「知恵をつなぐための森を育てる」小原かご職人・荒井恵梨子さんに突撃してきた
こんにちは!
「長浜森の生活史」第6弾は、小原かご職人・コマイテイ店主など、さまざまな顔を持つ荒井恵梨子(あらいえりこ)さんにインタビューをしました。
「どうして、こんなにもバイタリティにあふれているのか・・・?」
そんな疑問をぶつけに、コマイテイに突撃してきました。
今回も楽しんでお読みください!
荒井恵梨子さん(えりこさん)
1988年生。栃木県矢板市出身。
2018年に長浜市木之本町に移住し、合同会社kei-fuを設立。
長浜市北部に伝わる民具「小原かご」をつくりながら、地域に根付く資源を活かした商品や体験づくりに取り組んでいる。二児の母。
聞き手:渡邊咲紀(さき)・土屋百栞(もも)
カフェ、商品開発、福祉、かご・・・
もも・さき:今日はよろしくお願いします!
もも:えりこさん、色々なことをされているので、始めに活動を整理させてください。まずは、今飲んでいるお茶や、シロップをつくっていますね。
えりこさん:湖北の茶畑で、在来品種のお茶を栽培しています。栽培したお茶は、和紅茶やほうじ茶に製造して、ここコマイテイなどで販売しています。
また、生姜や赤しそといった、地域で栽培されているものを使ったシロップも、いくつかつくって販売しています。
コマイテイは、2019年に古民家を修理して、カフェとしてオープンしましたが、最近は物販コーナーがメインになりつつあります。
もも:あとは、イカハッチンプロダクション(滋賀県湖北地域(旧伊香郡)に移住した、女性8人による活動グループ)ですよね。
えりこさん:私が主体でやっているというよりは、イカハッチンプロダクションの中の何人かがやろうって言いだして。声をかけてくれたので、一緒に活動しています。
えりこさん:その他にコーディネーターとして関わっているのが、長浜市の社会福祉協議会(以下、社協)さんと一緒に立ち上げた、「福祉とデザイン研究会」ですね。
研究会では、福祉分野で課題を抱えている人たちと社協スタッフ、デザイナーがチームをつくり、実践的に新しいアイデアを考える取り組みをしています。
例えば、フレイル予防といって、「高齢者の身体が弱くなっていくのを予防するために、身体を動かそう」という取り組みがあります。コロナ禍で体を動かさない生活が続いたことから、もっと易しく楽しく取り組める方法が必要になったため、新しい体操づくりなどを行っているチームがあります。
もも:フナヤマリサーチハウスの運営や、小原かごも作っていますよね。
えりこさん:フナヤマリサーチハウスは、長浜市街地の古い町屋を改修して、学生や研究者がフィールドワークをするのに長期滞在しやすいゲストハウスとして、運営しています。
小原かごは、2018年から調査や技術習得をはじめて、2023年5月に『自然と神々と暮らした人びとの民具 小原かご』という本を上梓しました。仕事のメインを、かごづくりにシフトしたいと思っているので、今は少しずつ状況を整理しているところです。
出発点は、おばあちゃん家の倉庫
もも:これまでのお話を聞いて、モノづくりの仕事が結構多い印象を受けました。
えりこさん:実は、私は美大出身で、東京藝術大学の工芸科でした。でも、作家になりたいとか、モノが作りたいわけではなくて、文化財の保存修復に興味があったんです。
さき:何がきっかけで、修復の勉強がしたいと思ったんですか。
えりこさん:小さいころ、田舎のおばあちゃん家の倉庫を探検するのが、好きだったんですよ。倉庫の中から、漆器や着物といった古いモノがいっぱい出てきて、それを見るのが好きだったんです。
でも、そういうものはあまり価値がないと思われていたので、ポンポン捨てられてしまったんです。自分が好きなモノが、捨てられちゃうのが悲しかった。
えりこさん:そういう悲しい記憶があったから、伝統工芸に関わる仕事がしたいと思ったんです。子供ながらに調べて、最初は「織りや染色ならできるかな」と考えました。なので、中学を卒業したら、職人に弟子入りすると決めていました。
でも、当然周囲から反対されたので、普通科の高校に行ったんですが、やっぱり織りや染色がやりたくて。
一方で、色々調べたりするうちに、新しいモノを作るよりも、古いモノの保存修復をやってみたいという気持ちに変わりました。
日本では保存修復が学べる大学はあまり多くなくて、当時、大学院から保存修復科があった東京藝術大学を目指すことにしました。
もも:東京藝術大学って、みんな何浪もしているイメージがあります。
えりこさん:私は一浪で受かったけど、たしかに美術系の油絵なんかは十浪している人もいましたね。
学部の頃は、大学院から修復科に行く前提で、いろんな伝統工芸技術を一通り学びながら、専門は鋳造(金属を溶かして造形する伝統技術)を選びました。でも、大学院には行かなかったんですよ。
もも:え、そうなんですか!
震災としな織りの衝撃
えりこさん:大学4年生に上がる直前に、東日本大震災が起きたんです。震災当日、私は岩手県の北部にたまたまいて、避難所生活を2~3日していました。
その経験があったので、大学4年生は就職活動を後回しにして、被災地へボランティアに行っていました。
えりこさん:ボランティアで津波のあった地域の片付けをしている時、モノの修復もすごく大切なんだけど、モノを作る職人さんや地域コミュニティがなくなってしまうと、本当にモノだけしか残らなくなることに気づいたんです。
モノの修復がしたくて大学に入ったけど、「もうちょっとコミュニティや産地、地域に目を向けたい」という考えに変わりました。
それで、地場産業の地域でしばらく働いてみようと思って、結局大学院は行かずに、富山県高岡市で就職しました。
もも:どうして高岡市だったんですか。
えりこさん:高岡市はお仏壇の仏具の産地で、国内の90%のシェアを占めているんです。大学で鋳造を学んでいたので、経験を活かせると思い選びました。
無形文化財へシフト
もも:働きながら、コミュニティについての探究もしていたんですか。
えりこさん:約3年間、会社員をしたあと、フリーランスになったんです。そのとき偶然にも、東北の山間部に受け継がれている、織物の産地に行く機会がありました。
そこは、山からシナの木を伐ってきて、その樹皮を糸にして織る「しな織り」の産地でした。繊維を細かく裂いて、一本一本手でよりをかけて糸を作るところから始まる、途方もない作業です。
大変な作業だし、もともと副業的な産業だったので、しな織りだけで生計を立てることは難しい。でも、それでも続いている理由が、しな織りを残したいと活動してきた人がいるからなんです。
えりこさん:それまで関わっていた産地というのは、そこにある産業で職人さんが食べていける地域で、つまり産業的に成り立っていたんです。だから、色々課題はあっても、その産業がなくなることは当面なかった。
そういう産地での私の仕事は、どういう風にプロモーションして売っていくか、どう単価を上げるか、形のデザインをどうするかということだったんです。
でも、しな織りはどこからどう考えればいいか、本当にわからなかった。
えりこさん:それで、そういう未知の課題を考えようと思って、文化財の保存修復分野に戻ったんです。今まで志していた有形のモノの修復ではなくて、無形文化財といった「目に見えない部分の文化をどう扱うか」を学びたいと思って、金沢大学の大学院に入って研究を始めました。
今も博士課程に在学しています。
もも:どういう研究をしているんですか。
えりこさん:小原かごのような伝統技術をつなごうと思った時に、職業として携わろうとするとなかなかハードルが高いですよね。
でも、趣味として関わる人たちがもっといてもいいんじゃないかと思うんです。
なので、伝統技術の継承の現場で、「なにかをつくるのが好きな人たちが、関わりやすく活動しやすい緩やかな土壌をつくることが大切なのでは」という視点で、研究と実践をしています。
文化財としての技術が、保存会という形だけで残されていくのではなくて、もっと身近なものとして触れる機会が増えたらいいなと思っています。
小原かごについて
えりこさん:結局、しな織りの産地には2年半くらい通って、調査もさせてもらいました。でも、しな織りの当事者になるのは、難しかったんです。
もも:当事者というのは、つくり手になるということですか。
えりこさん:そうです。「研究者して調査しました」とは言えるけれども、技術継承の視点で本当に産地が求めているのは、当事者になってくれる人なんです。
調査をする中でそのことを体感したので、いずれは私もどこかの地域の当事者になっていきたかった。腰を据えて、時間をかけて、当事者として何かに取り組みたかったんです。
そんな場所を探していたときに、夫の地元である長浜市を訪れました。自分が携われそうな技術や、調査対象になるものを探す中で、小原かごと出会って、長浜市木之本町にたどり着きました。
さき:小原かごのようなモノは、大量生産の現代では価値に気づく人が少ないと思うのですが、えりこさんは、どこに価値があると思ったのですか。
えりこさん:小原かごが産業的につくられていたのは、約70年前までなんです。
この70年で、モノの価値や貨幣の価値はすごく変わっています。
だから、「70年後と今の価値が同じ」ということは、あり得ないですよね。今は100円で買えているモノが、将来は1万円になる可能性もあるんです。
今、これまで身近な素材を使ってつくれていたモノが、「つくるのが大変だから」という理由で、安くつくれる素材や地域で大量生産されています。
そういう風に、身のまわりに資源があるのに、使い方がわからなくなっていくのは、怖いことだと思っています。
今100円で買えているモノが、将来1万円になって買えなくなり、まわりに素材はあるのに扱い方がわからない。そうなったら、商品を買うしかないから、お金を使うしかない生活が待っている。それって結構怖いこと。
えりこさん:だから、小原かごのような技術を残すのは、単にこの技術がいいから・すごいからというだけではないんです。
これまで1000年、2000年と続いてきたものが一度途絶えたら、もう復活することはおそらくできない。でも、細々とでもいいから残っていれば、もう一回復活することができる。
だから、何十年後かわからないけれども、未来の人たちに「こうすれば使えるじゃん」というのを伝えるために、今とりあえず繋げておく。そういう感覚で携わっています。
さき:3~4世代あとの人たちのことを考えているんですね。
えりこさん:昔の人は、そういう感覚が強かったと思います。
価値は、価値があると思う人にとってはある。
「小原かごに価値があるかないか」というよりは、この技術を今なくしたら、将来、資源を使う術を見いだせなくなってしまうから、細々と活動しています。
次世代が安心して伐れる森づくり
森に入って思うこと
もも:小原かごの材料採取などで、森に行く機会って結構ありますよね。えりこさんが森の中で感じることって、何かありますか。
えりこさん:私は栃木県の出身で、家のまわりは田んぼと森しかなかったんです。小さい頃は、遊ぶといったら森の中でした。
だから、森に入ること自体は、違和感や抵抗感は全然なかったです。
えりこさん:子供ながらに覚えているのが、いつも歩く林道の左側と右側で景色が全然違ったことです。左側の山は同じ木がきれいにそろって生えていて、右側の山はいろんな種類の木がバラバラに生えていました。
「なんでこの道一本をはさんで、全然違うんだろう」と思いながら歩いていたのが、すごい記憶に残っています。
大人になってから、左側の山は植林された杉林、右側の山は雑木林で、道が所有の境界だったことに気づきました(笑)。
そういう風に、小さいときに疑問に思ったり、不思議だったことが、今につながっている感じは結構ありますね。そのときに山に入っていた感覚と、今入っている感覚は結構近いかもしれません。
えりこさん:それこそ、昔山で暮らしていた人は、そういう不思議や発見にあふれていたんだろうなって思います。私なんかでは到底わからない、身体知みたいなものがあふれていたんだろうなって。
たとえば、太々野㓛さん(小原かごの師匠)の小さいころの話ですが、森の中に、伐りかけて伐られていない木が結構あったらしいです。
それは、のこぎりを何回か入れたら、かごの材料に適している木かどうかが昔の人にはわかったから。「これはあかん木や」って、伐るのをやめちゃったそうです。
それを聞いて、すごいなと思いました。私も材料採取をしているけど、そんなことはさっぱりわからないです。
でも、森に入るときは、なんとなく人の入った気配を感じながら入っています。株立ちになっている木を見て、「ここに昔、人が入っていたんだろうな」ってふと思ったりします。
小原かご職人へ
もも:えりこさんのこれからやりたいことは、何ですか。
えりこさん:今年から、本格的に小原かご職人を目指そうと思っています。
最初は、小原かごで生計を立てるつもりはあんまりなかったんです。小原かごのつくり手は太々野さんしかいなかったし、産地である村もすでにないし、正直、生業としてつづけるのは難しいだろうと思っていました。
だから、せめて「小原かごという技術がこの地域にあった」という記録だけでも残そうと思って、本を出したんです。
えりこさん:でも、本を出したことで、いろんな人に小原かごのことを知ってもらったり、「2023 文化で滋賀を元気に!大賞」を取ったりして、本当に貴重な技術なんだなというのが改めてわかりました。
今後、本当に仕事にしていこうと思ったら、小原かご自体の価値を上げていかないと厳しいです。でも、それを丁寧に考えて実践していけば、「生業として続けていけるかもしれない」という気持ちに変わりました。
えりこさん:でも、生業としてかごをつくろうと思ったら、材料を持続的に採れることが必要なんですよ。かごづくりを続けるためには、山の整備から手をつけないといけないんです。
小原かごの材料は、樹齢10~15年くらいのイタヤカエデやモミジなんですが、現在の湖北の森に全然ないので、探すのに一苦労しています。萌芽を獣に噛まれてしまったり、森全体に大きな木が増えていることで若い木が育ちにくいんです。それに、森は誰かの所有地なので、どこでも伐っていいわけではないです。
だから、今年から、材料となる木の苗木を植えたり萌芽を守ったりするなどして、小原かごの材料が採れる里山の整備を始めようと思っています。
今植えておけば、20年後に「小原かごをつくりたい」という人が現れたとき、その森から材料を採って、つくり方を教えられるじゃないですか。それに、かご以外でも自然と共存する技術を学ぶフィールドになるかもしれない。
今はそれができる場所がないんですよ。
えりこさん:まわりにたくさん森はあるけど、「ここなら伐って大丈夫」って言える森が今はないんです。なので、採取について知りたい人がいても、いろいろな事情で今は難しいです。小原かごの技術は、材料の良し悪しもすごく重要なので、技術継承という意味では大きな課題です。
だから私は、「ここなら伐って大丈夫」と安心して材料採取ができる森を育てて、私が太々野さんから教えてもらった知恵を次の世代にもつないでいきたいです。
今回のお手伝い
今回は、小原かごの材料となる、イタヤカエデの丸太を割るお手伝いをしました。
「良いかごをつくるには素材の良し悪しがとても重要で、素材が良いと、割っていて粘っこい感じがするんです。でも、この材はあまり粘りがないですね。」と、えりこさん。
たしかに、言われてみれば、粘りがない・・・?
初めてなので、全然わかりませんでした(トホホ)。
割った丸太は、編むための「ハゼ」と呼ばれる材料に仕上げていきます。材に粘りがないと、ハゼを作っても編むときに折れやすく、かごにしても長持ちしないそうです。
こういう知見を文章で伝えるのはやはり難しいですね。身体知の大切さを感じました。
<編集後記(もも)>
いろいろな取り組みをされているので、「えりこさんって何人いるの?」と私はいつも思っていました(笑)。でも、今回のインタビューを通して、「おばあちゃん家の倉庫にあった古いモノ」から生まれた問いを、実践しながらあたため続けていることが感じられました。小原かご、私も習いたいです。
次回は、グリーンウッドワークで木の雑貨をつくる「木音工房」の北川勇夫さんにお話を伺います。次回もお楽しみに!
<聞き手・ライター>
渡邊咲紀(さき)
1998年生。余呉町生まれ、名古屋育ち。2019年に出身地である余呉町に戻る。現在は、長浜市内の農園で仕事をしている。
土屋百栞(もも)
1997年生。茨城県出身。2022年秋より、長浜市の地域おこし協力隊に着任。森林浴などの活動を通じて、自然との結びつきを感じる機会づくりを模索している。