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首にかかる重みと、軽やかに舞うことば
きいちゃんの話をしたいと思う。
きいちゃんは私の父方のおばだ。私との歳の差は40を超える。少し前から、きいちゃんとの思い出が頭をよぎる機会が増えた。あのころのきいちゃんに、私の歳が追いついたからなのか、それとも時代のせいなのか。
きいちゃんはとてもおしゃべりだった。とにかくよくしゃべり、よく笑う。
よく怒ってもいたけど。
21世紀の幕が開けたころも、きいちゃんは変わらずおしゃべりで、テレビやラジオで見聞きした話を、まるで自分の友人の話でもするかのように聞かせてくれた。
「優(早見優)のおすすめレシピはね」と語り、「ソナ(ユンソナ)ちゃんのおしゃべりが、かわいいさあ」とこぼす。ユンソナのことは本当にお気に入りで、いつも「ソナちゃん、ソナちゃん」と、まるで友人の子どもの話でもするかのように、テレビで見た彼女のエピソードなんかを披露していたな。
そしてなぜか、毎朝のおとも、生島ヒロシはずっとフルネームだった。
私にウチナーグチについて教えてくれるのも、きいちゃんだった。
気まぐれに指導が始まることもあれば、ウチナーグチを熱心に学んでいる外国人の記事を、わざわざ切り抜いて見せてくれることもあった。
うちは祖母も一緒に暮らしていたこともあり、家ではよく、沖縄民謡や沖縄芝居の番組が流れていた。それでも、祖母も両親も、きいちゃんでさえ、私たちに話しかけるときは、いつも日本語、ヤマトコトバだった。
そんなおしゃべりなきいちゃんが、たまに話してくれたのが「方言札」の話だ。
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きいちゃんが小学校に通っていた頃、学校は「国民学校」と呼ばれ、戦時下の国家主義的な教育が行われていたという。標準語教育が強化され、学校では強くウチナーグチの使用が禁止されていたらしい。そのわかりやすい罰として存在したのが、「方言札」と呼ばれる長方形の木製の札だ。
「方言ではなく標準語を話すのだ!もし方言を話したやつは、罰としてこの方言札を首から下げてろ!」
見せしめにしていたということらしい。
さあ、困ったきいちゃん。
おしゃべりが止まらないということは、ウチナーグチが止まらないということ。それだけじゃない。驚きや喜びなど、咄嗟に口をでる言葉だってもちろんウチナーグチだ。当然、その札はきいちゃんの首によくかかることになってしまう。
タチの悪いことに、この方言札は他に方言を口にする子どもが現れるまで、ずっと首から下げていなければならない。なかには、わざときいちゃんを驚かせて「アガー」や「アキサミヨ!」といった言葉を言わせ、札をかけさせるように仕向ける子もいた。もちろん、その逆も。だって、きいちゃんだもの。やられっぱなしでは終われない。
きいちゃんは豪快に笑いながら当時を振り返る。
「みんな、きいはすぐしゃべるはずって近づいてきてたさあ」なんて言いながら。
ため息が出るほど残酷な札だなと思う。子どもたちの細い首にかかる重みは一体どれほどだったのだろう。さらに、その札を自分の代わりに首から下げる子どもを探さなければならないなんて。
そんな札はなんの意味もない、ただのパフォーマンスでしかない。実際きいちゃんも、その家族だって、結局ウチナーグチを日常的に話していたのだし、ウチナーグチで歌い、舞う、ウチナー民謡や芝居に変わらず魅了されていたのだから。
なんて、無責任なことは言えないことを、2002年に生きる私はよく知っていた。
きいちゃんや祖母のおかげで、私はウチナーグチに馴染みがあった方だと思う。それでも、聞き取ることはできても、自分で話すことはできなかった。言葉は文化であり、アイデンティティそのものだ。他者に否定される経験は、その言葉や文化への執着心を生む一方で、それを根底から揺るがしてしまう危うさがある。
そして簡単に飲み込まれていく。
私の両親は、私にウチナーグチを話せるようになって欲しいなんて、考えたこともなかったと思う。じゃあきいちゃんはどうだったのだろう。私とウチナーグチでおしゃべりしたいって考えたりしたことがあったのだろうか。
そんなどうしようもないことを、ふと考えることがある。偶然耳にした曲をきっかけに、今では滅多に目にすることのないウチナー芝居のワンシーンが、脳裏に広がる。なんてことが、ごくたまにあるように。ただ、それだけの話だ。
さらに時はすぎて
今、私の周りにはウチナーグチを話す人はほとんどいない。私自身、沖縄を離れている時間が長くなり、リスニング力もすっかり衰えた。
きいちゃんがこのことを知ったら、「バカたれ! あんたはもう、そんなことも忘れたのかあ。」なんて、ものすごい勢いで怒られそうだ。怖いなあ。
でも同時に、もう私にあれこれ口を出してくれる人はいなくなってしまったんだなあ、なんて、ふと感慨にふけってしまいそうになる。そして、そんな私を見たら、きいちゃんはきっと、「そんな暇があったら動きなさい!」って、また怒るに違いない。
少し高めの声で発せられる、きいちゃんのウチナーグチが好きだった。感情とユーモアに溢れ、躍動感があり、とても心地よかった。
もう一度聞くことができたらなと心から思う。