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うちの嫁には生えてます!?(22/27)
第22話「選び抜くことがまだ、未選択」
辰乃は驚きで固まった。
全身も思考も、硬直してしまった。
自分が抱きついたのは、最愛の夫ではなかった。
そればかりか、かつて夫が愛した女性だったのだ。
「あー、えっと、たつのん? そだ、この間は大丈夫だった? 具合悪くなっちゃった?」
さして驚いた様子もなく、百華は辰乃を見下ろしている。
そして、彼女は不意にプッ! と笑い出した。
「ちょっと、たつのん! 何? その格好。今日、何かのお祭り? コスプレ?」
「はわわ、こ、こっ、これは……え? 百華さん、今日が何の日か御存知ないんですか?」
「んー、なんだっけ? それよりさ、美星いる?」
意外だった。
辰乃は正直、驚いた。
現代の若者の間では、恋人同士の誕生日というのは重要な記念日ではないのだろうか? だが、今まで辰乃が見守り、物理的にも守ってきた人間達は違った筈だ。
特に、未来を共にしようとする男女には特別な日だった。
百華は、ぽかんとしてしまった辰乃を優しく引き剥がす。
「アタシさ、今日これから出発するから……一応、ね。たつのんのためにも、やり残したことを片付けようと思って」
「わたしのため、ですか?」
「そ! ……あれ? 美星、出かけてるのかあ。あちゃ」
玄関を見ただけで、百華は美星の外出を察したようだ。
魔法少女ラジカル☆はるかのコスプレ衣装のまま、辰乃はおずおずと尋ねる。よく見れば百華は、服装こそ革ジャンにジーンズと以前通りだが……抱えたバイオリンケースとは別に、大きなトランクケースを置いていた。通りにはタクシーがウィンカーを点灯させている。
そして、辰乃は記憶を掘り出す。
確かに以前、千鞠は言っていた。
百華は音楽の都ウィーンへ行くのだと。
先日の豊かなバイオリンの旋律をも思い出す。
「も、もしかして百華さん……バイオリンをウィーンで?」
「うん。アタシ、貯金も溜まったし、ドイツ語とかの勉強も終わったからさ。ちょっと行ってくる!」
「まあ……おめでとうございますっ! 百華さんのバイオリンなら、きっとウィーンの方々にも通用しますわ。素敵ですっ!」
「まーね! ……なんて言っても、ちょっと正直ブルってるんだけどさ。だから、美星に会いに来た。けど、いないかあ……しゃーないな」
百華は背後のトランクに手を伸ばす。
このまま去るのかと思って、咄嗟に辰乃は引き止めてしまった。
そして、心の中で後悔する。
このまま百華がいなくなれば、美星の中で彼女は風化して消えるのでは?
だが、答は否だ。
きっと、このまま去られては美星は救われない。辰乃も、百華には勝てないままずっと過ごすのだ。そう、勝ちたい……美星の中から彼女を追い出し、自分だけの愛で満たしたい。
そんなことを考える自分が恥ずかしく、それも構わないとも思えた。
百華は素晴らしい人間で、女性としても美しく活力に満ち溢れている。快活で闊達、何より気持ちのいいさっぱりとした好人物だ。そんな彼女の面影を、美星の中で綺麗な化石になど、させない。琥珀に浮かぶ蝶のようになど、させたくない。
「待って下さい、百華さんっ! 美星さんが戻ってくるまで、待っていただけないでしょうか」
「ん、でも……飛行機の時間が」
「少し、ほんのすこしでいいんです!」
「はは、いいよ。ちょっと待ってて。タクシー代、精算してくる」
百華は一度、通りで待つタクシーに戻っていった。
急いで辰乃は家の中へ取って返す。
お湯を沸かしてお茶の準備をし、来客用にと取ってあった茶菓子を出した。着替えるのも忘れて、魔法少女の衣装をヒラヒラさせながら居間へと茶道具を運ぶ。
百華は「おっじゃまー!」と、まるで我が家のような気軽さで入ってきた。
「おー、変わってないなあ。この家、古いけどいいよねえ。アタシ、好きだったなあ」
「あ、あのっ! どうぞ、座って下さい。今、お茶をお出ししますっ!」
「サンキュ、たつのん。で……美星とはどう? 上手くいってる? あいつさ……まだアレを隠してんの?」
「アレ、とは」
「その、オタク趣味っての? アニメとかゲームとか。……でも、たつのんのその格好を見ると、違うみたい。よかったよ」
へらりと百華は笑う。
辰乃は驚き、急須を持つ手を止めてしまった。
百華と恋人だった頃、美星は自分の趣味を隠していたと聞いている。千鞠が先日驚いていたので、隠し通せていたと思っていた。
だが、真実は違った。
百華は知っていたのだ。
美星がいわゆる、オタクと呼ばれる人種だったことを。
「そ、それで……それで美星さんとの仲を解消したんですねっ! わたし、千鞠さんから少し聞きました。ああした趣味の殿方は嫌われると。でも、でもっ!」
「ちょい待ち、んとね……アタシ、付き合い始めてすぐ気付いたよ。でも、それからも暫く付き合ってたし、うん……ずっと一緒だった」
「えっ? じゃあ、どうして」
あぐらをかいて座る百華は、考え込む仕草で視線を上を向く。
そして、真っ直ぐ辰乃を見詰めてきた。
その瞳に迷いは感じられず、綺麗に澄んだ光が満ちている。
「たつのんさ、合コンってあるじゃん?」
「ごうこん? ごうこん、ごうこん……?」
「ありゃ、知らないの?」
「し、しっ、知ってます! ……もしや、合婚? 合体結婚!? もしくは、合同結婚式!?」
「何それ、面白い。ふふ、ほんとにアンタ、面白ね」
「まさか百華さん、美星さんの正妻の座を? それとも、わたしが正妻で百華さんが側室ということでしょうか。それは、ちょっと、嫌です……でも、百華さんなら」
「おーい、たつのん?」
思わず暴走しかけた辰乃の頭に、百華はポスンとチョップした。
そして、そのまま腕組み語り出す。
「合コンってのはね、複数の男女で宴会すんの。で、気に入った異性がいたら、お付き合いしたり、まあ……一夜を共にしたり? そういう感じの、言ってみればお遊びかな」
「破廉恥です! 男女の交際にあるまじき不純さ、不真面目さ!」
「まあまあ、たつのん。でね……合コンだと、もう男達も頑張っちゃうのね。自分をよく見せようとする。嫌われないよう、好かれるように頑張るの。それ、さ……結構ダサいとか見苦しいとか言う人もいるけど、アタシは好き」
視線を外した百華が庭を眺める。
どこか遠くを見るような目の向く先を、辰乃も黙って見詰めた。
やはり、遠くから黒い雷雲が雨と共に近付いていた。
「美星はさ、アタシに惚れてくれた。アタシも、好きだったよ? で、さ……アイツ、アタシに嫌われないようにって、オタクなとこ隠してた。オタク、やめちゃったんだよね、あれ。そういうのさ……そう頑張れちゃうの、アタシ嫌いじゃないんだ」
「……美星さんは時々、頑張り方が変だから」
「そう! そうなの。でも、さ……美星と一緒で本当に楽しかった。けど、アタシが一番好きなのは、やっぱりバイオリンなの。アタシのために、好きなことを捨ててくれた美星とは、一緒にいられなくなっちゃった。アタシは何よりも真っ先に、バイオリンを取るから。バイオリンだけがいいから」
辰乃はその時、百華が寂しそうに笑うのを見た。
そして、その物憂げな表情が美しいと思った。
だが、美星の今の妻は自分で、百華は元カノとか言うらしい。つまり、前妻だ。そして、彼女は美星よりもバイオリンに生きる道を選んだのである。
しかし、その事自体が辰乃は解せなかった。
「あの! 美星さんとお付き合いしながら、バイオリンは続けられないんですか?」
「んー? 何? たつのん、アタシと美星がよりを戻した方がいい?」
「そっ、そそ、そんなことないです!」
「またまたー、アタシはじゃあ二号さんでいいけどー?」
「駄目ですっ! ……嫌、です。でも、お話を聞いてたら、少し」
変なコスプレ衣装のままの辰乃は、頭を百華に撫でられた。
何だか子供扱いされてる気がしたが、辰乃の人間としての肉体は十代の少女なのだ。残念ながら、大人の魅力に満ちた百華とは違い過ぎる。
「バイオリンをやりながら、美星と暮らす……これからも美星と生きてく。いいね……最高だと思う。でも、アタシにはできない。別に、求道者を気取ってる訳じゃないんだ。ただ、アタシはバイオリンが世界の中心じゃないと駄目なの。その周囲に美星はいて欲しい、アタシの周りを回っててほしい……けど、駄目」
「ど、どうしてですか?」
「美星は、そのために更なる我慢をして、次はバイクもやめちゃうかもしれない。知ってる? たつのん。アタシみたいな無名のバイオリニストってさ……すんごーい! 貧乏なの! 仕事がないの! 収入もないの」
そう言えば、初めて出会った時……百華は商店街の路上で大道芸のようにバイオリンを弾いていた。とても綺麗な音色は、今の耳の奥で歌っている。
「美星はさ、アタシに惚れてるから頑張ってくれそうだけど……そういうの、後ろめたいからアタシの音を濁らせる。アタシの決意を鈍らせるんだ」
「……それは、わかります。だって美星さん、いつもわたしのために」
「でしょ? でも、今のたつのんを見たらわかったよ。たつのんは、美星のキモオタなとこも受け入れてる、美星も自分を見せられてるんだね。その格好見たら、すっごいわかった!」
改めて辰乃は、自分の姿を思い出して赤面に俯いた。
だが、百華は笑って畳の上に立ち上がる。
「今日はさ、だから……精算しに来たんだ。こんな自分勝手で傲慢なアタシが、勝手にいなくなったのに……まだ美星は、好きだと思ってくれてる。そーれがわかっちゃうんだなあ。だから……振り直しに、来た。お別れを言いに来たの」
「そう、だったんですか」
「でも、タイムアップかな? 飛行機の時間、間に合わなくなっちゃう」
彼女は手首の腕時計に目を落として、また寂しげな笑みを浮かべる。
「アタシさ、バイオリン仲間のツテもあってウィーン行きが決まった時……そのまま美星に言ったんだ。ウィーンに行くって。あいつ……引き止めなくてさ。それっきり。お別れもしなかったし、嫌われてもやれなかった。中途半端にしちゃったの、アタシだから」
「美星さんは、夢を追いかけてる人を引き止めるなんてしないです。それが好きな人なら、尚更……だから、辛くて、苦しくて……でも、いつもぼんやりしてて」
「そうそう、平気な顔しててさ。かわいくないんだ、アイツ。アタシも……かわいい彼女じゃなかったなあ」
辰乃には、引き止めることができなかった。
百華は今日、日本からウィーンに行ってしまう。自分を我儘な悪い女のまま、それでも好いてくれてる美星の中に思い出を残して。宙ぶらりんなままで去ってしまうのだ。
辰乃はただ、祈った。
この瞬間にも、美星が帰ってきてくれることを。
どんな形であれ、二人の間に行き交う言葉が欲しかった。
それで二人が復縁して、自分の居場所がなくなっても……狂おしい程の切なさから解放されるなら、それでもいいと思った。人の心は今、龍神の精神力でも制御できない熱を発しているのだった。
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