うちの嫁には生えてます!?(2/27)
第02話「こうして彼女が嫁に来た」
荒谷美星は疲れていた。
二十代も最後の歳となると、無理がきいた若い頃とは違う。
徹夜明けの連勤で身体は重いし、節々が鈍く痛む。
システムエンジニアというのは、独身男性としての実入りはいいが中々の重労働だった。
そんな訳で、納品が終わって地獄のデスマーチから解放された。
デスマーチとは、徹夜と終電の日々が続く過酷な勤務形態のことだ。
最寄り駅で降り、家まで徒歩15分……道中にはコンビニが一件だけ。
だが、もはや遅めの夕食を作るのも買うのも酷く億劫だった。
「へい、いらっしゃ! ……お、アースじゃねえか!」
美星が選んだ選択肢は、飲んで食って寝る、これだ。
そんな訳で駅前商店街の一角、焼き鳥屋のやまがみへと入店した。出迎えてくれたのはこの店の二代目で、同い年の山上真司だ。人懐っこそうな表情は美星とは正反対で愛想がよく、やや童顔だが逞しい長身で筋肉質だ。
美星は「よう」とだけ言って、当たり前のようにカウンターに座った。
混雑する店内はもう、宴も酣……時刻は丁度9時を過ぎたあたりだった。
メニューも見ずに美星は、向かいにやってきた真司に注文を告げる。
「生ビールと焼き鳥定食、タレで」
「……おい待てお前、大丈夫か? 目が死んでるのはいつもだが、表情そのものがアレだぞ」
「ん、少し疲れたからな。腹も減ってるが、さっさと酔って寝たい。40時間くらい寝たい」
「ビールと白飯、一緒に飲み食いする奴だよなあ……お前」
「腹に入れば一緒だ」
「米と麦、穀物同士だぞ!?」
いつもの調子で真司が笑う。
彼はいつも屈託のない笑顔で、これぞまさしく好青年という雰囲気だ。
年中無表情の鉄面皮、仏頂面しか知らない美星とは対象的だった。
すぐに冷えたジョッキで生ビールが運ばれてくる。
昼食を取る暇もなかったので、かなりの空腹だった。だから、一気に半分ほど飲むと、空きっ腹に酷く染みる。喉越し爽やかな琥珀色は、食事の必要性を思い出させてくれた。
真司は若い連中に指示を飛ばしつつ、なかなか美星の前からいなくならない。
「忙しそうだなあ、アース。ちゃんと寝てるか? 今日のアースはいつにもまして酷い顔だぜ」
「おい馬鹿やめろ、その名前を連呼するな」
「いい名前じゃねえか。母なる星だぜ? 地球だぜ? 美しい星つったら、やっぱ地球だよな」
全然嬉しくない。
若くて活力に満ちた真司の声に、客達はまばらな視線をよこす。
そして、その前でビールを飲んでる美星に目を丸くするのだ。
『美星』と書いて『アース』……このキラキラネームで、美星は中々に波乱万丈な人生を送ってきた。小学校では入学や進級、クラス替えの度に「美星と書いてアースです、よろしくお願いします」と説明せねばならなかった。
どうせキラキラネームなら、もっと格好いいものがよかったと思うこともある。
中学になると英語の授業が本格的に増えて、アースの意味を交えたからかいが始まった。
アースだから地属性、なんか弱そうというのはゲーマーだった友人の言葉だ。
逆に女子からは妙に人気があったが、自分の顔が造形美として遜色ないことを美星は知らない。自覚がない。その頃にはとっくに、感情が顔に出ない無表情な毎日になっていたから。
そんなことを思い出していると、真司が焼き鳥五品と味噌汁、そしてごはんを出してくれた。
「ん、いただきます。それと真司、生ビールをもう一つだ」
「飲むか食うかにしろよー、お前はもー! はは、よしきた! 生いっちょぉ!」
秘伝のタレがたっぷりの焼鳥は、どれも香ばしい美味だった。それを贅沢《ぜいたく》に一本まるまる頬張ってから。白米をかっこむ。そして、ビール。
黙々とエネルギーを補給するように、食事という作業に美星は没頭していた。
ようやく酔いが回ってきたところで、追加の焼き鳥を今度は塩で頼む。
店内は少し煙たくて、煙草の臭いに脂の跳ねる香りがバチバチと歌っていた。
その頃には真司も「ゆっくりしてけよ」と言って仕事に戻っていった。
美星にとって焼き鳥屋のやまがみは、飲みも食事も同時にすませられる秘密基地だ。会社のある市街地を離れると、まだまだこうした小さな店が繁盛している。
自然と酒を焼酎へと変えて、それをロックでちびちび舐めながらスマートフォンをいじる。離れて暮らす母親からのメールを処理していると、不意に隣で剣呑な声が響いた。
「若いの、随分と面白い飲み方をするのう。米を麦と一緒に飲み込んで、次は芋焼酎か」
顔をあげると、カウンターですぐ横に一人の老人が並んでいた。
真っ白な髭を伸ばした、これぞまさしく好々爺といった穏やかな笑顔である。
老人は熱燗を手酌で飲みながら、細めた目で美星を見詰めていた。
酒場は酔えば人恋しくもなる。
それは感傷的な心情とは無縁の美星でもそうらしい。
毎日が過酷な勤務で、最後に布団で寝た夜をもう思い出せない。会社に泊まり込んでの追い込みの中、納期ギリギリで今日やっと納品できたのだ。
怒号と悲鳴、そして舌打ちの中から解放された美星に老人の目が妙に優しい。
「まあ、その……腹に入れば一緒なんで」
「うんうん、まずはたんと食わねばのう。しかし、見たところ相応の身分とお見受けしたが……なりわいは何じゃ?」
「SEです。システムエンジニア……ようするに、コンピューターのプログラムを作るチームリーダーみたいなもんですよ。会社だと、主任という役職ですね」
「ほうほう、えすいーとな……こんぴゅうたあ。ホッホッホ、若いのに大したことじゃあ。しかし、随分と疲れておるようじゃが」
「ちょっと修羅場でした。でも、納期前は程度の差こそあれこんな感じです」
美星も不思議と多弁になった。
それくらい隣の老人は穏やかで、自然に言葉が引っ張り出される。
文字列と数列が行き交う中、社内メールばかりのやり取りが多かった。逃げるように抜け出た喫煙所では、同僚達も虚ろな目で紫煙を燻らすばかりだった。自販機前では、新人社員が泣き出してるのを見たこともある。
なんてことはない、どこにでもある普通のデスマーチだった。
だが、来月に決算を控えるこの時期は、特に忙しかったのだ。
そのことをつい、らしくもない饒舌さで語ってしまう。
美星の仕事内容には理解が及ばない様子で、それを隠そうともしない老人。それでも、彼はいちいち相槌を打って大きく頷き、親身な言葉でねぎらってくれた。
「そうじゃなあ、やはりモノを作るというのは大変なことじゃ。ワシもそういう仕事をしていたがのう」
「もしや、何かの職人さんですか? あ、失礼……なんというか、雰囲気が」
「なに、ちょちょっと世界を創る程度の仕事じゃよ。それも引退して、こうして悠々自適の人界生活じゃ」
「はあ……世界? 人界……ああ、芸術方面ですか? 人里離れた山奥とか」
「まあ、そういう感じじゃなあ。で、若いの」
ずい、と老人が身を乗り出してきた。
その頃にはもう、美星も随分と酔っ払っている。
久しぶりに人間らしい会話を交わして、少し愚痴らしきものも零した。
それを受け止めてくれた見ず知らずの老人が、なんともありがたかったのは事実だ。
だから、ひょんな事を言われてもおかしいとは思わなかったし、よくある話なのかとも思った。歳を取ると誰もがおせっかいになるもので、こうした話を持ち出すというのはよく聞いている。
「見たところ、独り身じゃなあ。……嫁さんはおらぬのか」
「いや、まあ……今はちょっと恋愛とか、そういうのは。仕事ですよ、仕事が一番」
「その仕事に没頭するお前さんを、支えてくれる人じゃよ。欲しいと思わんか?」
「掃除機や洗濯機じゃないですから……ま、まあ、少しは」
「うむ、そうじゃろう」
「でも、ちょっと前時代的じゃないですか? 内助の功が欲しいなんて、今の時代じゃとても口には。だから、まあ、パートナーみたいなのはいないです。……できませんでした」
脳裏を苦い思い出が蘇る。
それを封じて沈めるために、この忙しさの中へと没頭していたのだ。
多忙極まりない修羅場が、ありがたいとさえ思ったこともあった。
美星には今、恋愛に関することを遠ざけたい気持ちがあったのだ。
そういう心の疲れた自分に、不意に嫁だ妻だの話を老人は持ちかけてくる。取り繕うように苦笑しようとしても、感情をよく知らぬ表情筋は引きつるだけだった。
だが、老人はしわくちゃの顔をさらにしわだらけにして笑う。
「なに、あの子も前時代的じゃからちょうどよかろうて。正直、以前の仕事でやりのこしたことはそれくらいよ。まあ、年寄りのおせっかいと思って一つ、どうじゃ」
「え、どうじゃ、ってのは」
「とにかく、会うだけでもいいんじゃよ。恋だ愛だは、暮らしていけばいくらでも育めるもんじゃ。ほれ、顔だけでも」
お見合い写真でも出されるのかと思ったが、違った。
老人は笑って背後を親指でさす。
彼と一緒に振り返ると、そこには……一人の少女が立っていた。
賑やかな酒場の空気の中、まるでひっそりと芽を出した野の花のような可憐さ。掃き溜めに鶴という言葉がぴったりで、真司には悪いが場違いな雰囲気を纏っている。清楚で控えめな印象そのままに、彼女はぺこりと頭を下げて喋り出した。
まるで清水が奏でるせせらぎのような声音だった。
「神様、あの……こちらの方、でしょうか? ……わたし、嬉しいです」
美星は酔っ払っていて、普段の何倍も無感情、無感動になっていた。そう思っていた。
だが、違った。
驚きに揺さぶられて、見惚れてしまう程の美少女だった。
普段以上に心情がフラットなのは、少女の美しさに痺れていたのだろう。
奇妙な服はまるで羽衣のようで、長く伸ばした髪は翡翠の輝きにも似て綺麗だ。
碧い目の少女は、顔を上げて美星に微笑んだ。
「神様……? あ、ああ、おじいさんは……神さんってこと、ですか?」
「まあ、そういう感じじゃ。では、あとは若い者同士で……やれやれ、ようやく肩の荷が降りたわい。これも縁、仲良くのう」
「は、はあ。いや、あの」
「どれ、一献! 祝杯じゃよ、祝杯。これこれ、お酌をしてあげなさい」
少女が近くに来て、ほのかに桃のような香りがした。
彼女が焼酎のボトルを手にしたので、慌てて美星はグラスを乾かす。もうそろそろ限界というくらいには飲んでいたが、そうせねばと思った。そうしたいと感じたのだ。
「不束者ですが、末永くよろしくお願いいたします……旦那様」
慣れぬ手付きで少女が注いでくれた芋焼酎は、カランと小さく氷を鳴らす。
こうして、どういう訳か嫁ができた。
そのことを夢で思い出していた美星は、徐々に朝の光に覚醒しつつある。そう、また一日が始まる中で……どこか現実感がないなりに、驚いていた。
自分の心が動いた、動揺と混乱と、それとときめき。
それをもたらした少女のいる朝が、始まろうとしていた。