うちの嫁には生えてます!?(17/27)
第17話「龍は歌い、人は奏でる」
辰乃は朝からずっと、ごきげんだった。
もう二月も末、春間近である。そして、年度末というのがあって、美星はこれからまた少し忙しいらしい。だから、その分二月中は必ず定時で帰ってくるというのだ。
あれから、辰乃と美星の暮らしに進展はない。
同衾すれども交われず、夫婦の一線を超えられない夜が続いていた。
だが、申し訳なく想いながらも辰乃は幸せだった。
「でも、えすいーというのは大変なお仕事なんですね……何か精のつくものを美星さんに食べさせてあげましょう!」
旦那様の美星はSE、つまりシステムエンジニアである。
その身を支える妻として、家を守る辰乃もついつい力んでしまうのだ。
駅前の商店街を歩く辰乃は、今日も張り切っていた。昼下がりの午後、自然と歌が口をついて出る。たゆたう声を連れて歩けば、誰もが辰乃の美貌を振り返った。
だが、気にせず歌声を弾ませ、彼女は今にも舞い上がりそうな勢いだ。
「それにしても、あにめーそんというのは凄いんです。昨日のも、とっても素敵……流石はわたしの旦那様、美星さんの集めた財宝です!」
昨夜も、夕食のあとに二人でアニメを見た。
美星と並んで見る物語は、大空の彼方に城が浮かんでいるというものだった。宿命の少女は、運命の少年と共に天空の城へと旅をする。
とても素敵な物語だった。
辰乃は拳を握って身を乗り出し、恐ろしさに震えて美星に抱き付いたりした。まるで目の前で本当に人間が生きてるかのようで、絵とは思えぬ迫力だった。
「でも、不思議ですね……悪徳の国ラピュタは昔、わたしがきっちり痕跡すら残さず滅ぼした筈なんですけど。天照さんといい、どうして偉い人はお城を飛ばしたがるんでしょうか」
人間が知らぬ歴史の影を思い出し、辰乃は腕組み首を撚る。
まるで当時を見てきたかのように、昨日のアニメでは描写されていた。
だが、辰乃が神様の頼みで天罰をくだした真実よりも、何倍もドラマチックだったのも確かである。
自然と昨日のアニメの歌が思い出され、今度はそれを口ずさむ。
再び軽やかに歩き出した、その時だった。
「ねえ、アンタさ……いい声ね。いいよ! とても綺麗な歌声」
ふと、呼び止められた。
振り返るとそこには、背の高い女性が立っていた。
年の頃は、美星と同じくらいか、少し若くて二十代半ばか。
だが、弾けるような笑顔はまるで少年のようだ。伸ばしに伸ばした蓬髪を、ざっくばらんに頭の上で縛っている。武家の女剣士といった風体だが、革ジャンにジーンズだ。
そして、手には何か楽器の入ったケースを持っている。
「あ、や……き、聴かれてたなんて! 恥ずかしいです」
「ん、いいじゃん? ね、もっと歌って。その歌、アタシも知ってるから」
そう言って彼女は、手にしたケースを地面においた。
石畳の上で、中から出てきたのは……バイオリンだ。
それを構えて弓を当てると、そっと静かに空気が震える。
流れる調べは和音を連ねて、まるで楽器自身が歌っているようだった。
「まあ、この曲は」
「さっきのさ、何かの映画の歌だよね。ほら、ボサッとしてないで歌って!」
「へ? は、はいっ!」
言われるままにおずおずと辰乃が歌う。
瞬間、バイオリンの音色が調和を奏でた。
歌と音とが呼び合い結ばれ、そして商店街の寒さが消えてゆく。
誰もが脚を止める中、気付けば辰乃はバイオリンの女性と囲まれていた。
(こ、これは……恥ずかしい、です!)
思わず声が上ずる。
調子がずれて音程を飛び越す。
だが、視線で羞恥を訴えても、隣の女性は笑うだけだった。
悪戯心を忍ばせた子供のような笑顔だった。
そして、周囲の買い物客はどんどん増えてゆく。
人だかりの中で、徐々に緊張が辰乃を強張らせた、が――
「さ、もっと歌って……自由に、のびやかに。さっきみたいに」
女性はそう言って、どんどんヴァイオリンの音色を豊かにしてゆく。弦が紡ぐ音楽が、辰乃の中から次々と歌詞を引き出していった。
そうして、何とか二人は一曲を一緒に歌い終える。
同時に拍手が沸き立ち、瞬時に辰乃の頬を赤く染めた。
見渡す限りの買い物客が、老若男女を問わず手を叩いている。皆が笑顔で頷き合い上がら、徐々に手拍子がアンコールを求めてリズムを刻んだ。
どうしていいかわからず、辰乃は隣を見上げる。
してやったり、という顔で女性は再びバイオリンを構えた。
そして、周囲の盛り上がりの中から、聞き覚えのある声が響く。
「辰乃、見事じゃったぞ。ほれ、もっと歌わんかい」
「あ……神様! な、何やってるんですか?」
「なに、隠居暮らしじゃからな。そこの焼き鳥屋でこれからちょいと」
「もーっ、まだお昼ですよ? お天道さまの高いうちから」
「そのお天道さまを作ったのもワシ等じゃからのう。それより、ほれ! 次は何ぞ龍の歌でも歌ってやるのじゃ。お前は昔から歌が好きじゃったからのう」
なんとそこには、神様がいた。
この日本を担当していた、本当の神族……引退して今は、ただの老人として人の輪の中にいる。好々爺そのものといった風体で、トレンチコートに帽子で紳士を気取っていた。
辰乃は顔から火が出そうだ。
だが、周囲も期待の目で見詰めてくる。
「え、えと、では……古い古い歌、です。まだ人間達が国家や社会を築く前の物語」
辰乃は咳払いをして、胸に手を当て歌い出す。
龍は皆、歌が好きだ。
嬉しい時も悲しい時も、神々に歌を奉じて慰めを乞うのだ。万能たる神は完全な存在、そして万物に平等ゆえに自らできることは限られる。故に、そうした神々の意思を体現する者として龍は産み出された。
龍、それはこの宇宙で最強の高位生命体。
星をも消し去り銀河を沸騰させる、その力。
だから、哀しいのだ。
完全無欠である故に、あらゆる生命が持つ限界を知らない。
限りある生を持てないのだ。
そのことを歌ったら、周囲がシンと静まり返った。そして……
「……いい歌だね、なら……こうかな? あ、そのまま! そのまま」
隣の女性が再びバイオリンと一つになる。
そして、より深く深く、奥底へと引き込むような音色が厚みを増した。
辰乃の歌に即興で、あっという間に伴奏が一体化する。
どこか物悲しく、嘆くように弦は歌った。
その中に女性の技術と情熱が、小さな希望を灯してゆく。
人間の言語ですらない辰乃の歌の、その本質を編み上げていくかのような演奏だ。不思議な感覚の中で、辰乃は気付けば頬に一筋の涙を零していた。
歌い終えて、一瞬の沈黙。
そして、先程にもまして激しい大喝采が商店街を包んだ。
「すげえ……何? 何かの撮影? プロモーションか何か?」
「あの娘、どこからデビューすんのかな……ちょっと凄くない?」
「まあまあ、何かしら。とってもいい歌ね……外国の歌い手さんかしら」
「やっべ、動画! 今取った動画をUPしないと! 拡散、拡散だ!」
大騒ぎになる中で、慌てて辰乃は我に返った。
そして、涙を拭うや女性に頭を下げる。
「あ、あのっ! ありがとうございました! わたしっ、買い物がありますので!」
だが、そうして顔をあげると……そこには、やっぱり悪ガキのような笑顔の女性が屈み込んでいた。今、彼女のバイオリンケースには沢山の小銭が投げ入れられている。
それを集めつつ、締まらない顔でにたりと笑った……幼くあどけない、屈託のない笑顔なのにどこか不遜で自信過剰な表情だ。
魅力的な、しかしどこか奇妙な女性は辰乃を呼び止める。
「待って! ね、お礼させて。大繁盛しちゃったし」
「そんな……わたし、そんなつもりじゃ」
「ゴメーン! アタシ、バッチリそんなつもりだった。一人でやってもいいけど、何かないかなーって歩いてたら……アンタの歌が聴こえたの。イタダキ! って思って」
「はわわ、そんな」
ジャラジャラと小銭がぎっしりの巾着袋を掲げて、ニシシと女性は笑った。
入れ物まで用意してあるあたり、いわゆる確信犯であった。
そして、大道芸の片棒を担がされたのに、辰乃は不思議と嫌な気分を感じなかった。あまりに無邪気な女性に、呆れつつも自然と笑みが浮かぶ。
二人の話を聞いた神様が、その時ポンと手を打った。
「そうじゃ、辰乃。この方がお礼をと言うておるしのう……厚意を受けるのも、また厚意。好意もしかりじゃ」
「で、でも、神様」
「さあさ、お嬢さん! この老いぼれにも一杯奢らせてもらえんかね? そこにほれ、焼き鳥屋があるじゃろ? やまがみは馴染みの店じゃ、ワシだけは準備中でもフリーパスじゃからの、ホッホッホ」
あっという間に神様は、バイオリンの女性と打ち解け意気投合してしまった。
周囲が笑顔を連ねて解散の流れになる中……勝手に女性は辰乃の手を取り歩き出す。夕食の支度もあるし、そのための買い物もまだだ。
だが、唯我独尊で歩く女性の笑顔に逆らえない。
そして、辰乃は運命の人の名を知る。
「行こうよ、えっと……アタシ、百華! 早瀬百華よ。アンタは?」
「あ、えっと」
「ま、とりあえず来てよ、これ決定。ほら、あのお爺さん行っちゃうし」
「待って、ください……百華? どこかで、その名を」
結局、神様が振り向く先へと辰乃は引っ張られる。
半ば拉致するような強引さだが、憎めない笑顔で百華が白い歯を零す。
その人物が自分にとって、そして美星にとってどんな存在かを、これから辰乃は思い知ることになるのだった。