うちの嫁には生えてます!?(19/27)
第19話「太陽と月の夜」
美星が帰宅すると、自宅は闇に包まれていた。
温かな明かりが灯る、辰乃の待ってくれる我が家……そこは今、冷たい夜気の中で静まり返っている。
「辰乃? ……まあ、突然来た嫁だしな」
いつも通りの無感動な言葉が自然に出た。
そうだと思ったのに、心が落ち着かない。
唐突な押しかけ女房が、また唐突にいなくなる。
そういう話は、主に打ち切りの漫画なんかでよく見るパターンだ。そして、帰ってみたら実はハッピーエンドという、とってつけたようなオチなのだ。
そう自分に言い聞かせれば、不思議と早足になる。
玄関の鍵は開いていた。
そして、出迎えてくれる辰乃の姿はない。
「ただいま……辰乃? おいおい、まさか!」
靴を脱ぎ捨て急いで家にあがる。
辰乃がいなかった頃の、あの一人暮らしに戻ってしまったかのような家。明かりを点けて見回せども、探し求める少女の姿はない。
台所には火を使った形跡がなく、夕食の準備もされていない。
ちょっと所要でという感じではなさそうだ。
文字通り、辰乃が消えてしまった。
「……なんだよ、これ。ん、もしかしたら!」
慌ててスマートフォンを取り出す手がもどかしい。
神様のメールアドレスを引っ張り出し、むしろ手早くLINEをと思ったその時だった。
ゴトリ、と音がした。
寝室の方だ。
振り向けば、ちょうどふすまがパタンと閉じる。
美星は考える前に駆け寄った。
「辰乃か? そこにいるのか! なあ、辰乃!」
自分でもびっくりする程大きな声が出た。
辰乃を責めている訳ではない。むしろ、安堵の気持ちを確定させたくて気が急いたのだ。だが、ふすまに手をかけた瞬間、奥から泣き声が響く。
「美星、さん……」
「辰乃! どうした、何かあったか?」
「……ごめんなさい、美星さん」
「話が見えん、けど気にするな。いいか、開けるぞ?」
そっと開いたふすまの向こうに、闇が広がっていた。
窓からの月明かりすら入ってこない、暗黒。
そして……不意にその中に巨大な太陽が現れた。
何かと思ったが、それは大きな大きな瞳だ。
青みがかった深い翠は、辰乃の優しい色である。
「辰乃、なのか……?」
「お、おかえりなさい、美星さん……ごめんなさい、あの」
「い、いや、いい。どした? 部屋に入るぞ――!?」
部屋一杯に何かが詰まっている。
それは、入口に目を瞬かせる辰乃の身体だった。廊下の光を拾って鱗を波立たせる、巨大な龍が寝室に詰め込まれていた。
「美星さん、わたし」
「きっ、気にするなって、辰乃。なあ……どした? 調子、悪いのか?」
「……あの、わたし……今日」
――百華さんに、会いました。
瞬間、美星の心臓が跳ね上がる。
鼓動が不穏に高鳴る、その音が耳の奥に反響する。
その名をずっと、心に刺さりっぱなしにしていた。
そして、それに一番触れて欲しくない少女が、告げる。
背を向け逃げてきた存在が、真正面から美星の今を揺さぶっていた。
「商店街で、神様と一緒に……百華さんと、お、お酒を」
「あ、ああ。うん、そうか」
「お天道さまが高いうちから、それで、あの」
「いや、辰乃は1500歳だからな。未成年に見えるけど、大丈夫だ。それに、毎日家事を頑張ってるんだからそれくらい、いい。息抜きにもなるし、それに、あれだ、うん」
不思議と多弁になる。
何かを辰乃に語りかけて無いと、不安になる。
そして、目の前の大きな瞳はじっと美星を見詰めてきた。
言い訳がましい言葉しか浮かばない。
何から説明したらいいのか、辰乃はどこまで知っているのか。
どうすれば、自分は一番救われるのだろうか?
泣いてる妻を前に、自分勝手なことが脳裏を掠めた。
だが、許しを乞うように辰乃の涙声が続く。
「それで……その、焼き鳥屋さんで」
「ああ、やまがみ? あそこ、いいよな。真司は元気だったか? って、そうじゃなくて、ええと」
「暑くて、身体が熱くて……それが、嫉妬だって神様が」
「嫉妬! ……それは、その、百華に」
「はい……それで、全身が火照って、胸の奥がチリチリして……思わず」
「思わず!」
「脱いで、しまって」
「脱いで!」
「……百華さんに、逆鱗に……触れられて、そこからもう」
目の前の瞳が、じんわりと潤んだ。
何を言っていいかわからない。
ただ、辰乃に失望されたくないとしか思えなかった。
それは同時に、自分を守りたいという考えをも連れてくる。
勝手だ。
酷い男だと美星は自分にうんざりした。
そして、どうにか言葉を絞り出す。
「逆鱗に触ると、どうなる……?」
「気持ちが、感情が……制御、できなくなって」
「まさか、辰乃!」
「……誰にも見られて、ないと、思います。でも」
辰乃は店を出るなり、自分の輪郭が解けていくのを感じたという。
幸運にも、駆け込んだ路地には誰もいなくて……そこで、本来の姿に戻る中で空へ逃げたのだ。そして今、寝室にパンパンに詰まって丸くなっている。
龍の瞳はまるで宝石みたいで、美星が吸い込まれそうな程に大きい。
「さっきまで、人の姿に戻ってて……落ち着こう、落ち着こうって」
「あ、ああ」
「でも、美星さんが帰ってくる音が聴こえて、それで、また」
「……そっか」
美星は少し安心した。
辰乃はいなくなってはいなかった。
そして、何かがあったなら……夫として妻を守り、慰め、元気づけてやらなければいけない。それを自分が一番望んでいることが純粋に嬉しかった。
「なあ、辰乃……まず、百華のことだけどな」
「恋人だと」
「昔の話だ。……ただ、俺がまだ引きずってて、それでも……あいつ、さっぱりしてただろ? そういう女なんだよ」
瞳が頷く気配を見せてくれた。
そして、美星は本心を吐露する。
「ごめんな、辰乃。もっと先に、ちゃんと、ずっと……話しておけばよかった」
「美星さんは悪くないです! ……わたし、嫉妬というものを、知りました……」
「誰でもそれくらい、あるっ! それに……お、俺は、嬉しい。ヤキモチ、焼いたか?」
「は、はい……百華さんはあんなにいい方なのに、わたしは、嫌な気持ちが」
「あ、あいつのことは気にするな!」
自分でまだ気になってる、そのことをまた隠してしまった。
突然のことがありすぎて、何から言っていいかわからず混乱する。その中でも、自分の奥へ奥へと逃げそうな本音を引きずり出す。
「俺はさ、辰乃……怖かったよ。帰ったら家が真っ暗で、辰乃がいなくて……嫌だった」
「美星、さん?」
「辰乃が突然いなくなって、それにも平気な顔でいられる気がして、嫌だった。でも、そうじゃなかった……俺は、辰乃がいない毎日にもう、いたくない」
辰乃の涙腺が決壊した。
廊下にバシャリと涙が溢れて水浸しになる。
美星はスーツが濡れたが、構わずそっと手を伸べた。大きな大きなまぶたは硬くて、そして温かかった。そっと触れて、撫でてやる。
「辰乃が嫌な女でも、でっかいドラゴンでも……俺は嫌いにならないからな。俺、自分で思ってたよりずっと……お前のこと、好きだった。今、もっと好きになった」
「美星さん……でも、百華さんは」
「あいつな、酷い女なんだよ! あいつこそ嫌な女でさ。はは……」
「そんな……思ってもないこと、言わないでください。美星さん、らしく、ないです」
「……すまん。でもな、辰乃。あいつは過去で、お前は今だ。そして、未来であってほしいんだよ。ずっと」
そっとふすまが閉じた。
そして、中でガタゴトと音がする。
しばらくの沈黙のあと、おずおずと裸の辰乃が部屋から出てきた。人間の姿をした、小さな小さな美星の奥さんだ。
彼女はバツが悪そうに俯きつつ、両手で胸と股間を隠す。
そんな彼女の頭をポンと撫でると、美星も安心に自然と溜息が出た。
「辰乃、角も尻尾も出していいぞ。ここは、お前の家で、今は俺と二人だろ?」
「は、はい。……ごめんなさい、美星さん」
「謝るのは俺の方だ、辰乃。とりあえず……腹、減ったな。辰乃は?」
「わ、わたしは」
その時、キュゥゥゥ! と彼女のお腹が鳴った。
それで辰乃は恥ずかしさで真っ赤になる。そして、ボンッ! と角と尻尾が現れた。
龍神の少女は、その金色の角がぼんやりと光っている。己を抱くように身を縮める彼女は、ひたひたと濡れた廊下を落ち着きなく尻尾で叩いていた。
だが、そんな彼女の裸体を抱き寄せ、胸の中に抱き締める。
「俺は、百華を忘れる。もう、本当にお別れする。だから……辰乃、これからも」
「美星さん……あ、あの」
「腹、減ってるよな? 今日は、外で食うか」
見上げる辰乃の泣き顔が、小さく頷いた。
この時、はっきりと美星は自覚した。
自分がアースの名の通りに地球なら……彼女はそれを照らしてくれる碧色の太陽なのだ。あの巨大な龍の瞳が、本当に星々の中心たる太陽に思えた。
だから、今は月を遠ざける……百華のことを忘れようとする。
だが、眩い太陽が浮き上がらせる月影は、どんどん心の奥底へと昇り始める。
真昼でさえ白くぼんやりと、百華という月はまだ、美星の中に居座り続けていた。