を捧げる動機として、必要だったから屋上ってあったんだ!!」とも気付き、脚本家・野木さんの鬼才っぷりに震えました。

作中の流れをおさらいします。
映画の聡実くんは、冒頭の合唱大会でボーイソプラノを披露しているも、ソプラノが段々消えて行くことに悩んでいました。そんな矢先に出会ったヤクザの狂児と打ち解ける中で、ぽろりと「ソプラノがもう綺麗に出えへんから、うまく歌えん。次の合唱大会に出られそうもない」と悩みを告白します。
それに対する狂児の返事は、「アホやなあ。綺麗なもんしかあかんかったら、この街ごと全滅や」。
『綺麗なもんじゃないから、ダメだ。』と思っていた、今の自分の声を肯定されて、聡実くんはハッとした表情のあと、笑みを浮かべます。
そうして最後の合唱大会に向かう前、聡実くんはお母さんにこう言います。
「どうせうまく歌えへんと思う。それでもええかなって」
……思えばこの時、既に聡実くんは、それまで自分の中で神聖視していたソプラノに、ほとんど決別を告げていたのではないでしょうか。
そうして狂児の車の事故を見たのを直接のきっかけとして、ソプラノの残滓と自ら決別した過渡期の少年・聡実くんは、狂児が肯定してくれた『今の自分の声』での紅を、力の限り捧げます。
地獄にいる狂児への、鎮魂歌として。


…………神が作りたもうた脚本でしょうか。

完璧すぎる構成で目眩がしてきました。これ逆に、まだオリジナル脚本なら理解できるんですよ。凡百の人間なら絶対に引きずられてしまうだろう、原作付き映画でこの精密なコントロールをしているんですよ。
野木先生が外科医だったら、間違いなくブラックジャックになられていたと確信します。

そうして改めて、このソプラノが出ない聡実くんをはっきり肯定してくれたのは、映画の狂児だけなのです。原作映画の登場人物すべてを通しても。
これは映画『カラオケ行こ!』が大ヒットした根源にも繋がる、映画のふたりだけの、とっても“エモい”関係性だと思います。
原作を最大限尊重しながらも、ここでしか見れない聡実くんと狂児が、この映画の中には確かに居ました。
だから何度も見たくなる人が続出したのではないでしょうか。

※ちなみに、「どうせうまく歌えへんと思う。それでもええかなって」の台詞から、もしや家を出る時点で合唱大会でも地声で歌う覚悟を決めていた?とも考えましたが、その後の合唱リハーサルで「歌えません」と言っているため、元々は出ない声でも、大会ではソプラノで歌うつもりではあったことが伺えます。
※追記:また原作にはあった「歌い切って声が枯れるシーン」が無かったことも、映画の紅がソプラノではなかった傍証になっていると他の方の意見で気付かせて頂きました。(ありがとうございます!)

⬛︎なぜ紅が地声であることに気づかなかったのか?

こうなると逆に疑問が湧いてくるのは、「そもそもなぜ紅の地声に気付かなかったのか?」という点です。吹き替えと言われたら一瞬で納得する位には、分かりやすかったのに!
それどころか例えソプラノが聡実くん自身の声だったとしても、合唱と紅の音域が違うのは、誰が聞いても明白だった筈なんです。(ちなみに、他の方のつぶやき情報から、最後の聡実くんの紅は原キーから2キー下設定らしいです。)
では、なぜ自分はどちらも「同じソプラノ」だと解釈したのか?

……要するに、合唱大会と紅の音域が異なるのは、実写作品でよくある、『そういう事にしてくれ』案件だろうと、無意識に脳が処理していたんですね。
どう見ても成人の俳優が高校生を演じていても突っ込んではいけないように。髪色がカラフルな中学生女子や、金髪カツラを被っただけの『外国人』がいても突っ込んではいけないように。
観客としての過去の経験から、音域の違いは、「手持ちのリソースではこれが限界だから、その矛盾には触れないでくれ」という、制作側からの暗黙のお願いだと思い込んでいたのです。これは日本の、特に漫画原作の実写化作品を見慣れた人間ほど陥る罠だったと思います。

それが最大の要因でありつつ、もう一つ原因を挙げるならば、原作設定を知っていた+その原作設定を、そこまで変える実写映画などあるはずないという、先入観も大きかったのだと思います。

……いやだって、原作であれほど重視されていた「最後のソプラノ」を、実写化作品で事実上だけでなくストーリー上も「地声に変更」して、更には「地声を捧げる動機」まで物語に組み込むなんて、誰が想像します!!??
別にあれを『ソプラノということにしておいた』って、観客は文句言わないだろうに!

実際、今までこの解釈を公表している方はお見かけしなかったので(いたらごめんなさい)、原作既読の観客の99%位は、あの紅を『最後のソプラノ』として受け止めたのだと思います。しっかり自分もその一人でした。
ただ原作未読の方であれば、映画本編のみの情報で、最後の紅が地声だと自然に受け取った方もいらっしゃったかもしれません。
しかもこのギミックの恐ろしい所は、観客があの紅をソプラノだと解釈したままでも、鑑賞の質に支障がないところです。
そんな魔法みたいな脚本ある……?? それがあったのが、映画『カラオケ行こ!』でした。

⬛︎映画公式は(おそらく)一度も「ソプラノを捧げた」とは言っていない

そして全てを確認はしてないので断言は出来ませんが、おそらく映画公式も、「映画の聡実くんが最後のソプラノを捧げた」という表現は、一度もしていないのではないかと思います。(もし違ったら教えて下さい)
物語のオチでもあるためネタバレを避ける目的もあったかもですが、捧げたのが実はソプラノじゃなかったんだとしたら、答え合わせが出来ます。
しかもそれを広報等にまで徹底していたのだとしたら、チームカラ行この敏腕さに唸ります。

※なお公式Xを確認したところ、「ソプラノ」が含まれる投稿は2023年の2件のみでした。

⬛︎成田狂児は漫画と映画で、岡聡実の人生のすべてを差し出されている

以上は観客が得られる情報のみを整理した仮定であり、制作側が「そのつもり」だったかどうかは、結局はご本人に訊かないと判りません。
しかしこの仮定が概ね真であったとき、メディアミックスも含めた『カラオケ行こ!』総括世界の成田狂児には、新たな意味が付与されることになります。
それは原作と映画を通して、原作では声変わり前の聡実くんのアイデンティティを、映画では声変わり後の聡実くんのアイデンティティを捧げられたことで、成田狂児は『紅』を通して、概念的に岡聡実の人生すべてを捧げられてしまったと言うことです。
これが果たして『ファミレス行こ。』に繋がるカラ行こ世界に、何がしかの影響を及ぼすのか、どうか。

原作者の和山やま先生は映画に大変肯定的でいらっしゃいますし、映画スチールをオマージュしたイラストを描かれていたりと、既に映画カラオケ行この要素は、原作にも融合していると言って構わないと思います。
映画カラ行この世界が原作に影響していくかどうか、そしてその影響を読み取れるかどうかは分かりませんが、この先のカラ行こ世界をとても楽しみにしています。

⬛︎映画カラオケ行こは、全てが「本物」で構成された、宝石箱の様な実写化作品。

ここまで整理して、改めて映画『カラオケ行こ』は、ひとつも誤魔化しが無く、全てが本物で構成された、稀有な作品だと確信し直しました。
実写化にも名作は数あれど、「そこは誤魔化しておいてくれ」が一切ない漫画実写化というと、海外作品を含めても映画カラオケ行こは、最高峰に数えられるのではないでしょうか。

このような映画をリアルタイムで鑑賞できたことは大変幸運だったと思います。ありがとう全ての関係者の方。ありがとう当時レポで宣伝してくれた方。
BluRayで得られる新情報も楽しみにしています。

■追記:映画の狂児は『紅』を聴いているとき、自分が肯定した方の声を聡実くんに捧げられたと知っている……

……以上で証明終了の予定だったのですが、ここまで書いて初めてもうひとつ気づきました。
映画の狂児って、聡実くんの『紅』を聴いてるとき、自分が肯定した方の聡実くんの声を捧げられているって、判っていたって事ですね……。
だって合唱大会のソプラノも、屋上の記憶も、今聡実くんが歌っている地声の『紅』も、すべて情報が揃っているから……。

そりゃあ『紅』を聴いてる時の、あの表情になるわ……。

そんなん矢がブッ刺さらない方がおかしいです。
映画の狂児って、しばしば原作の狂児(現ファミレス行こ。の狂児)と比較して、「なぜか映画の方が自信満々にみえる」「映画のふたりだとわだかまりがなく見えるから、『映画ファミレス行こ。』をやってもすぐ話が済んじゃうんじゃないか」等と言われることが多いと思うんですが、その謎が解けたかもしれません。
自分が死んだと思って自分の好きな紅を捧げられただけでなく、その声が自分が肯定した方の声だと判ったら、それはもう、心が通じ合ってしまったと思うよね……。
映画の狂児は、聡実くんの『確認』を受けるまでもなく、聡実くんとの絆に根拠も自信もある……から、観客からもそう見えるのかもしれません。
ラストシーン、聡実くんがまだ名刺を持っているかどうかを確認するまでもなく、いきなり電話をかけている(らしい)のも、それだけ根拠があってのこと……という事なのでしょう。

……野木大先生、映画ファミレス行こ。がどう始まってどう終わるのか、本当に楽しみにしております……。

■追追記:『聡実が狂児を照らして初めて狂児は存在する』

更にもう一点、情報を反芻していて「あー!」と思った雑感を追記しておきます。
公式クランクアップ動画で綾野剛さんが仰った「聡実が狂児を照らして初めて狂児は存在する」という言葉があるのですが、今回でそれが腑に落ちたかもしれません。
映画カラオケ行こ!って、原作の実写化でありながら「原作の狂児は…」「映画の狂児は…」と、原作映画の狂児が別個の存在であるかのようにファンに語られることが多いと思うんですが、
原作の狂児が貰った『これまでの岡聡実』と同じくらい大きな、『これからの岡聡実』を貰ったことで、映画の狂児は原作コピーではなく、独立した存在として、命を得たのかもしれない。と思いました。
綾野剛さんが仰っていた意味と合致するかまでは判りませんが、その一端くらいには含まれているのではないかと思います。

映画自体、どちらかと言うと実写化と言うよりは、アメコミの世界観によくある、『パラレル・ワールドの同一人物』と捉えた方が近いのかもしれません。
環境も性格も少しづつ違う「自分」が、別次元に別個に存在している概念のアレです。(日本公開で一番分かりやすいのは、『スパイダーマン:スパイダーバース』や『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』。)アメコミでは、バースやディメンションと言われますね。
実際、脚本の野木先生はMIU404執筆の時に、日本の刑事ドラマよりはアメリカの刑事ドラマの方を参考にしたと仰っていたかと思いますし、今夏公開の『ラストマイル』でもアメコミやアメリカドラマシリーズ的なシェアード・ユニバース概念が採用されており、それら概念の理解にも明るいと思われます。
原作と映画の狂児と聡実くんは、そういう風に捉えた方が実態に近いのかもしれません。

また、改めて考えると、あのスナックカツ子のカラオケ会場で、「狂児が肯定した声の紅が捧げられている」と理解していたのって、狂児と聡実だけだったわけで。
そういう意味ではあんな大勢いた中でも、間違いなくあの時間はふたりきりの空間だったという事になり。
対して原作ではあそこに居た全ての人間が「声変わり前の最後のソプラノを捧げた」と理解しているため、そこも対の様になっていると感じました。
証人の様に大勢に立ち会われた原作の紅と、本当の意味を理解しているのはふたりだけな映画。
原作ではあった、聡実くんが歌っている間のヤクザ達の会話や独り言が映画では無かったのも、その空間を壊さない為……だった、のかもしれません。

そんな風に原作付き映画で、唯一無二のオリジナルであり根源である原作キャラと同質の価値を新たに与えられて、独立し肩を並べ得た実写化キャラって他に居るかと言われれば、自分ではちょっと思い付きませんでした。
ますます野木先生始め、山下監督ほか制作陣に平伏する思いです。


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