制服にまつわるエトセトラ。
ウエノコの通う小学校には制服がある。制服といってもポロシャツに半ズボン、もしくはスカートと言った感じで実に簡単なものだ。さらに体操着も学校指定のものがあり、ポロシャツが苦手なウエノコはほぼ毎日体操着で登校している。
実はウエノコ、入学のタイミングや諸々の事情が重なり、長いこと制服を手に入れることができなかった。早く入手しようと躍起になっていたのは私だけで、当の本人は特に制服について触れることも、着たがる様子もなし。似たような色の市販のTシャツやポロシャツでやり過ごしていた。制服ってお値段も高いしね、私もなんとなく、もうこのままでもいいかなって思い始めていたのだけれど、、、
やっと届いた制服に袖を通したウエノコ、何だか嬉しそう。
制服(正確には体操着だけど)を着るようになってから、心なしか朝の支度もスムーズになり、校門をくぐる足取りも何だか軽い。そして、日々の出来事以外に学校について語り始めたのも、思い起こせばこの時期からだったのかもしれない。側で見ていて、「ああ、この子は学校に愛着を抱いているんだな」と感じる機会が増えたように思う。
この子は、ずっと制服を求めていたんだ。
それはきっと、本人も気づいていなかったのだと思う。何だかわからないモヤモヤとした、うまく言語化できない感情をずっと抱えていたのだろうな。
子どもにとって学校の制服ってどういう意味があるんだろう。
ふと、そんなことが頭をよぎるほどに、それは私にとって想像もしていない出来事だった。
そもそも学校の制服って、家庭環境など個人のバックグラウンドを気にすることなく、安心して学校に通うことができるツール、どこの学校に所属しているかが明確で安全性が保たれる。といった目的があったと認識していたけれど、改めて考えると、それらはとても「コドモ視点」だなと思った。「何のために制服を着るのか」という本来の意味を考えていくと、学校の制服って子ども側の立場からみるとそう悪いものじゃないのだろう。というよりも、逆にポジティブな意味を持つ面が大きいのかもしれない。
ちなみに学校のガイドライン上もこんな感じ。
「学校の制服はその学校に通うすべての生徒のもの!私たちは、誇りを持ってスマートに制服を着ることが子どもたちの前向きな自尊心を促進すると信じているよ。だから学校の精神に不可欠なものなんだ。」(当方意訳)
ウエノコが制服を着ることで得た感情って、きっとマズロー先生のいう人間の欲求のひとつ、社会的欲求に関係していたんだろうなと思う。「私もこの学校の一員なんだよ!」って気持ちが一目で満たされるものだしね、制服って。ウエノコを見ていると、このガイドラインがとてもしっくりくる。人って、何の疑問を抱く間もなく手にしたモノの価値に、なかなか気づかないものだなと改めて思った。
じゃあ、どうして日本で「学校制服」の是非が問われ続けるのかなって考えると、それはオトナ側の「制服の扱い方」が大きく影響しているのかもしれない。制服はしばしば「管理の象徴」として捉えられがちだし、それに伴う細かい校則は、子どもたちにとって息苦しさの原因となることが多い。
正直、自分が制服を着て学校に通っていたころは、制服の意味なんて考えたこともなかった。なんで着なきゃいけないの!って愚痴ることもあったけれど、学校側も「制服を着る意味」よりも「どう着るか」について説くことに注力していたように思う。実際校則には、スカートやズボンの種類や丈、靴下の色や長さなどに関する細則があった。そしてそれを生徒指導と称して抜き打ちで確認する。なんて、今考えたらちょっと信じられないようなことがアタリマエのように行われていた。今もやってるのかな、、、
販売方法や価格帯をみても、制服が本来目指すはずの「公平性の担保」という視点からは、かけ離れている現状があると思う。さらに、特に日本社会では、学校の制服自体が、ある意味で象徴的な意味を持ち、性的な対象とされることがある。
こんな状況では、「誇りを持ってスマートに」着ることや、「前向きな自尊心」を促進することが難しいのも理解できる。
子どもファーストとか、子ども中心とかっていろんな言葉が生まれるけれど、結局子どもの気持ちって、置いてけぼりになりがちなのかな。そんなことを考えた、制服にまつわるエトセトラ。