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うちの嫁には生えてます!?(7/27)
第07話「神様かく語りき」
荒谷美星にとって久々の休日が終わろうとしていた。
昼間の電車は空いていて、席に座ればぽかぽかと温かい。
もうすぐ三月、春はすぐそこだ。
夕方の帰宅ラッシュ前で、静かな車内に寝息がたゆたう。
「寝てしまった、な。……俺もずいぶんとはしゃいだものだ」
今、美星の隣で辰乃が眠っている。
その小さな重みが、自分に寄りかかってくる。
その寝顔を見下ろして、ぼんやりと美星は先程のことを思い出していた。
「神様も飯を食うんだな」
第一印象はまさにそれで、あとから考えれば当然のようにも思える。霞を食べて生きるのは仙人だし、仙人はその名の通り仙道を極めた人……ただの人間だ。
だが、神様は神様、創造主だ。
そして、それは龍神の花嫁である辰乃だって同じだ。
美星はつい先程、世界の真理の一つに触れた。
神様は……とてもよく食べる。
そんなことを考えていると、ムニャムニャと辰乃がゆるい笑みを浮かべる。
「美星さん……これ、凄いです……美味しい、です」
辰乃は今、どんな夢を見ているのだろう?
何かを食べているらしいが、その表情はとても穏やかだ。
実はあのあと、ファミレスで神様と再会した。そして、あれよあれよというまに同席することになったのだ。
因みに神様も、ランチステーキにライスを大盛り、そしてサイドメニューにカツ丼という豪気な食いっぷりだった。
だが、美星が聞きたかったことの全てに神様は答えてくれた。
その言葉を今、ゆっくりと思い出してみる。
『よいのか、じゃと? ……嫌なのか? 若いの』
そんな筈はない。
こんな健気な少女を嫌いになどなれない。
だが、それと辰乃本人の気持ちは別の問題だ。
『若いの、何を今更悩んでおるのじゃ? 辰乃もいいと言うておるし、何も問題はなかろう。恋だ愛だはほれ、これから育くめばいいんじゃ。知り合いも言っとったぞ? 汝の隣人を愛せよ、とのう』
その間ずっと、辰乃はモギュモギュとハンバーグを頬張りながら頷いていた。
当人同士の気持ちは、とりあえずわかっている。
確認もしたし、美星にも異論はない。
だが、あまりに突然のこと、そしてそのことに驚けないでいる自分が不安だった。臆病と言ってもいい。
そして、自然と以前のことを思い出してしまう。
『ほうほう、以前に結婚を考えておったおなごがのう……何じゃ、別れたのならよいのではないか? それはつまり、縁がなかったということじゃ』
神様の言うことはいちいちもっともなのだが、どこか他人事だ。
達観しているというか、俯瞰するような言葉ばかりである。
背中を押して欲しい気もするし、太鼓判を押されたい美星にはそれが少しじれったい。そう思っていて、初めて気付いたこともあった。
美星は自信がないのだ。
あんなに頑張って恋愛をしてみた、その結果が今の美星である。
自分なりに頑張ったし、未知の経験を前に奮闘したとも言える。
だが、結局は何も実らなかった。
縁がないと片付けるには、まだ少し胸の傷は思い。
そんな時に辰乃が嫁にやってきたのだった。
『気にするでないぞ、若いの。わしは何事も勉強だとか、いい経験になったとかは言わん。お主が傷付いたことも、相手だって同じだと憂いていることもわかる。わかるが、せっかく今は辰乃という嫁があるんじゃ。のう、辰乃』
一生懸命海老フライに舌鼓を打っていた辰乃は、そこでようやく顔を上げた。
うっとりと美味に酔うような、その笑顔がとても眩しかったのを覚えている。
彼女は迷いのない言葉で、やっぱり美星に素直な気持ちを伝えてくれた。
『わたしは美星さんと一緒になれて嬉しいです。つ、角を隠すのが、大変なくらい……だから、あの! やっぱりこれからも一緒にいさせてほしいんです!』
昨日出会ったばかりなのに、彼女の一途さが胸に刺さる。
忘れようとして封じたときめきが、狙いすましたように貫かれるのだ。
じっと見詰める隣の辰乃を、思わず美星は撫でてしまった。翡翠色の髪はさらさらと手触りがよく、とてもいい匂いがする。
そういう訳で、神様は何かあったら連絡せいとメアドを教えてくれた。
電話番号もだ。
これぞまさしく神対応なのだった。
そんなことを電車の中で思い出していると、寝ていた辰乃がうっすらと目を開く。ぼんやりと焦点の定まらぬ目で、彼女は美星を見上げて何度も瞬きをした。
「……あら? まあ、わたしは……もしかしてわたし、寝てました!?」
「うん? ああ、ぐっすりだったから」
「す、すみません! あの、何かだポカポカしてて、それに……誰かの隣にいるの、いてもらえるの……初めて、だから」
頬を赤らめ、身を正して辰乃は座り直す。
やっぱりなんだかかわいくて、またポンポンと美星は頭を撫でてしまった。
そして、脳内に流れるリフレイン。
――美星さ、そういうのって恋人の接し方じゃないんだよ?
一瞬、辰乃に違う面影が重なった。
今はもう、他人と他人になってしまった女性だ。
そんことにハッとしていると、嬉しそうに辰乃が見上げてくる。
「美星さんに触れてもらえると、なんだか……とても温かいです。凄く、嬉しいです!」
「あ、ああ。えっと……そうだ、うん。他に何か欲しいもの、ないか?」
服と携帯と、あとはちょっとした雑貨を少し買った。
どうやら辰乃の頭は昭和中期あたりの日本で止まっているらしい。ちょっとした生活の利器を見るたびに、彼女は新鮮な驚きで笑顔を見せてくれたのだ。
だが、一度胸の奥から浮かんだ追憶は、次々と蘇る。
胸の膿んだ傷から飛び出してくる。
――欲しいものだけ与えてくれても、もっと違うの……きっと違うの。
今日、久々に千鞠に会ったから、次々と思い出す。
艶めく辰乃の髪を撫でながら、いつもの無表情に感情が凍ってゆく。
だが、そっと辰乃は手を伸べ、美星の頬に触れてきた。
「そういえば、お味噌が少なくなってました。それとお醤油も。今夜もわたしが腕を振るいますので、食材を少し買いたいです! ……どうしたんですか? 美星さん?」
「あ、いや、そうか。うん、駅前にスーパーがあるから、寄っていこう」
「それと……欲しいもの、ないです。もう、いっぱい、いーっぱい……沢山頂戴しました。だから、次は……して欲しいこと、あります」
自分があまりにも恋愛を知らなかった、そんな日々があった。
セピア色の化石になって、琥珀に閉じこもる蝶のように胸に沈んでいる。
あの日、あの時、あの瞬間……取り戻せない失敗の全てを、不思議と辰乃が許してくれるような気がした。自分の都合の良さに呆れる一方で、じっと見詰めてくる辰乃の言葉を、黙って待つ。
彼女の大きな瞳に今、ぼんやりとした自分の顔が映っていた。
「一緒に歩く時……手、を……手を、繋いで欲しいです!」
「……え?」
「歩く時だけじゃなく、もっと……こうして、美星さんに触れていたいです。人間は温かくて、とても柔らかくて。それは、この姿を借りてるわたしとは全然違って」
「そっか。そう、だな」
頬に触れる辰乃の手に、手を重ねる。
人気のない社内が小さく揺れる中で、辰乃の頭にまた角が現れた。
誰も見てない中で、二人だけの仲がお互いを見詰めさせる。
小さな辰乃の手は、やっぱりすべすべで柔らかくて、そして温かい。
その愛しい感触を、辰乃も自分に感じてくれているのだ。
美星の手を握り返して、辰乃は少し気恥ずかしそうに言葉を続ける。
「そ、それと……わたしが知ってる日本では、こんなにおおらかな男女の交際というものは、あまり。だから、わたし変かもしれません! でも」
「いや、辰乃はおかしくない。俺は……どうだろうな。前、ちょっと失敗したから」
辰乃は桜色の唇を開きかけて、ギュムと口を噤む。
何かを言いかけた彼女は、その言葉を飲み込んだのだ。
きっと、気にしてる筈だ。妻として気になるのは当たり前だ。
美星の過去に何があって、一人の女声の影が見え隠れしてるから。
美星もまた、中々言葉にして辰乃に伝えられない。
自分のことが未整理のまま、心のあちこちに散らばっているのだ。それから目を逸らし続けて、どんどん無感情に心を殺していたから。
結局、説明できないことの告白を求められてるような気がして……そう勝手に思ってしまって、美星はそっと胸に辰乃を抱いた。
そうして黙らせてしまう自分が、どうしようもなくずるいと思えてしかたがなかった。
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