うちの嫁には生えてます!?(21/27)
第21話「晴れのち、暗雲」
買い物といえば、最寄り駅の商店街だ。
だが、愛車ドゥカティSS1000DSに跨った美星は今、隣町の大手ディスカウントストアへと走っていた。道中、休日の午後は好天に恵まれ気持ちがいい。
風切る中で風となって、更なる風を連れて走る。
「っと、思わず時間を忘れてしまうな。……雨が降るって? この天気で?」
美星は少し大げさなハングオンでコーナーを回る。
全身で操るバイクの躍動感に、自然と気持ちは軽やかになっていった。
何事にも無感動で動じず、そんな中でアニメに出会ったように……バイクもまた、美星にとっては大事な趣味だ。それに、アニメやゲームと言ったオタク趣味に比べて、誰にでも知られて困らない一般的なものである。
「まあ、今となっては俺がアニメ好きなことも、隠す必要が――んっ?」
サイドミラーに、見覚えのある車体が滑り込んできた。
白いホンダCBR650Fだ。
最初は不思議に思っていたが、すぐに当然に思える。
隣町へ続くこの峠は、ライダーに人気のワインディングロードだから。
そして、後方に迫る年下の女の子とは、この場所で出会ったから。
「俺も今日から三十路だからなあ……ヤンチャな頃とは違うんだ、よっ、と」
加速する訳でもなく、適度なスピードでメリハリをつけて流す。
昔は随分無茶なことをしてたし、言い訳できないレベルだったこともある。非合法の公道レースが、ちょっと格好いいとも思っていた。
だが、大人になってみると話は別である。
ルールの遵守が自分だけでなく、周囲の全てを守っているのだとわかるのだ。
背後の白い影も、合わせるように美星のラインをなぞってくる。
紅白二台のバイクは、戯れ踊るようにエキゾーストを連ねて走った。
「随分乗れるようになったな、千鞠!」
高揚する気分が、背後の仲間……嘗てのバイク仲間を呼ばせる。
エンジン音と空気の対流に包まれて、その声はきっと届いていない。
だが、自然と美星には返事が聴こえるような気がした。
やはり、辰乃の言う通りドゥカティで出かけて正解だ。
バイクに乗っていると、ギクシャクしてしまった関係さえも振り切って走れる。同じ方向に走る二人に、わだかまりをまるで感じない。
まるでちょっとしたツーリングで、気付けばツイスティックな峠道はなだらかになってゆく。そこからは道も少しずつ混み出し、あっという間にディスカウントストアについてしまった。
バイクを止めてヘルメットを脱ぐと、すぐ隣に白いホンダが停車する。
「……美星、何か変わったね。全力全開じゃ、ないんだ」
つまらなそうに呟く姿は、やはり千鞠だった。
彼女もヘルメットを脱ぐと、切りそろえられたショートボブを僅かに揺らす。少しだけ汗の匂いが香って、彼女は上気した顔で美星をじっと見詰めてきた。
こうして千鞠といつもの峠を走るのは、久しぶりだ。
そして、タイトに攻めていかなくても、満足感と充足感がある。
「あのな、千鞠。安全運転が第一だ。それが結果的に、一番自分のためになるんだよ」
「ふーん……いかにも妻子持ちの言いそうなことね」
「妻はともかく、子供はまだだ。……その、なかなか上手くいかない」
「何よ、子供みたいな奥さんもらっちゃってさ」
千鞠が唇を尖らせる。
だが、口ではつまらなそうにしてても、彼女は先日の再会よりもずっと身近に感じた。
百華との関係が終わってから、妹である千鞠とも自然と疎遠になっていった。
その程度には恋の終わりに落ち込んでいたし、今でもどこかで終わりを認められないでいる。辰乃がいてくれてさえ、まだまだ納得がいっていないのだ。
そのことを内心必死で隠しつつ、久々に見る千鞠へ目を細める。
ショートカットも似合うぞ、くらいは言ってやろうと思ったその時だった。
「誕生日、おめでと。……アラサーからとうとう、三十路そのものね!」
「ん、ああ。なんだ、覚えてたのか? 俺の誕生日」
「当たり前じゃない! とっ、当然だわ」
「そりゃどーも。何か飲むか?」
駐車場の自販機まで歩きつつ、肩越しに振り返る。
千鞠は昔からそうだったように、少し離れて美星を追いかけてきた。
缶コーヒーを二つ買って、片方を放ってやる。
「ああ、そうだ……千鞠。あんまし辰乃に変なことを吹き込むな。頼むな、ほんと」
「喜んでた癖に」
「そりゃ、まあ。世間一般の男だったら、喜ぶんじゃないか? 裸エプロン」
「そういう発想がオタクよね! ……びっくりした」
「すまん。まあ、驚かれたってことは隠し通せてた訳だ。俺の趣味っていうか、そういうの」
美星の視線から逃げるように、千鞠は背を向け缶コーヒーを飲んだ。
その頬が何故か、妙に赤い。
「しっかし、偶然だな。いつぶりだ? 一緒に走るのは」
「半年ぶり、くらい。前はよく、三人で出かけたもの。あと……偶然じゃ、ないかも」
「うちの醤油が切れたのもか?」
「……運命、とか?」
「おいおい」
流石の美星にも、乾いた笑いが浮かんだ。
だが、ぎこちない笑顔を見て千鞠も嬉しそうにはにかむ。
飲み終えた缶コーヒーをくずかごに放って、美星は買い物を済ませることにした。
やっぱり千鞠は少し離れて、その後ろをついてくる。
「お醤油? ……何でこんな遠出してんのよ」
「いいだろ、別に。最近、バイクに構ってられなかったからな」
「ふーん……何か、ふつーにおっさんぽい。家庭を持って、ふつーな感じ」
だが、そう言いながらも千鞠の声音が柔らかい。
百華との日々は終わってしまったが、それが始まる前から千鞠とはバイク仲間だったのだ。そういう絆みたいなもの、友情めいたものが残っているのは嬉しかった。
そして、千鞠にもそう思ってもらえてたら、多少は救われる気がした。
しかし、そんな自己中心的な気持ちを千鞠の一言が吹き飛ばす。
「お姉ちゃん、今日発つわよ? 夕方の便で、オーストリアのウィーンに」
「……そっか」
「私、伝えたからね? 伝え、られた。何か……やっぱ、運命かな」
おいおい何をと思ったが、美星自身がその言葉を否定できなかった。
否定したくなかった、なんて思いたくもなかった。
だが、一瞬だけ思う。
映画のワンシーンのように、今……空港へ駆けつければ何かが変わるのでは?
止まってしまった二人の時間が、もう一度動き始める気がした。
しかし、それを大人な自分が呆れたように笑う。
30歳になった節目の今日、燻るままに止まった恋心はなかなか動かない。
「運命だってんなら、そもそもこんなことになってないだろ」
「何で? 雨降って地固まる、でいいじゃない。私も、それなら、いいんだ。納得できる。納得、することにする」
「……なあ」
「な、何よ!」
「やっぱ、減塩醤油の方がいいと思うか? うちではいつも、何を使ってたかな」
「う、うっさいわね! ……そっちのやつよ、赤いラベルの」
塩分を気にするなんて、ますますおっさんだと千鞠は拗ねた。だが、彼女に言われて美星も我が家の味を思い出す。
確かにこのメーカーの醤油を使ってた気がした。
家には百華と一緒だった日々があり、千鞠もよく上がり込んでいた。
その光景は、美星の気持ちだけをそのままに過去になってしまった。
そして、そのことを咎めるように千鞠の声が小さく鋭くなる。
「……何で? 何で、別れたのよ」
「ん……まあ、ちょっとな」
「ちょっとしたことなの? お姉ちゃんのこと」
「そう絡むなよ。ああ、見ろ。お徳用の2リットルサイズもあるな。でも、これはバイクじゃ無理か」
「話を逸らさないで! ……教えてよ」
美星は鼻から溜息を零しつつ、手頃なサイズの醤油を手に歩く。
レジまでの間ずっと、千鞠の視線は背後から串刺しにしてきた。
それでとうとう、美星も重い口を開く。
「俺、さ。いわゆるオタクなの。アニメとか好きでさ」
「知ってる。ってか、こないだ初めて知った」
「だろ? お前、どう思った」
「キモい……いい歳して、って。あ、ゴメン……その。あの時はゴメン。辰乃にも私、意地悪した。だって……だって」
「いいさ、お前は普通だよ。……普通はさ、嫌だろ。そういうの。だから、百華に隠した、隠し通そうとした。アニメもゲームもやめてみた」
自然と話題や流行に乗り遅れて、趣味の友人とは疎遠になった。
同時に百華と付き合い始めて、友人達の方から離れていった。
マイペーで豪放、奔放な百華は……いわゆるオタクと言われる男達が嫉妬と羨望を感じる美人だったのだ。そして、美星が夢中になった女性である。
だから、知られたくなかった。
彼女に嫌われたくない一心で、好きな趣味を封じて我慢した。
そのことを語ったら、千鞠は意外な顔をした。
だが、黙って聞いてくれるからつい……ずっと言えなかった本音が口を突いて出る。
「でもさ、俺ぁ思った。思っちまったんだ。俺が、好きなことより大好きな百華を選んでも……その百華は、恋人の俺より大好きなバイオリンを選ぶんだな、って」
「……だって、お姉ちゃんの夢だもん」
「責めてないさ。ただ……俺はバイオリンに負けたのに、そうとも知らずに普通の真面目で格好いい青年を演じてた。オタクだってのを隠してた。それが、虚しかったよ」
百華はいつも、バイオリンを聴かせてくれた。
彼女にとって、バイオリンは己の半身であり、それ以上に全てだと思う時もあった。そしてそれは、美星には眩しかった。その輝かしい百華とともにあるため、大好きなアニメ等を隠し日々が苦しくなっていったのだ。
それでも、思ってもみなかったのだ。
百華とは、仲を深めていずれは家族になるかもしれない、そう無邪気に思ってた。
そんな彼女が、突然ウィーンに行くと言い出した日のことは、今でもよく覚えてる。
「……そんだけ? ねえ、美星! 本当にそれだけなの!?」
「ああ。百華は俺よりバイオリンを選んだし、それはアニメやゲームより百華を選び続けてた俺には……少し、堪えたよ」
「くだらない! くだらないよ、美星……そんなんじゃ、お姉ちゃんがかわいそう」
「俺だって、一緒にウィーンに行こうよ、くらい言われたかったけどな」
醤油の会計を済ませてレジを通過しても、千鞠はついてこなかった。
ただ、潤んだ瞳でじっと見詰めてくる。
「五時の便だから……お姉ちゃん」
「そっか。まあ、よろしく言っといてくれ」
「自分で言いなよ!」
「……それを言ったら、本当に終わっちまう……気がする」
「なら、違う言葉を言いに行って! すぐに!」
「や、帰るよ。……辰乃が家で待ってるしな」
「なにそれ! 辰乃を言い訳にしないで! あんたがどうしたいか聞きたいの!」
それ以上は、言葉が交わらなかった。
美星は小さく「ゴメンな」と呟くだけで精一杯だった。
外に出れば、遠くに雷雲がゴロゴロと近付いていた。