「馬を水辺に連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない」 よね、、、
子どもたちといると、この言葉を体感する日々。
直近でいえば薬だ。久々に抗生剤を処方されたのだが、シタノコ断固拒否。
もっと小さい頃は、無理やりスポイトで口に流し込むなんて手もあったけど、もはや選択肢にも入れられない。目薬なんてチョロかったんだなと、過ぎた日の戦いを思い出して途方に暮れる私。せめて錠剤なら。なんて一瞬思ったけれど、その後たいしていいイメージが続かなかった。結局1日目は見送り、本人の覚悟が固まるのを待つことしかできなかった。
そしてもうひとつ。
私の中で、いったいミナサンどうやっているのって、今だに不可解なことが「習いごと」だ。
自分がオヤになるまでは、子育て界隈のナライゴトばなしを微笑ましく眺めていた。ピアノ弾くの、泳いでます、ヒップホップだyoyo、などいろいろ。聞けば本当にたくさんのナライゴトがあり、聞くほどにそれは自然に子どもたちの生活に馴染んでいるように見えた。そして私は、「もし私だったら子どもにはそろばんさせたいな」なんて、無邪気に会話に混ざっていたっけ。遠い目。
しかし、いざウチノコにナライゴトとなったその日。フリダシの言葉にぶち当たりましたとも。体操教室の前まで連れて行くことはできても、体操させることはできませんでしたよ、はい。
あの手この手をいろいろ使って試してみたけれど、結局は本人の気持ちがついてこなくて撤退せざるを得ず。
「ミズを無理やり飲ませる」ってこともできなくはない。
たとえば学校の帰りにそのまま当然の流れのようにナライゴト、おともだちと一緒にワイワイと訳もわからぬままにナライゴト、なんてことも。
でもその結果として、そのミズがコドモの喉を潤してくれたことは、まだない。
下手すると、「ここのミズはまずい」と、ミズベにさえ連れて行けないことに。もっと言うと、本人が「飲んでもいいかなあ」って程度でも大したことはない。やっぱり本人の「飲みたい!」と言う気持ちが一番だ。と言うのが現時点での結論。
まさに、本人の意思が最大にして(ほぼ)すべてだ!な、と諦観の念。
世の子どもたちは、なんてオリコウさんで、スナオなんだろうって思ったり、私はなんてフガイナイオヤなんだろうと嘆く日々を重ねても、どうしようもない。
喉の渇きに自分で気づき、自らミズベへ向かう子どももいる。ミズベヘ手を取り共に向かい、そこからスッとミズに手を伸ばす子もいる。そして、自分が飲みたい時にしかミズを飲まない子もいるというだけのこと、だと思う。
いずれにしても、ナライゴトが選択肢にある環境ってしあわせだよなあと思う。そして、ナライゴトの恩恵ってきっと大人になってから得るものなのかもしれない。
ちなみにウエノコは喉が渇いていても、「この水は飲めるのか」と疑わずにいられないタイプだと思う。