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僕を悪いという人がいるのもオッケー!自然だ!
ガリレオ・ガリレイは地動説を唱えて、有罪になったそうだ。
マジかよって話だけど、当時は天動説が当たり前の時代だったから、コイツはやばいと思われていたんだろうな。
何が真実で、何が偽りかなんてことは、その時の大衆が選ぶ方がどうしたって本物になってしまうってことは多い。
善悪の基準なんかは、そのまんまだと思う。
2021年現在、世界はどうやら分断しているらしい。
ウチの家庭内ではそんなことは全くないのだけど、実家に戻ると、僕は相当おかしな奴だと、特に父親が叫んでいる。
「表で(家の外で)そんな話、しないでくれよな。恥かしいから。」
僕が父に話したのは、ここ最近の例のアノ、マスクがどうとか、無症状でもウツルだのの、アレですよ、アレ。
僕は当初、なんで家の中でこんな衝突が起こってしまうんだろうと、辛い気持ちになった。
親に対して、僕が調べて気づいたことのうち、ほんの少しでもいいので理解してもらおうとも思ったのに、それが叶わなかったからだ。
でも、それって、父からしてみれば、ガリレオが地動説を唱えた時のように、「お前、頭おかしくなったんか?」と思われているんだろう。
こんな風に俯瞰で見れたら、ここでの溝を埋めようとすることは、今する必要がないってことに気づいた。
(C)オジロマコト/小学館
僕は他人を変えることなんてできない。
自分の世界で精一杯にやれることをやることしかできない。
意見が衝突することは、よく考えたらごく自然なことだ。
言論の自由、表現の自由を認められている国の中で、考えの衝突なんて当たり前にある。
この間、僕が通っているボクシングジムで、トレーナーさんが「本氣で打っていい」とリングに上がらせてくれた。
トレーナーさんは現役プロボクサーで、ジュニアの日本チャンピオン。
僕はボクシングを始めて1年。
相手に向かってパンチを打つことを目指してやってきたわけなんだけど、いざ人間に自分の拳を振り回す機会を得たときに、相手への気遣いが出てきてしまって、100%の力を込めて打ち込むことができなかった。
「芦川さんは優しいですね」
直後にそう言われて、ちょっとホッとした気持ちになったんだけど、今思うと、これってすごく相手に対して、失礼をしてしまったなって思ったんだ。
繰り返しになるけど、相手は日本チャンピオン。
僕はボクシング歴1年。
本氣で打ってきて良いと言ってくれている相手を、僕は信じられなかったんだって思った。
パッと思い浮かばないけど、僕はもしかしたら仕事でこういうことをやっちゃっていたかもしれない。
パートナーを信じて、身を預けることを躊躇ったことがあったかも。
ふと気づいて、ハッキリ言ってあげたかったことも、相手への気遣いが変に出て、当たり障りの無いことに言い換えて伝えてしまったかも。
ちょうど一昨日、こういう流れで思い出したことがあった。
僕は相手を打ちのめしたら立ち直れないと思って、止めていたことがあった。
仲間に聞いたら、躊躇う必要は無い、と背中を押してくれた。
すべてを信頼できるということは結局、自己信頼なんだよな。
僕は次、本氣で打ってもいいとリングに上がらせてもらったら、時間内で体力を一切残すことなく、迷うことなく殴りかかろうと思う。
それが相手に対して、絶対の信頼だし、僕が何をおいても選んでおきたい、良心=魂に従う行動だからだ。
これから生きていくことにおいても同じ。
僕が良心に従って生きていく間で、誰かにとっては面倒なことになったり、僕を悪だと叫ぶ人も出てくるだろう。
それでも僕は、この生き方をやめない。
僕がもし、何かを一生懸命やっているうちに、誰かに迷惑をかけてしまったとしても、その人はきっと自力で立て直せる、と信じることにした。
そうでないと、誰かの何かを気遣いながら、考えて、行動して、とやっていてもキリがないから。
時間ももったいない。
ひとまず僕は、広告業界の中では、鈴木みのるみたいな、「広告業界一、性格の悪い男」になってしまおうと思う。
聖者と愚者、両極の人格が僕にはあるのだから、これこそが究極的に、無条件の愛の最高形なのだと思うんだ。
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