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子どもが子どものまま、そこにいられる社会


サンエーだったかな。スーパーで会計をしている時のこと。ベビーカーに乗っていたシタノコが、突然立ち上がり、バランスを崩した。

あぶないっ!と、私が手をのばすと、ほぼ同時に中学生くらいの男の子がシタノコを支えようとしてくれていた。

私の前に会計を済ませたグループの子で、シタノコに最も近い位置にいた男の子だ。自然に体が動いたという感じで、その子は何事もなかったかのように「じゃあねー」といって、歩いていく。周りの子たちも、特にその子をからかうわけでもなく、ごく普通に会話に戻りながら去っていった。

私は感動した。いたく感動した。そして、確信した。
ここではまだ子どもが「自然にそこにいられる」のだな、と。

東京と沖縄で子育てをしていて、感じていた違和感がここに集約されていた感じがする。

子ども連れで、周りに少し疎ましく思われるかどうか。

単に、忙しない都会と、比較的のんびりとした地方の違いでも、生活圏の分離という話でもない。人々の日常や意識の中に、子どもが「子どものまま」存在しているように感じる。同じコミュニティの一員として、「子どものまま」受け入れられているような感覚がある。

これを言葉で表現するのはなかなかに難しい。表現しようとすればするほど、ただアタリマエのことを並べているように感じる。けれども、このアタリマエが、もはやアタリマエではなくなってきているのカモシレナイ。実際、こんな些細なことに感動している自分がいるから。

そして、もう一つ。老若男女が「子どもに慣れている」のカモシレナイ。子どもに慣れていたら「子どもってこんなもの」という気持ちで見守れるのカモシレナイ。いやそうじゃない!見守る以前のことで、やっぱり「子どものまま、ただそこにいる」だけ。そのことに疑問の余地がないのだと思う。

そして、その先は、子どもは慈しむもの。みんなで大切に見守っていくもの。という流れにあるのカモシレナイ。


もちろんその裏の面もあるわけで、お酒の場にいても不自然じゃないとか、夜が遅いとか、そこには大人の子どもへの責任のようなものが求められる。これはまた別の話。「子どもが子どものままいる」からこその話なのカモシレナイ。そして、きっと現在進行形の課題。


子どもが、「自分がここにいること」や「自分の存在」について、否定的に立ち止まる必要のない社会、子どもが子どものままでそこにいられる社会。それが夢のようなゼイタクになってきているのカモシレナイ。

今回はずっとカモシレナイ運転だ、、、


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