うちの嫁には生えてます!?(24/27)
第24話「風となって、馳せる」
海岸線を疾走するバイクの上で、美星はちらりと空を見上げた。
低く垂れ込める暗雲は、とうとう切なげに泣き出す。
その雨粒がヘルメットのバイザーを濡らす中、加速。
愛車のドゥカティは官能的なエグゾーストを奏で、更に速く美星を運命の場所へと運んでいった。そう、運命……自分が向き合い、終えるべきさだめが待っている。
三者三様に望み、欲しても得られなかった瞬間を求めて、走る。
「降ってきたか……こういう降り始めの路面が一番怖い。浮き上がった油や汚れが、タイヤのグリップ力を奪うからな」
自分の中で暴れる心臓をなだめるように、必要のない独り言を呟いてしまう。
本降りになる前に、空港へとつければいいが……気持ちばかり急いてしまい、もどかしい。既に限界まで飛ばしてるつもりだが、危険な領域へと躊躇なく美星は踏み込んだ。
吼え荒ぶエンジンを抱くように身を沈め、空気の壁を切り裂き馳せる。
そんな美星の脳裏に、在りし日の言葉がリフレインした。
『美星さ、バイクが趣味? そんだけ? えっ、なになに? アタシのメット? 一緒に乗るかって? やたっ、もーらいっ! どこ行こうか』
百華との日々は、とても豊かで、穏やかで、そして眩しかった。
疲れた日々の中でアニメに出会ったように、バイク仲間の千鞠を通じて百華に出会った。巡り合ったのだ。そのときめきは、今も美星の中にある。
心の整理ができているなんて、嘘だ。
整理できぬまま、封じて閉じ込めた気持ちがある。
時間を凍らせたまま、永久に保留していた言葉があるのだ。
『なんかね、美星。こうしてると……アタシがバイオリンになったみたい。美星はこうして、毎夜毎晩アタシを奏でるの。え? 俺にとってはストラディバリウスだって? ばーか、何億円すると思ってんの。アタシ、そんなお高い女じゃないつもりだよ?』
確かに愛した。
愛し合った。
その記憶も感触も、ずっと燻っている。
まだ熱を感じるし、冷めてゆくのは感情ではなくて思考だった。
百華のためにアニメやゲームを捨て、オタク仲間とも疎遠になった。
そうまでして、百華との日々を続けたかったし、失いたくなかった。
それなのに……百華は自分より夢を、バイオリンを取った。
自分が何かを犠牲にしてでも守りたかった、その百華が自分を犠牲に旅立つような気がした。そのことを、思ってしまって、でも言えなかった。
『美星っ、見て! ツテでね、前からバイオリニストの研究生を探してる楽団があってさ。こないだ、ちょうど担当者と指揮者が来日してて、聴いてもらったの! ほら、アタシって本番に強いタイプじゃん? バッチシよ、春からウィーン!』
咲き誇る笑顔を前に、何も言えなかった。
何かを言おうとして、最初におめでとうの言葉を絞り出した。
でも、聞けなかった。
怖くて問い質せなかったのだ。
そして、言えば問い詰めるような口調になる。
聞けば、返ってくる答が期待を裏切る気がしたのだ。
だから、言えなかった。
言わなかったのだ。
二人のこれからと、バイオリン……そのどちらかを百華に選ばせるのも傲慢だ。それでも、バイオリン一つを武器に音楽の都に乗り込んでいく、そんな恋人との関係性をこれからも続けたかった。
それが彼女の負担になるとわかっていても、続けていきたかった。
そのために今度は、最後の趣味であるバイクを捨ててでも……そう思った。
『今ね、向こうで暮らす家を探してるの。お金、ないからさ……ルームシェアかな? 小さいアパートで。でも、寝る場所さえあれば他にはなにもいらない。バイオリンだけあればいいの』
他に何もいらない。
バイオリンだけあればいい。
オタクである自分を隠し、大好きなアニメやゲームと離れてまで好かれたかった美星。その美星を愛してくれた人は、自分よりバイオリンを選ぶのだ。
そして、美星は気持ちが凍結したままで考えた。
祝福し、送り出してやらねばならない。
アニメでも漫画でも、こういう時の男は大きくなければいけないのだ。
寛大で、器が大きくて、夢に生きる人の味方でなければいけない。
だが、美星は創作物の主人公にはなれない。
どうしても、一途に想っていた百華の、突然の旅立ちに混乱してしまっていた。だから、二人でゆっくりは話さなかった。百華は海外行きの準備でドイツ語を習うかたわら、軍資金のためにアルバイトを増やした。
美星も仕事の多忙さを理由に、距離を置いてしまったのだ。
『もしもーし、百華です。留守電、入れとくね。最近ずっと忙しくて……そっちは? ごめんね、ずっと会えなくて。そうそう、千鞠がね、何か髪をバッサリ! 失恋だって……それ、どういう意味かなって。アタシ、あんましいいお姉ちゃんじゃないから。……チャンスがあると思ったらしいんだ。でも、駄目だって。なーんで確かめもせずに諦めちゃうかなー? ね……諦めたくないよ、アタシは』
メールとメッセージが、擦れ違い続ける日々だった。
一言、ほんの一言でも言葉をかけてやればよかった。
そして、百華の言葉をもっと聞くべきだった。
だが、彼女と話して今後のことを語る時……美星は彼女を祝福し続ける自信がなかったのだ。
――俺を捨ててウィーンに行くのか?
――俺も一緒にとか、そういうことを言ってくれよ!
――俺は、キモいと思われたくなくて、趣味をほとんど捨てたのに。
――お前は、そんな俺を捨てて大好きなバイオリンを選ぶのか!?
自分勝手な言い分だ。
だが、はっきり百華にそう明言されるのが怖かった。
そして、それが分かる程度にはお互いに近過ぎて、触れ過ぎて、交わり過ぎた。彼女がバイオリンにかける情熱を、痛い程知っていた。真剣に弓を当てて弦を歌わせる、その姿は綺麗だった。紡がれる音はもっと綺麗だった。
「そうか……俺も、これは嫉妬か。辰乃と違って、相手は……バイオリンだけどな」
恋敵への嫉妬に、小さな花嫁は怯えていた。
悠久の刻を超越者として過ごしてきた故に、人間ならではの小さな感情のゆらぎに驚き、持て余し、告白してくれた。
気付けばとっくに、美星は辰乃が好きになっていた。
都合のいい美少女の押しかけ女房……だからではない。
百華を忘れるために全てを灰色の無感動に塗り潰していた、そんな世界に彩りを蘇らせてくれたから。お陰で今、百華そのものまで鮮やかに浮かび上がる。
だから今、ケリをつける。
そうすることが、百華と辰乃のため……何より、自分のためだと思った。
誰かのためにと言い訳せず、自分のためにベストを尽くす時が来たのだ。
「雨が強くなってきたな、クソッ……空港、何時の便なんだ? ええい、ままよっ!」
さらなるスピードの領域へと、美星は飛び込んでゆく。
バイクが好きだからこそ、バイクで死ぬようなことがあってはならない……ライダー達は皆、誰もがそう思って走る。全身を曝け出して駆るバイクは、命を乗せる一体感があらゆる乗り物よりも最も強い。
自分の肉体同然に、乗り慣れたドゥカティが馴染む。
もっといける、もっと速くと焦燥感を駆り立てる。
危険な加速を続ける中で、ゆるいカーブを美星は曲がった。
「――ッ! マジかよっ!」
タイトなコーナーではない。
流してゆるりと抜けられるイージーな道だった。
だが、そこには……ウィンカーを点滅させる軽自動車が止まっていた。その向こうにバス停が見えて、そこから一瞬が無限に引き伸ばされる。
きっと、バスで来る誰かを迎えに来たのだ。
雨だから、車で。
それを、避けてハンドルを切る。
瞬間、衝撃音と共に足元の感覚が消えた。
ガードレールを歪ませ、美星はバイクごと宙へと舞っていた。
小高い崖の下には、海が広がり白い波涛を寄せている。
雨の海は暗く、どこまでも続いていた。
「走馬灯って、こないもんなのな」
思わず呟いた、その時にはもう……美星は落下していた。
そして、ドゥカティの車体が界面に水柱を屹立させる。
それを美星はぼんやりと見ていた。
そう、空から見下ろしていた。
「美星さんっ!」
「あ、あれ? 辰乃、か? お前……辰乃、なのか?」
「はいっ! あの、雨が……それでわたし、心配で!」
そこには、翡翠のような鱗に覆われた巨大な龍が翼を広げていた。海よりも深い碧色の瞳が、あの日の涙を今日も浮かべている。
美星は今、見えない力で辰乃の手に抱かれていた。
鋭い爪が並ぶ大きな手が、優しく美星を掴んでいる。
間違いなく、愛しい辰乃の体温が感じられた。
本来の姿に戻った辰乃は、そのまま風を斬って翔ぶ。
高速で風景が飛び去る中、不思議と空気の抵抗を感じない。気圧も風圧も、まるで龍の辰乃を避けるように触れてこなかった。
彼女の力が守ってくれてるのだとわかった。
そう、感じられた。
「ごめんなさい、どかてぃさん……今は美星さんを! ごめんなさいっ!」
「いや、辰乃……謝るのは俺の方だ。……俺の大事な……愛車」
ドゥカティを飲み込んだ海が、あっという間に見えなくなった。
驚くべき速度で、辰乃は空を馳せる。
ただ一言、本当は来たくなかったとだけ、彼女は零した。厳つい龍の顔を見上げて、美星は感謝の言葉を口にする。元カノに会いに行けと、彼女は言ってくれた。送り出したが、不安だった筈だ。それでも、美星を心配してわざわざ来てくれた。
そして、今……美星を百華に会わせるために飛んでいる。
何かが変わってしまう、その瞬間へと美星を導く彼女は、やっぱりちょっと嫌だと寂しく笑うのだった。