8月23日(水)

まだ調子が戻らず、朝のルーティンが戻ってこない。こんな時、無理矢理に生活を戻すことはしません。

普段も身体と心の自然な回転に任せているだけなので、調子が悪い時も調子の悪さを観察するだけです。身体の中の回転の輪が、ゆっくりと元の形になってくるのを眺めながら待つ。

朝食は、カツ丼。前日の夜がとんかつだった日は、必ず朝からカツ丼が我が家のルール。

今日は、イッコウの子守りの日なので、キワさんとイッコウと三人で事務所へ出社。

キワさんは、午後から南足柄市で小中学校の先生達に、ユニバーサルデザインの講演。スタッフのWさんと準備してきたことがうまくいくといいな。

今回思ったのは、学校の美術の先生がデザインを教えるのは無理があるということ。

理由は単純で、ファイン(純粋芸術)の教師が、ビジネス分野であるデザインを教えることはできないと思うからです。

美大でデザインを学ぶから、高校や中学でもその発想になるのでしょうが、そもそも美術大学でデザインを教えることも、デザインの本旨を整理しきれていないのでないかと思います。

画家とデザイナーでは、同じく絵を描きますが、その本旨が違うように、美術とデザインの本質も違います。

デザインという行為は、行き着くところ商業です。クリエイティブで商売をすることなのでややこしく感じるのですが、つまりは動詞は「商売」で。

例えば、売ることを生業にしている人は、デザイナーがいなくても、売る時に何かしらのデザインを考え、実装しているはずです。

お店のレイアウトや、パッケージや、POPや、はたまたお店の外観など、売れるための工夫をすることイコールデザインです。それを店主に変わってやっているのが、デザイナーです。

デザインの種類は、デザインの始まりと言われる建築デザインや、一般に馴染みのあるファッションデザインなど多くありますが、これら全て、ドメインは商業の上に立っている産業です。

作品だけで成立している(それ以外に意味を持たない)純粋芸術のような、それだけで存在する純粋デザインというようなものはありません。

強いて言えば、デザインはコンセプチュアルアートに近いと思います。概念を表現としたアートは、コンセプトを伝えるデザインと似通っています。

おそらくこの辺りも、アートとデザインの混同を招く要因になっていると思います。

もし学校でデザインを教えるのなら、社会の時間がいいと思う。

僕はデザイナーだが、仕事の9割は観察と、洞察。つまり、フィールドワークも含めた「考えること」。手を動かすのは残り1割だ。大抵、デザイナーの仕事は絵作りがメインだと思われがちだが、考え抜いたコンセプトが決まれば、必要な絵は自ずと決まるので、できたも同然なのだ。

だから、デザインの変遷を、社会の変遷に重ねて学んでいけば、デザインの本質を間違わずに入れると思う。

とは言え、もちろんデザインでも絵作りの時のインスピレーションは否定しない。もしそのインスピレーションが、共感性を増幅できるセンスを備えていたら、それはデザイナーとして大きな武器を持っているということなので、「絵が好きだから、将来デザイナーになりたい」も否定はしないが、それだけではデザインという職能の本質を理解してないので、デザイン事務所に就職しても不幸な結果になる可能性が高い。

帰りに3人でマックスバリューに寄って、「火水曜一」で安くなっている冷凍干物などを朝食用に買いだめする。

夕飯は、真鰯の塩焼き、鰹とスルメイカのお刺身、豚焼肉、水菜とがんものエスニックサラダ。


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