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「否定されたら証明したい」奥びわ湖・山門水源の森、森林キーパーの冨岡明さんに突撃してきた

こんにちは!
「長浜森の生活史」の第3弾は、長浜市旧西浅井町にある、奥びわ湖・山門水源の森の森林キーパー・冨岡明(とみおかあきら)さんにインタビューをしました。
美しい山門水源の森では、日頃どんな活動が行われているのか。冨岡さんの知られざるバックグラウンドについても、迫ってきました。

<プロフィール>
冨岡明(冨岡さん)

ハイカグラテングタケとともに

1968年生。旧浅井町出身、在住。2012年より、奥びわ湖・山門水源の森の森林キーパーとして、森を整備する活動を続けている。

<聞き手>
渡邊咲紀(さき)
1998年生。旧余呉町出身。2019年に出身地である旧余呉町に戻る。現在は、旧余呉町にある農園で働いている。

土屋百栞(もも)
1997年生。茨城県出身。2022年秋より、長浜市の地域おこし協力隊に着任。森林浴などの活動を通じて、自然との結びつきを感じる機会づくりを模索している。


山門水源の森について

さき・もも:今日はよろしくお願いします。
冨岡さん:よろしくお願いします。今日はまず尾根道を通って、作業を手伝ってもらう場所へ行きます。

通称、エビフライ

冨岡さん:これ(上の写真)は、リスが松ぼっくりを食べた跡なんです。このアカマツの木の下にたくさん落ちています。
さき:かわいい。きれいに食べますね。
もも:きれいに食べられているのと、雑に食べられているのがあって、おもしろいですね。周りの木はヒノキが多いようですが、ヒノキ林はどれくらいあるんですか。
冨岡さん4割くらいあります。このあたりのヒノキ林は1988年頃に植林されたらしいので、35年くらいの樹齢なんですよ。最初のうちは手入れがされていたそうですが、木材の値段が下がってからは放置されて、それからずっとほったらかしの状態です。バブルのとき、このあたりの土地にゴルフ場が建てられる計画がありましたが、バブル崩壊などを経て、滋賀県が土地を買収して県有地にしました。そのときからヒノキの材木としての価値はみられず、今でも、県としてはここのヒノキをどうするかという将来設計は特にないそうです。そんなヒノキ林ですが、山門水源の森を引き継ぐ会(以下「引き継ぐ会」、2001年から山門水源の森を管理しているボランティア団体)の藤本秀弘さんたちは、ヒノキの財産的価値がないと言われようと、「いろんな人が苦労して植えた木を、あんまりおろそかな仕方で放っておくのは、我慢ができない」と、枝打ちといった、ボランティアでできる範囲の作業をするようになりました。藤本さんはもともと炭焼きをしていた家の子どもで、親の世代が一生懸命山を育てている姿を見てきて、そう思われたそうです。

日々の作業風景(糞粒調査の様子)

もも:冨岡さんの、具体的なお仕事の内容を教えてください。
冨岡さん:割と、なんでもありです(笑)。森林整備の作業、獣害対策、人が来た時にガイドをしたり、なんでも屋さんみたいな感じです。内容自体は細かいことまで決まっていなくて、そもそも僕は専門家ではないので、その時々の課題に対して素人がゼロからいろいろ取り組んできた、といった具合です。いろいろやっているうちに、次の課題が見えてきて、それが仕事になっていく感じです。県や、引き継ぐ会とコミュニケーションを取りながら、活動しています。自然と向き合うという面は一部で、結局は人間関係だと思います。人間とどううまいこと折り合いをつけるか、みたいな感じです。

(注:冨岡さんは、県と契約して仕事をしていますが、直接雇用ではなく、ながはま森林マッチングセンターを介して行っています。また、ボランティア団体である、引き継ぐ会の事務局も兼任しています。)

いろいろな試験地

天然更新試験地

冨岡さん:ここは天然更新試験地です。1960年頃まで、薪炭林(燃料として薪材を集めたり、炭焼きを行っていた山)として活用していたところですが、薪や炭を使わなくなったことが原因でいろんなことが起こっています。2010年頃には、全国的にひどいナラ枯れが起こりました。それまでは15年~20年のサイクルで山の木を切っていたけれども、「木を切らなくなって50年くらい放置したことが原因で、ナラ枯れが起こっているのではないか」という説がありました。ナラ枯れを防ぐためには、やっぱり山の整備をすることが大事じゃないかということで、試験的に、昔のような炭焼きを想定して皆伐したんです。

左がネットで囲った区画、右がネットなしの区画

冨岡さん:ここでは、皆伐した後の再生の仕方を見ているんですが、皆伐をした当時は、昼間からシカが出てくるような状況だったので、一方はネットで囲って、出てくる植物がシカに食べられないようにしました。その結果、ネットで囲った方は昔のように再生が進んだけれども、ネットがない方は、シカが好きな植物がどんどん食べられてしまいました。それでも、アカマツやソヨゴは生き残って、今どんどん成長しています。
さき:生えてきた植物が全然違いますね。
冨岡さん:ネットがない方は、針葉樹や常緑樹が多いんです。ソヨゴとか、アカガシといった、シカが食べないようなやつが残っています。一方で、ネットで囲った方は、ヌルデとか、カラスザンショウといった落葉樹が多くて、昆虫の幼虫が餌とする葉っぱが多いんですよ。カラスザンショウはミカン科なんですけど、アゲハ蝶の幼虫は、ミカン科の葉っぱしか食べないんです。山門水源の森にもいる、カラスアゲハやモンキアゲハといった山に住んでいるチョウは、卵を産むときに幼虫が食べられる葉っぱを探して飛んでいるんです。こういうミカン科の木の葉っぱがないと卵が産めないんですね。だから、ネットがない状態でも森は再生するけど、チョウが卵を産めるような木は減ってしまうんですよね。そういう面では、シカの数が多いときは、ネットを張るといった植物への保護をしてやらないと、生き物のバランスを守るのは難しいと思います。そういうことも、この場所で一般の人に説明しています。試験結果が見た目で比較できるので、わかりやすいです。
もも:ここは基本的には放置なんですか。
冨岡さん:基本的には放置ですが、雪の重みでネットが壊れるので、雪が降りかけたらネットを降ろして、また春になったらネットを上げるといった作業を、2012年から毎年ずっと繰り返しています。また、5年に1回、ネットあり・なし区画の比較をするために、植生調査をしています。

シカが減った!

もも:冨岡さんの得意な分野や好きな分野はありますか。
冨岡:得意かどうかはわからないけど、シカの有害捕獲です。僕が山門水源の森に関わり始めた2012年は、シカの数が多いことが特に問題になっていたんですよ。当初は猟師さんに協力してもらえないかと働きかけなどもしていたんですが、山門水源の森のような、車から降りて数十分も歩いて行って狩猟をするのは、優先順位が低いようです。そんな場所を選ばなくても、集落の裏山みたいな場所でもシカはたくさんいましたからね。じゃあ、誰もやってくれないなら自分がやるかということで、2014年に狩猟免許を取りました。農業被害が多いのをなんとかしたいといった思いから、協力してくれる凄腕の猟師さんも現れて、その猟師さんがバカスカ獲ったんですよ。僕も頑張ってちょっと獲りました(笑)。そうしたら、山門地域のシカの個体密度は下がってきました。

糞粒調査によって計測された、シカの推定生息密度

もも:シカが減ってきたなって実感したのはいつ頃ですか。
冨岡さん:4、5年前くらいです。それまでは見たことがなかった花がちょっとずつ見られるようになりました。「昔は、歩いた山道には全部リンドウが咲いていた」と噂に聞いていたけど、そのリンドウが尾根道にも残るようになってきました。今は、その途中段階です。現在は、どの程度シカがいるのか、その推定生息密度を調べるために、シカの糞の数を測る糞粒調査もしています。森林総研関西支所の研究者に手解きしてもらいました。調査を始めた2015年は、1平方キロあたり100頭くらいの数字が出たんです。環境省は、稀少植物の保全とシカが絶滅しないバランスで考えると、シカの固体密度は「1平方キロあたり数頭が望ましい」といっているので、この数値は多すぎです。理想が1平方キロあたり2~3頭と考えると、30倍以上いるということなので。でも、あくまで推定密度ですが、現在は1平方キロあたり6頭程度にまで減りました
もも:感覚的に減ったというのもあったし、ちゃんと数値としても測ってきたんですね。

否定されたら証明したい

もも:山門水源の森では、保全活動や一般の人に森を使ってもらうこと以外にも、試験的なことをいろいろされているんですね。
冨岡さん:所有者である県との委託業務契約で、希少種の保全や、散策道と施設の管理のほかにも、安全に人が通れるように簡単な枯れ木や倒木の処理なども任されています。課題を一言で表現すると「真ん中に希少種が生育している湿原がある森を、どのように管理していくか」なんですが、その見本や手本が無いんです。外部の方にいろいろ聞きに行くと、「山門が最前線」といわれることもあります。こんな素人集団が最前線なんですよ(笑)。そんな状態だから、人に何かを説明しようと思うと、自分らでいろんな調査をやらないと説明できないことも多くあります。また、行政の人たちは気持ちだけでは動いてくれないので、ある程度どういう状態かを説明するのに、定量的な資料があった方が説得力があるので、調査的なこともやっています。

シカの糞粒調査の様子

冨岡さん:シカをはじめとする獣害対策も、最初はあっちこっちに相談しに行ったんですが、「ボランティア団体で何ができるんですか」みたいなことも言われました。ほかには、山門水源の森は暖温帯のアカガシと冷温帯のブナがどちらも生えていて、それは気候の境目だからだと仮定しているのですが、「いや、昔薪炭林だった時に選択的にアカガシを増やすようにしたからで、気候ばかりが影響ちゃうよ」と言う人もいて。でも僕は、気候の境目というのはこの森の特徴になると思っています。「こういう境目にある森だから大事なんやで」というのを推したいんです。それを軽々しく否定されると、証明したいなって思って。そういう原動力もあります。

哲学科へ進学し、家業を継いだ過去

もも:冨岡さんの出身は、長浜市ですか。
冨岡さん:生まれも育ちも、長浜市です。山門水源の森から車で40分くらいのところに家があります。
さき:これまでずっと長浜市内にいたんですか。
冨岡さん:大学の期間は東京に出ていました。僕は高校では文系で、早稲田大学第二文学部に入りました。1年目が一般教養で、2年目で専門にわかれるんですよ。優秀な人は文芸や演劇、美学に進む人が多くて、人気もあった。哲学とか歴史とかはあまり人気がなかったです。僕は成績が悪かったので、定員が空いている哲学に進みました。でもそれが幸運というか、哲学を学ぶ中で、とても濃い人の出会いがありました。そもそも、大学の空気がとても自由で、学部の枠を超えて、僕の常識の枠を超えた人とたくさん出会えたのはいい経験でした。先輩の中には、バックパックで海外に出かけて日本にもう帰ってこないとか、インドにハマってしまうとか、右翼も左翼もいたし、演劇の沼に沈んでいく人など、変わった人がたくさんいましたよ。もちろん、まともで立派な常識人もたくさんいました。そんな大学は卒業できたけど、その後は学問的に哲学を追求するという方向には行かなかったですね。
もも:じゃあ、森で哲学的思想にふけることはないんですか。
冨岡さん:ないです(笑)。けれども、大学時代のさまざまな哲学的な経験は、その後の人生に大いに役に立っていると思います。最近、文学部不要論なんかもありますけど、人文科学の中でも哲学系の学問は、学問という面と技術という面があると思っていて、哲学的な技術というのは、自分が自分のことを見つめたり考えたり、自分と社会との関係を考えざるを得なくなったときに、大いに役立つ技術だと思っています。そういった技術的な面は、大学の中でさまざまな人々と対話する経験のなかで、得られたものだと思います。

大学時代の冨岡さん(右から2番目)

もも:大学に行った後は、長浜へ戻ってきたんですか。
冨岡さん:戻ってきました。東京で、サラリーマンとして生活していくことに自信がなかったんです。都会の人は、団地で生まれて、1時間通勤して仕事をするっていうライフスタイルが身近にあるけど、僕の場合は、家は自営業だし、そういうライフスタイルの見本がなかったんです。だから、就職を考えたときに、そういう人たちと同じように生きていけるんやろうかと疑問に思って、田舎で父親が自営業やってるし、継ぐと喜んでもらえるかなという思いもあって、家業を継ぐことにしました。でも、仕事を覚えかけて結婚もした途端に、父親が病死してしまいました。一気にいろんな責任を負う環境になって、吐きそうになりましたけど、いろんな人に助けられてなんとか仕事を続けられました。それから経営は結構順調だったんですが、20年くらい頑張って、そこで才能がないと思って店を畳みました。
さき:どういう仕事だったんですか。
冨岡さん:元請け大工でした。個人経営の工務店です。地域ビルダーなんて言い方もされますが、1990年代はそうした地域ビルダーと大手ハウスメーカーとの比率は半々くらいだったそうです。けれども、その後地域ビルダーは減少し続けています。まちの電気屋さんや、スーパーや本屋さんと同じ流れです。特に住宅産業では、阪神淡路大震災が起こったとき、大手であれば同じグループからバックアップできたけれども、地域の自営業はバックアップできないから、復旧できない。そういうリスクを考えると、お客さんは大手を選ぶようになっていきました。そのような大きな流れに直面して、大手の下請けで大工をやるか、無理して規模を大きくして継続していくかの選択肢がありました。どっちも自分には無理だと思って、やっぱり農業か何かでやっていくぐらいしかないと模索して、いろんな縁があって、今の仕事にたどり着きました。

森の中でお話を聞く

冨岡さん:収入はぐっと減ったんやけど、出ていくお金はたいしてないし、何よりすごい気持ちが楽になりました。人を雇っていると、自分の収入の前に雇用者の給料を何とかしないといけない状況だったので、結構苦しかったんです。店をやめて、自分自身が救われた感じがしました。まだ子育てのお金がかかっていた点は大変やったけど、まあ、結果的にはなんとかなりました。

これからのこと

もも:これから山門水源の森でやっていきたいことはありますか。
冨岡さん:ヒノキ林が4割あって、放置されているので、それをなんとかしたいですね。ヒノキ林としても立派な山になって、ヒノキ材が使えるようになったらいいなと思っています。自分の代では実現はしないかもしれませんけどね。あと、地元の小学生の数が増えていくことです。僕がここに関わり始めた時から、小学校の児童数は半分くらい減っています。その原因のひとつに、大人が「ここでは生活できん」って言ってしまうことがあります。山門水源の森がある旧西浅井町は、山や田んぼはいっぱいあるけど、仕事が少なくて飯が食えんってなったら、ここで生活する理由がないわけです。そこに、僕の関わっている森のことで何かアプローチできないかなと思っています。日本人は有史以前からつい最近まで、森とともに暮らしてきた事実があります。高速道路を走っていると、山の中に突然大きな街が現れたりしますけど、日本中そんな場所がたくさんありますよね。日本という土地の、暮らしに対する森林の潜在能力って、すごくあるんじゃないかと思っているんですよ。まずは、森と自分の生活がどう関わっているかを、わかってもらえるような活動をしたいです。

山門水源の森にて、学習をする地元の小学生と冨岡さん

今回のお手伝い

今回は、あらかじめ切った木を、ロープワークを使って運び出す作業のお手伝いをしました。冨岡さんから教えていただいた「巻き結び」はとてもシンプルで、ロープワーク初心者の私たちでも簡単にできました。

巻き結び練習中

作業をした場所は、昔は薪炭林として使われていた森でした。ここでは、当時薪を採っていたように木を伐採をして、それらの木を林内から外に運び出すことで、昔の森を再現することにチャレンジしています。今後、どんな下草が生えてくるかを観察しながら、枯れ木を再利用する方法など、いろんなアイディアを探っているそうです。

<編集後記>
「長浜森の生活史」の取材で、今回初めて森の中でお話を伺いました。取材した時期はまだ暑かったので、木々が暑さを和らげてくれて、とても心地よい環境でした。また、森の中で話し始めると、おのずと哲学的な話になったので、やはり、森は哲学的思想にふけるにはよい環境かもしれません(笑)。このような心地のよい森が、日々の活動によって維持されていることが、よくわかりました。
まだ、山門水源の森に足を運んだことがない方は、ぜひ行ってみてください。
次回は、星の馬WORKSの隅田あおいさんにお話を伺います。お楽しみに!

<聞き手・ライター>
渡邊咲紀(さき)
1998年生。余呉町生まれ、名古屋育ち。2019年に出身地である余呉町に戻る。現在は、余呉町にある農園で働いている。

土屋百栞(もも)
1997年生。茨城県出身。2022年秋より、長浜市の地域おこし協力隊に着任。森林浴などの活動を通じて、自然との結びつきを感じる機会づくりを模索している。

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