うちの嫁には生えてます!?(25/27)
第25話「終わりを終えて、その先へ」
辰乃は空から、ゆっくりと美星を下ろしてくれた。
何百メートルも下へと、まるで羽毛のように舞い降りる。
全く怖くない、奇妙な安心感さえある。
見上げる辰乃の巨体が、あっという間に雲の彼方へ見えなくなった。その姿が最後には、輪郭を解いて人の姿へ縮んでいくのがわかった。
そして美星は、空港へと降り立った。
「何の騒ぎだ? 飛行機が遅れてる? なら、チャンスだろ!」
空港内は騒然としていた。
何故かどの便も、離陸を見合わせて遅れているらしい。
この時、美星は思いもしなかった。
突如高速で飛来し、空港のレーダーに映った巨大な影……それが、あまりにも突然消えてしまったのだ。アンノウンは勿論、辰乃だ。だが、意図せず彼女は、美星が百華に手を伸べる、その背を押してくれたのだ。
雑多な言葉が行き交う中で、美星は国際線のゲートへ走る。
そして、見慣れた背中を人混みの中に見つけた。
「いた……百華! 百華っ!」
絶叫。
誰もが振り向く中で、声を張り上げ名を呼んだ。
構わず呼びかけ、探し求めて美星は走る。
その先で、一人の女性が振り向いた。
驚きに見開かれた目に、息せき切って駆け寄った自分が映った。
「美星……!」
「百華! はぁ、はぁ……ああ、よかった。間に合ったか」
「アンタ……何してんの? こんなとこで」
「……わからん」
そう、わからなかった。
気持ちに整理をつける、関係にケジメをつける。
それが、具体的にどういうことなのか、それはまだわからない。どうしたいかすらわからないのだ。ただ、それでも百華に会わなければいけないと思った。
この日、この時、この瞬間……それが最後の機会だと教えてくれた少女がいる。
立ち止まっては後ろばかり見る自分を、強く大きく押し出してくれた人。
それは、美星の愛する、美星を愛してくれる妻なのだ。
「わからん、って……もう、何? 相変わらず変な奴。それで? ……何さ」
「ああ、ええと……ウィーン、今日発つんだってな」
「そ、ドイツまで飛んでそこからバス。長旅だよー?」
「き、気をつけていけよな」
「あいよ」
周囲は再び、飛行機の遅延がもたらす混乱の中に溶け消えた。
若い男女が再会した、そんな映画のワンシーンみたいな光景を羨む余裕などないらしい。ごったがえす喧騒の中だからこそ、今の美星は百華と二人きりだった。
騒がしさが象る密室の中心で、美星は脳裏に言葉を探す。
だが、そんな彼を見て百華は笑った。
それはもう、屈託のない笑顔だった。
「もぉ、なんて顔してんの? 美星っ!」
「あ、ああ」
「丁度良かった、アタシから会いに行ったんだけど……アンタ、いなくて」
「ちょっと、醤油を買いに。そこで、千鞠から聞いた。今日、行くって」
「そっか。じゃ、やり残したこと、片付けちゃおうかな」
そう言うと、グイと前傾に百華が身を乗り出してくる。
彼女はすらりと細い人差し指を、トンと美星の胸に突き立てた。
「アンタにもう、未練なんかない。アタシの一生の恋人は、バイオリン。ちょっといい雰囲気で楽しかったけど……ウィーンでの日々が始まるなら、アンタとの日々はもういらない」
「そうか」
「……そうよ。そのこと、ずっと言わなかったわよね? 中途半端、アタシは嫌だからだ」
「奇遇だな、俺もだ。それと」
美星は、じっと見詰めてくる百華を見下ろす。
目を逸らす彼女の、その指ごと胸に向けられた手を握った。
ビクリと身を震わせたが、百華は抵抗しなかった。
「俺は嘘も嫌いだ。百華、そんなに俺を気遣うな。……見てて辛さが二倍になる」
「美星、アンタ……」
「それと、俺はお前に未練がある。そのことを認めてくれた上で、精算のチャンスをくれた娘がいるんだ」
「たつのん、か……バカな娘、そんなの別にいいのに」
「俺にはよくないし、辰乃だってそうだ。お前もだろ? 中途半端、嫌いなんだろ?」
そのまま美星は、握る手に手を重ねる。
そして、一度深呼吸してからゆっくりと言葉を選んだ。
自然ともう、限られた単語の組み合わせしか思い浮かべられなかった。
「百華、お前が俺は好きだった。でも、お前に好かれる自分でいるために、無用な苦労を勝手にし過ぎた。そのことは、すまん。無理をしてたから、お前をちゃんと受け止めきれなかった」
「……趣味のこと? 美星、結構オタク丸出しでしょ」
「そうだ。そういうとこも全部、お前に見せておけばよかった。俺は……お前に嫌われるのが怖かった。オシャレで頼れる好青年でいることで、お前の眩しさに負けない輝きを放とうとしたんだ。でも、無理だった」
「そりゃね」
百華は僅かに眦を緩めて、柔らかな視線を注いでくる。
そして、彼女はそっと美星の手を振り払った。
「アタシさ、知ってたよ……美星がアタシを好きだってこと。好かれたくて背伸びしてることも、それもアタシに惚れてくれたからだってこと。だって」
「だって?」
「アタシも美星のこと、好きだったから」
「過去形だよな?」
「お互いにね」
そう言って百華は小さく笑う。
だが、潤んだ瞳に溢れそうな涙が、光をたたえて揺れていた。
濡れた睫毛を何度も瞬かせて、彼女は決壊寸前の涙腺を必死に支える。
「美星と一緒にいると……夢を忘れそうになるの。バイオリンへのあの、渇望のような飢えた情熱が遠ざかってゆく。それくらいに、優しい日々だったの」
「それでも……それをわかってても、バイオリンを取るんだな?」
「そう。アタシ、バイオリンがないと死んじゃうよ。バイオリンだけを見てないと、生きてるって思えないの。でも、美星は凄く優しくて、安らぎで、だから終わらせるの」
退路を断つのだと百華は言った。
美星と一緒なら楽ができる、気持ちがとても癒やされる。自分に惚れてる美星の優しさに、どこまでも甘えることができるらしい。
だが、そうして美星を上手く頼ってしまうことが怖かった……彼女はそう打ち明けてくれた。
「アンタさ、次はアタシのためにバイクとかやめそうじゃん」
「ん、それは……それに限らずやめる、かも。さっきちょっと。でも、それはいいんだ」
「よくない。アンタがアタシを、アタシのバイオリンを支えてくれたら……バイオリンがアタシだけのものじゃなくなる。アタシは、アタシの音楽をアタシ以外の力で支えたくない。アタシが、アタシの腕だけで! バイオリンと生きてくの」
「……難儀な話だな」
「でしょ?」
美星も気付けば、笑っていた。
自然と微笑めたのは、いつ以来だろう。
泣きそうな百華を安心させるように、彼は気付けば笑みを浮かべていた。
「お前に話せて、話してもらって、よかった」
「アタシも」
「……一緒に行こう、なんて言ってくれなかったから……不安だった。でも、そういう訳だったのか。そうなら、まあ……付き合いきれん。少し寂しいけどな」
「そ。アンタがいたら、アタシ……ズブズブに甘えちゃう。その時、アタシの音はどんどんぼやけていくと思う。やっぱりそれって、怖いよ」
「俺は、さ。お前がずるいと思ったよ。好きなことを我慢してまで、俺はお前にいい男だと思われたかった。でも、お前は……好きなことのために全てを捨てて、俺さえ捨てていこうとしてるのに……凄く、いい女だ」
「だろー? にはは、惚れ直したか」
「いや……惚れ終えた」
「そっか」
美星は黙って手を差し出した。
キョトンとする百華に、握手を求めたのだ。
「今まで、ありがとな。百華、いってらっしゃい」
「おう。行ってきまーす、っと」
「達者で暮らせよ、お前はそもそも――!?」
その時、握手に応じた百華は……意外な行動に出た。
美星の手を握って引っ張り、背伸びして唇を差し出してきたのだ。僅か一瞬、一秒にも満たぬ瞬間、唇同士が触れ合う。
行き交う呼気もなく、粘膜同士が濡れた音を奏でることもない。
ただ、触れた。
離れるために触れたのだ。
互いに名を呼び睦言を連ねた、その唇同士が触れただけ。
重ねたとすら言えない、柔らかで軽やかなくちづけだった。
驚きに固まる美星から、弾かれたように百華は離れる。
「わはは、隙ありっ! 餞別、もーらったっ!」
「百華、お前なあ」
「たつのんを泣かせるなよー? 美星、アンタにはもったいないくらいのイイ娘なんだから。あと、ちゃんと抱いてやれ! 何でたつのん、まだ手付かずなのさ」
「それは、その……色々あって」
「色々あるなら、色々やれよ! 頼むよもー? いい? んじゃ、行くね」
「……ああ」
結局、百華は涙を見せなかった。
最後まで彼女は、涙の重さに負けなかった。
泣きそうな顔に笑みを飾って、そして去ってゆく。手を振り前を向くともう……百華は振り返らなかった。去りゆく恋心が今、解放されて溶け消える。
美星はその背を、見えなくなるまでずっと見送るのだった。
こうしてようやく、美星の恋は終わり終えたのだった。