うちの嫁には生えてます!?(3/27)
第03話「二人の朝」
目覚めてすぐ、荒谷美星は枕元のスマートフォンを手に取った。
時刻は六時半を少し過ぎたところだ。
あれだけ痛飲して酔っ払ったからか、やけに喉が渇く。まだまだ酒精の余韻が残る身体は、律儀な気だるさで加齢を伝えてきた。
29歳とちょっと、もう無理ができる若さじゃない。
アラサーな自分を自覚して身を起こせば、普段と全く違う朝が広がっていた。
「歌……? この声は。それより、味噌汁? いい、匂いだな」
薄荷を溶かしたような朝の冷たさを、弾んだ声が震わせていた。
知らない国のわからない言葉で、歌が静かにたゆたう。
その調べに乗って、味噌汁のあたたかな香りが寝室まで漂ってくる。ふと隣の布団を見れば、もう既に綺麗に畳まれていた。そして、自分が寝ぼけながらも抱きしめていたぬくもりも、今は布団の中にはなかった。
「裸、だった……いや、でも、生えていた」
上手く思い出せないが、断片的な記憶を脳裏に拾い集める。
確か、そう、奇妙な老人と酒を飲んだ。
それで、嫁がどうとかいう話になったのだ。
顔を手で覆いつつ、もそもそと美星は立ち上がる。パジャマ代わりにしているスウェット姿で、そのまま真っ先に台所へと向かった。
日頃から適度に自炊するが、ここ最近は忙しくてそれどころではなかった。
そもそも帰宅しても洗濯とシャワー、着替えしかしてなかったのだ。
手狭な古めかしい台所には、少女の後ろ姿があった。
思い出した、あのふわふわした服に翡翠のような長い髪……昨夜の彼女だ。
「ええと、おはよう?」
おずおずと声をかけると、歌が途切れる。
おたまを手に振り返った少女は、美星を見てパッと表情を明るくさせた。
まるで、春待ちの二月に突然の花が咲いたみたいである。
「おはようございますっ、旦那様! 朝餉の用意ができてますので、すぐそちらに」
「ああ、うん。ありがとう」
言われるままに美星は隣の居間でテーブルに腰掛ける。
少し大きめのテーブルは、かつて二人暮らしだった時の名残だ。
少女は二つあるコンロの片方で味噌汁を作っていた。そしてもう片方では、片手鍋で炊いたお米をお茶碗によそい始める。
ちらりと美星が視線を滑らせる先には、ごく一般的な電子ジャーがあった。
何故、電子ジャーで炊かないのだろうか?
そう思ったが、目の前にあつあつの白米が置かれて思わず喉がゴクリと鳴った。
他には味噌汁だけだが、お椀の中には色とりどりの野菜がたっぷり入っている。
「大したものもできませんでしたが、どうぞ」
「ん、いただきます。……君が?」
「はいっ! 旦那様の家の冷蔵庫は変わってますね……最初、気付きませんでした。中にお野菜だけがいくつか……でも、ちょっと古くなっていたので、傷んだ場所を捨ててお味噌汁にしてみました」
水分と塩分を欲する身体は、少女の声に促されて味噌汁を一口。
美味い。
なんてことはない味だが、自分で作るのとは別物だ。
特別な材料を使ったわけではないだろうが、普段の自分と同じだしや味噌とは思えない。何より、人の手で作ってもらった料理の味は久しぶりだった。
ごはんもふっくら柔らかめで、それでいて米が立っている。
つい夢中で頬張ってしまったが、美星は一心地ついてから箸を止めた。
生来の無感動気質もあって、酷く冷静な自分が少し変だった。
「えっと、君は?」
「あ、はい。あとで頂きます。旦那様がまずは先ですから」
「いや、それもあるけど……名前、とか。その、何も知らないからさ」
「あっ、そ、そそ、そうでしたっ!」
畳の上に突然、少女は膝を折った三つ指をついた。
流麗な所作で、健気なまでに徹底した作法を美星は感じた。
「辰乃と申します、旦那様。不束者ですが、末永くよろしくお願いいたします」
「あ、思い出した……そこまでは焼き鳥屋で、やまがみで聞いた。でも、辰乃……君の名前なんだ」
「はい!」
「……名字は?」
「家名、ですか? それは……」
「荒谷辰乃……語呂は悪くない、か」
「まあ、旦那様……ありがとうございますっ!」
相当に奇妙な娘だ。
今時ちょっといない、アンティークを通り越して化石みたいな大和撫子だった。
それより、と立つよう言って美星はふむと唸る。
とりあえず、昨夜の老人にもう一度会う必要があった。
それで色々確かめねばならないし、自分にはまだ妻を娶る準備ができていない。酒の席でそういう流れになったが、手続きだってあるだろうし……何より辰乃は未成年に見える。
どう見ても辰乃は、自分と一回りは違う十代の女の子だ。
親御さんはどうだろうかとか、色々些細なことが気になる。
だが、それでも今は朝食がひたすらに美味かった。
「えっと、じゃあ……嫁?」
「はいっ!」
「俺の、妻?」
「ええ」
「つまり……結婚?」
「そうです! あ、おかわりをお持ちしますね」
美星のお茶碗を受け取り、辰乃はおかわりを取りに台所へ行ってしまった。
甲斐甲斐しい背中を見ながら、ぼんやりとだが美星は思った。アリだな、と……だが、アリはアリでも、社会的にはナシだろう。ただ、ちょっとだけ美星は昔を思い出した。それはまだ、心の中でかさぶたにならずに膿んでいる傷だ。
それに、常識的に考えてこのような婚姻関係はありえない。
だが、見ただけで気立ての良さが伝わる少女を邪険にはできなかった。
すぐにスマートフォンをタッチして、会社の後輩へと電話をする。
「あー、もしもし? 莱夏か? 朝早くすまん、俺だ」
『おはよーございます、先輩っ! ふあ……今、何時スか? 超眠いんスけど』
「ん、申し訳ない。で、すまないついでに一つ頼まれてくれるか?」
回線の向こうで、若い女があくびをする気配が伝わってくる。
自分の部下で後輩、プログラマーの響莱夏だ。快活で闊達、元気の塊みたいな女の子である。そして何故か、子犬のように美星に懐いていた。
莱夏はどうやらまだ寝入っていたらしい。
彼女も昨日まで激務に忙殺されていたのだ。
そう考えると、申し訳無さが溜息となって小さく零れる。
『なんスか? アース先輩の頼みならなんなりと! あ、でもお金ならないスよ』
「いや、お前にそこは期待してない。心配はしてるけどな」
『ウシシ、面目ないッス! 先月お借りした分、後日きっちり返済させてもらうスよ。ほいで……何かありました?』
「うん、今日な。ちょっと有給を取ろうと思うんだが。あとで部長にも連絡しておくが、お前には今日だけチームの仕切りを任せたい。……いい機会だしな」
『おお! 了解ッス。いよいよ自分の真の力が……ムフフ。とりあえず、昨日の納品で一段落してるんで、今日は残務整理の予定スね。あとは、ユーザーさんからの連絡の対応と、あとは……不具合報告とか、来ないとおもうスけど、まあ身構えておくって感じで』
莱夏は手塩にかけて育てた後輩だけあって、対応には安心感がある。
それからニ、三の確認をして美星は電話を切った。
そして視線を感じてその元をたどると……お茶碗を盛ったまま辰乃が固まっていた。
「だ、旦那様……それは? あの、今何を!?」
「電話だけど。初めて見る? ……田舎から出てきた子にしたって、スマホくらいは」
「線がないです、旦那様! あ、ひょっとして……す、すみません、不躾なことを聞きました! 旦那様が仰るなら、それは電話です!」
「……そゆ気の遣い方はよしなさいって。ほら、これ。電話なんだよ、本当に」
辰乃の優しさが、ちょっと痛かった。
だが、特に怒るでもなく美星はスマートフォンを差し出す。
まるで宝物を受け取るように、辰乃は両手で恭しく受け取った。
「こ、これが電話……ダイヤルも受話器もないです。……あ、わかりました!」
「そう、理解が早くて助かるよ。それで今日の予定なんだけど――」
「これが最近噂になってる、あのてれほんかあどというものなんですね!」
「……そうきたか」
「あ、あら? 旦那様……わたし、何か変なことを言いましたか?」
小首を傾げる辰乃が妙にかわいくて、そしておかしくて。
気付けば美星は口元に笑みを浮かべていた。
笑ったことなど久しぶりで、その前はいつだったかもう覚えていない。
「あ、いや、ごめん。とりあえずまあ……辰乃もその電話、欲しいかい?」
「えっ? あ、でも、こちらの家にはてれほんかあどがありますし」
「それは俺の。あと、テレホンカードじゃなくてスマートフォン」
「すまーとほん……旦那様の?」
「そう。今は一人に一台電話を持つんだ。携帯電話って……で、これからどうするにしろ連絡取り合える方がいい。辰乃も俺を介さず実家と話したいこともあるだろうし。それに、美味しいご飯のお礼だな」
辰乃は大きな瞳をことさら大きく丸くした。
次の瞬間……彼女はスマートフォンを抱きしめたまま笑顔になった。
そして、異変が美星の前で思い出せる。
確かに彼女は生えていた。
今、生えてきた。
「旦那様っ! わたしもこのような、えと、すまーとほん? を頂戴できるんですか?」
「あー、うん。買ってあげる、けど」
「ありがとうございますっ! わたしが、電話を持つ……凄いですね、旦那様!」
「うん、よかった。で……それ、生えてるけど……辰乃。君、何者?」
言われて辰乃は、ハッとした。
そう、彼女には今、生えていた。
裸の彼女を抱き締めた昨夜、美星が触れた硬くて立派なモノ。
辰乃の頭に立派な、何の生物とも言えぬ不思議な一対の角が生えていた。