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心のなかに3つのボックスがある、らしい

「あのね、シタノコちゃんのなかにね、3つのボックスがあるんだけどね」

睡魔と戦いながら絵本を読んでいたら、突然シタノコのお話がはじまった。久しぶりにきたな、しかも何だか今日はいつもと違って、詩的なはじまり。


気になりますとも、ぜひ聞かせてくださいよ。ってな気持ちで私は絵本を閉じた。


「その3つのボックスは、それぞれ違うものを入れるの。マルだったものはこっち、バツだったものはこっち、もう一つはそれ以外。マルのボックスはあまり入っていないけれど、バツのボックスはもういっぱいなの。」

ということ、らしい。ちょっと想像していたはなしと違った。そしてすぐに「どんな意図があるのだろう」って話の目的を探りたがる私は、「本当にもう!」って、我ながらナサケナイ。

私のアセリなど知るわけのないシタノコ、淡々と話してくれる。

いわく、「バツのボックスにはイヤな気持ちになったこと、マルのボックスにはイイこと、後の一つはそれ以外のこと」が入っているらしい。

ああ、今日私に怒られたことを思い出しているのかな、と聞いてみる。しかし返ってきた言葉に、また見事に裏切られた。

私に怒られたこともイヤだったようだが、主に「バツのボックス」に入っているのは、学校で泣いてしまったことや、学校での失敗、おともだちとの摩擦のようなできごとなどのようだった。シタノコは、これらの「イヤな気持ちになったこと」を捨てるのではなく、「ボックスにしまっている」のだという。

この話そのものについても、とても驚かされたが、一方で「オヤの邪推のナナメ上の方に、コドモの心ってあるのかもしれない」と、話を聞きながらそんなことを考えた。コドモの心はオヤの手の届かないところでふわふわ浮いているようなものなのかもって。

「この子のことはナンデモ知っている」、あるいは、「知ってトウゼンなんだ!」と鼻息荒くいいそうになるけれど、もちろんそんなはずはなくて。オヤが勝手に見立てるコドモの姿(これこそ内面的なもの)って、ただのオヤの傲慢さの表れのようなものなのかもしれない。

たとえば、「どこでそんなこと覚えてきたの!」なんて、ややキレ気味に言いそうになるけれど、子どもが吸収するすべてをオヤが把握している気になっているからこそのセリフなのか!? そしていつまで経っても、自分がコドモの世界の中心にいる気でいたのかもしれない、と気づかされた。

親の心子知らず、なんていうけれど、コドモにしてみたら「知ったらサイゴ」みたいな部分もあるのかもしれない、、、いろいろ背負わされそうな、、、


シタノコの「バツのボックス」に入っていたことは、どれも私には目新しい話ではなかった。でもボックスの意味はもちろんそこにはない、ハズ。シタノコが自分の体験したこと、感じたことをボックスに入れて、時々取り出してみたり、のぞいてみたりして向き合っているんだなと思うと、改めて己の未熟さが身にシミマシタ。



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