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赫奕たる夏風11  九章 上野桜木・永井邸     


1

「おや、夏さん。先日向島様へお戻りになったばかりですのに、気ぜわしいことですね」

 上野桜木町の永井邸の離れで、脇息にもたれた奥方様…夏さまの母上様は、大きなおなかをさすりさすりお顔をこちらに向けて仰いました。
 ご自宅に到着してすぐ、夏さまは私を連れてお母上・高様へご挨拶に伺ったのでした。

「こちらの人手が足らず、すぐ戻れと父上から急ぎ文が届けられました」
「ああ、そう。それはごくろうでした。よろしく頼みますよ、夏さん」

 お産間近、しかも夏の盛りとて、奥方様はお腹を緩めたくだけた格好をしておられました。
 うりざね型の白いお顔と切れ長の両瞳が夏さまによく似た、臈たけたお方でした。ふわふわと軽やかなお声は、母上さまというより、まるで大きなお姉様、少女のようでした。
 身分高いご婦人というものを目にするのは、私はこれが初めてでした。高貴の女人とは、まるで使用人に対するかのように実の娘に対してお話になるものだろうかと、少し驚いたのでした。
「お産までお健やかにお過ごしください。この者はくれは。向島から連れて参りました。夏の側仕えでございます」
「あら、そう」
 何かお返事をしなくてはと面(て)をあげようとしたのを、夏さまは視線で制されました。

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 離れを出た中庭の井戸で、夏さまは男のように片手で柄杓をつかい、喉を潤されました。
「私、奥方様にご挨拶しなくてよろしかったんでしょうか」
「いらぬ。そういうお人だ」
 岐雲園とは違ってお庭自体が小さい上、塀でお屋敷がぐるり囲われているせいか、外にいるのになんだか狭苦しいような感じがいたしました。
「くれははしばらく私の後について家の事を覚えよ。向島とは勝手が違って戸惑うだろうが、わからないことはなんでも夏に訊くように」
 さて、と夏さまはこぶしで口元を拭われました。
「……いくか。ついてこい、くれは」


2

「あれ夏様お戻りですか。こないだあっちに帰ったばっかりだのにさ」

 台所のたたきで、肉付きのよい女が座ったまま、饅頭だか団子だかもぐもぐしながら夏様を振り返りました。足もとの土間には松葉づえが無造作に寝かされていました。
「怪我と聞いたが、大事ないか。おちか」
「あ痛タタ、急に痛くなってきた。このクソ忙しい時に女中が2人同時にやめちまうし、あたしばっかりこんな思いさせられてさ。ああ夏様、余計なことはなさらんで結構ですからね、アンタは弟様方のご面倒だけ見ててくれたらいいんですよ」
 おちかと呼ばれた女中は、夏様に対して礼を取るわけでもなく、むしろあからさまにぞんざいな態度を隠そうともしないことに、私はたいそう驚いておりました。
「そうか、思ったより重いようだな、大事にいたせ。母上のお産が終わり、お床上げなされるまで家のことは夏がする」
「ちょっと、夏様?」
「奥の者はみな土間へ。夏が命ずる」
 夏さまの張りのあるお声が響き渡りました。

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 土間に集まった女中は三、四人くらいだったでしょうか。

「知っての通り、おちかは足を怪我して身動きが取れぬ。母上のお産も近く、人手が足らぬゆえ、しばらく皆には余計な手間が増えようがよろしく頼みたい。おちかが治るまでは、この夏が奥を預かる」
「あのねえ、勝手をされちゃこまるんだよ、お夏さ……」
「抗弁無用」 
 夏さまの一瞥に、憤まんのおちかはおろか、一同言葉を飲み込んだのでした。
「おちかは足が治るまで部屋から出ぬよう。文字通りの骨休めと思えばよい。では各々そのように」
 ああそれから、と夏さまは言葉を接がれました。
「この者はくれは。夏の手先として、当分上野屋敷で働いてくれることになった。色々と教えてやってほしい」
 とても友好的とは呼べない沈黙が土間から漂ってきました。
「くれはが夏の一の臣であること、各々よく覚えておくように」
 参るぞくれは、と呼ばれ、私は皆さんに一礼して後につきました。

 「小娘が」と、おちかの毒づく小声が通り抜けざまに聞こえました。

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 上野は、岐雲園とは何もかもが違っていて、面食らう事ばかりでした。

 大きなお屋敷ではあるのですが、片付いていないというか、行き届いていないというか、どこか雑然としている感じが否めませんでした。
 お子様の大ぜいいらっしゃるとは申せ、中央政府に仕官する士族の屋敷、しかもかの永井玄蕃頭の縁のお宅ともなれば、もっと整然と管理されてしかるべきという思い込みは、到着初日に音を立てて崩れていきました。

 女中たちは気もそぞろで無駄が多く、お台所がこれまた酷い有様で、いたんだお野菜から虫が涌き、椀や皿の類は充分洗えていないのか、ほのかに生臭いにおいがたちこめていました。 夏さまはごみを片づけ、大鍋にお湯を沸かすよう命じられると、戸棚の器とお道具をすべて洗いなおさせました。
「今後、お椀の類はお湯をつかい、よく洗うように。適当に済ませると病人が出る。赤子などすぐに死んでしまう」
 夏さまの指示のもとで、夕刻までにお屋敷内はくまなく掃き清められました。
 岐雲園のように趣あるとまではゆかずとも、一日で随分こざっぱりとしたものでしたが、誰の顔にも、清々しさというものがありませんでした。

3

一番違うのは、一日中、ずっと騒がしいところでした。

 三人の弟さま方は皆やんちゃ盛りでもあり、その暴れようはまるで嵐か戦場のよう。床が抜けるかと思うほどのどたばた走り回る足音、耳をつんざく金切り声。合間合間に、女中たちの下卑た甲高い笑い声、または怒声。
 人の声、人がたてる物音がこんなに響くものだという事を、私は初めて知りました。

「夏姉さまだ!」
「姉様遊んで!」
「ご本を読んで!」
 お二階の弟様方のお部屋も、脱ぎ捨てた下着やお着物、お道具、おもちゃなど、中々の惨状でございました。
「亨、啓、繁。この部屋の体たらくは何事か。まず各々身なりを整え、身の回りを整理せよ。各々方のお話は、そのあとで姉が聞きましょう」
 弟さまたちとお部屋のお片付けをしていると、女中のひとりがやってきて、離れの奥方様がお呼びですと声を掛けていきました。
 弟方には手を止めぬよういいつけて、夏さまは私を連れて再度離れへ向かいました。

「ああ夏さん、お喉が渇きました。それから甘いものを少し。固いのは嫌です」
 婦人読本をめくりながら、奥方様は先ほどと同じ、ゆったりとしたご調子でおっしゃいました。
 清めたばかりの台所で夏さまはお茶を淹れ、お庭の枇杷の実をもいで皮を剥き種を取り、硝子の器に形よく盛りました。
 「母上のお茶は薄めの温め。お菓子の器は、夏は硝子で冬は柿右衛門にお乗せする。くれはひとりで、これを母屋へお届けできるか」
「はい」
「たのんだよ」
 盆に夕顔を一輪添えたのは、身重のお母様への心尽くしだったでしょうか。 
 奥方様はお茶を口に運ばれると、優雅なご様子で、ぬるい、とひとこと仰られました。
「申し訳ございません、淹れなおしてまいります」
「いいえ結構。…こちらは枇杷?」
「はい」
「いらない。下げて」
「……。かしこまりました」
 お台所へ戻る途中、ちょうどお二階から夏様が降りてこられたところでした。
「枇杷は、召し上がらなかったか」
「……。はい」
「難しいだろう、あの方は」
 私の肩をぽんとたたき、枇杷の実を私の口に放り込むと、夏様はお盆を受け取ってお台所へ向かわれました。
 しおれた夕顔がはらりと落ちたのを拾い、私は夏さまのあとに従いました。

4

 お夕食の支度の時間でしたが、女中が誰ひとり台所に現れませんでした。

 使用人部屋へ見に行きますと、だらしない姿の女たちがおしゃべりや花札に興じていたのでした。

「おや夏様。こんなところへ一体何のご用で?」
 一番奥、乱れた布団の上ではだけた胸元に乳房をのぞかせたおちかが、ニヤリと下卑た笑いをむけてきました。私は思わず目を背けましたが、夏様は無表情でした。
「今日はみぃんな、夏様にさんざこき使われて、草臥れちまったそうですよ。普段は向島のお爺様と遊んで暮らしておられるご長女様が、気まぐれで大掃除なんかお命じになるもんだからね」
 そうよねえ、と、誰かの忍び笑いが聞こえました。
「それからお夕飯ですけどね。夏さまが奥を預かるって言ってましたよね?あたしら、アンタ様の下で動くのなんか初めてで勝手がわからないからね、余計な手出しはしないほうがよろしいかと、気を遣ったんですよ。お利口な夏様のことだ、学のないアタシらなんかより、よほどお上手に、全部ひとりでやっつけちまうんだろうからね!」
 女たちの嘲りが響きました。
 私は何が起きているのか理解できず、理解していないけれど足がガクガクと震えていました。夏様は顔色ひとつ変えず、黙って女たちの間をすり抜け、おちかの前に立ちました。
「そうだな。夏のやり方が、そなた等にはわからなかったのだな」
  ばら撒かれた花札の一枚を指先で拾いあげ、2本の指に挟んで、お顔の前にかざされました。
「ならば、これならどうだ?」
 突きつけたのは、柳に小野道風。
「……何の真似だい、小娘」
 剣呑に睨めあげるおちかに、夏様は指先の札をパチンと弾かれました。
「おちかが勝ったら夏はおちかに従う。夏が勝ったら、お前たちが従う。そなたらのやり方だ、わかりやすいだろう?」
「いけませんねえ夏様、ええとこの姫さんが、どこでこんな下卑た遊びを覚えなすったか……」
「逃げるのか?」
 ケッと鼻を擦り、着物の裾をからげておちかは片膝を立てました。怪我人の仕草にはとても見えませんでした。
「面白れぇや、乗ってやるよ小娘。テメェで墓穴掘りやがって、後で吠え面かくんじゃないよ」

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 12ヶ月勝負、果たして勝ったのは夏様でした。

 嘘だイカサマだと金切り声を上げる女たちを、お黙りなと、おちかは一喝しました。
「あたしらのやり方でついた勝負だ、嫌だもへったくれもありゃしない。みんな、炊事場に行きな。お夏様のいう通りに動くんだよ。わかったかい」


5

 上野では、お子様方と親御様は別々に食事をされるのが常でした。
 お父上様はご多忙ゆえご自宅で食事される事自体がまばら。お方様ははじめからお家の事にご関心がないご様子でした。ご家族の世話は女中たちがしていましたが、奥をまとめる立場の人間はこの時、齢十歳の夏様しかおられなかったのです。

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「今日の夕餉は、ずいぶんゆっくりでしたね」
 離れの奥方様のお夕膳は、私一人でお運びしました。
「お待たせして申し訳ございません」
「構いませんよ。……今日のお茄子はとても おいしい。たいへん結構です、ごちそうさま」
 お椀は、夏さまが作られた茄子のお味噌汁でした。おいしいと仰られたそれは、半分以上残されておりました。

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 一階の居間では、夏さまが弟方の夕餉の世話をされていました。
 お食事中なのかお遊び中なのかわからぬ騒がしさでございました。
「啓、口にモノを入れて話してはいけません。繁、お箸はもっと上を持つよう。もう赤ん坊ではないのです。亨!お膳半ばで立ち歩くとはどういう了見か!」

「……姉様、こわい」
 五つにおなりの啓様が半べそで言いました。
「姉様がいると、怒るからいやだ」
「おちかは、ご飯の時に歩いたりしゃべったりしても怒らないよ。それにお腹が空いたら、いつでもおやつをくれるよ。優しいんだよ」
 一番上の亨さまが抗議され、末の繁様は泣き出しました。
「……お聞きなさい」
 夏様はため息をついて箸を置き、お三人の前に座られました。
「我が永井家は、徳川家譜代家臣として二百六十年を将軍家にお仕えしてきた家柄。お前たちはその栄えある直裔です。けれど今はご維新後。血筋より、おのれの人品才覚で身を立てねばなりません。いずれ大人になったそなたたちが生きていくのは、そういう世界です。
 今、おちかが優しいと言いましたね。お前たちが立派な男子として独り立ちする責任を、おちかはなんら負いません。甘やかされて好き放題にされた結果、そなたらが大人になって恥をかこうが身を持ち崩そうが、おちかにはどうでもよいことなのです」
 姉上の威厳ある態度に、弟君たちはしゅんと大人しく聞いておられました。
「父上はご多忙、母上は常に身重。兄上もご自分の勉学で手一杯、頼れる臣下も仰ぐべき師もおらず、誰からも教えを受けることができずに放っておかれるそなたたちを、姉は不憫に思います。礼と作法は人の道のはじまり、姉が厳しくするのはそれゆえです。そなたらに必要なのは優しさか、厳しさか。
 亨、学校に通う七歳男子ならもうわかろうな」
「……はい。啓、繁。姉様に礼を」

 もうしわけありませんでした、あねうえさま。

 夏様は小さな笑顔をお見せになり、弟君それぞれの頭をポンポンされたのでした。

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 夜8時過ぎ、ご長兄の荘吉さまがお帰りになりました。
 夏様のふたつ歳上、帝大への登竜門である一高受験のための塾に通っておられる秀才でした。
 夏様はお膳を温め直し、お二階南側の兄上のお部屋にお運びなさいました。
 荘吉様は黙って膳を受け取られ、胡坐に本を載せて読みながらお食事されておられました。
 
  下がろうとした夏さまの眼が、ふと重ねた本の山の一冊にとまりました。
「テニスンの詩……」
「触るな」
 食事中の荘吉さまが、夏様へ視線をよこす事なく、低く言いました。
「女が触るな。汚れる」

 沢庵とご飯の咀嚼音だけが、狭い部屋に残りました。

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 お父上の永井岩之丞さまが、お勤め先の築地控訴院からお帰りになられたのはさらに遅く、夜10時をとうに過ぎておられました。
 お子様方はすでにご就寝され、使用人たちも皆部屋に戻っていました。
 人力車でお帰りのお父上を、夏様は玄関で礼をついてお迎えなさいました。

「夏か」
「はい」
 外套と鞄を受け取り、一番奥にある家長の自室へ従いました。
「向島の父上母上はご息災か」
「はい。おふた方よりお見舞いをお預かりしてまいりました」
「ご自身も不如意であろうに」
「……。お食事は」
「済ませた。風呂も要らぬ。夏は今日、何をしていた」
 帯を手伝わせながら、初めて父親らしいお声をおかけになられました。
「昼に着き、そのあとは奥の事を。小さい人たちが寝たあとは、居間で本を読んでおりました」
「繕いものならともかく、灯りがもったいない。倹約するように」
 それだけでした。
 父上、と夏さまが声をかけられました。
「この者はくれは、向島から連れて参りました。夏の従者でございます」
「くれはにございます」
「給金は向島持ちか」
「はい。くれはには読み書きと茶の湯の嗜みが」
「では明日から奥方付きを任せるよう。今夜は下がってよい。それから夏、今後は父の帰りが遅いのをわざわざ待たずとも良い。本など読んで遊んでいないで、仕事が済んだら早く休むように。灯りがもったいない」

6

「今日一日ご苦労だった。こんなに遅くなってしまった、早く休め」
「姫様こそ」
「夏は慣れてる。疲れただろう」
 いいえ、とお返事しましたが、夏様にはお見通しだったでしょう。
 月の明るい晩でした。
 中庭の井戸端で、夏さまが肩をすくめて小さくお笑いになるのがよく見えました。
「くれは、どうした?」
「も、申し訳ありませ……」
「……おしまが恋しいか。明日、向島へ帰らせようか」
「ち、違……帰ら、な……何で夏さま、こんな……ヒっく」
 ん、と首をかしげた夏さまの前に、私は膝をついて泣き崩れました。
「どうしてこのお屋敷では夏さまは、こんなひどい扱いをお受けにならねばならんですか!」
 強烈なうねりがお腹の底からこみ上げ、堪らなくなって、私は言葉を吐き出しました。
「旦那様のあんないい方、あんまりだ!夏さまは遊んでなんかおられない、だれよりも一生懸命学んでおられるんだのに……お方様も兄上様も、夏様のこと、ただの下女みたいに……しかも、あんなゲスなお端下まで、姫様をバカにしやがって!夏姫はあんな奴らが調子乗っていいお方じゃないんだよう、悔しいよう……!ひっく……うぇえ……」

 岐雲園で、お爺様と勉学に励む夏様。凛々しく剣を振る夏様。
 勝翁と英語でやりあう夏様。榎本卿に恥じらう夏様。
 蒼麟を駆け、あれ介を抱きしめる夏様。
 お婆様と繕いものをし、竃をおこす夏様。
 外国の姫君たちに憧れる夏様。

 私の知っている夏さまが、上野(ここ)にはかけらもない。
 昼間から溜めこんでいた苦しさが、堰を切ったようにあふれ出てきました。

「夏さまは誰よりもかしこくて、おきれいで、気高い姫様なんだ。お江戸最後のご忠臣永井玄蕃頭の一の姫様なんだ、夏様は、夏姫様は……。許せないよう、こんなのやだよう」
「くれは」
「いつからですか。いつからこんな扱われ方……どんな思いで、お過ごしになってこられたですか。こんな家で、たったおひとりで!」

 昨日、西の馬場で、私をお召しになられた夏様を、お寂しそうだと、お可哀想だなどと思い上がっていた昨日の自分を、殴りつけてやりたかった。
 それ以上に、嘲られ踏みにじられ、ボロ雑巾のように貶められている夏様の後ろで、ただ黙って震えることしかできなかった自分に、腹が立って悔しくてしかたありませんでした。

 夜遅くのこと、声を抑えようとするたびにしゃくりあげ、涙が止まりませんでした。
「申し訳、ませ……みっともねえ……止まらな……ひっく」
 
 土に崩れてむせび泣く私を、夏さまは長いこと、黙して見降ろしておられました。
 わたしの嗚咽が少し落ち着いた頃、くれは、と呼びかけられ、わたくしは涙でぐしゃぐしゃの顔を上げました。

「忠道、大儀である」

 強く、澄んだお声でした。
 馬場で、わたくしをお召しになられたのと同じお声が降りてきました。
 高く結い上げたお髪がさらさらと、月の光と夜風を受け、濃藍色の闇のなか、銀糸のように輝いておられました。

「今宵のくれはの涙を、夏は生涯忘れぬ。夏のための涙を、明日よりこの家の者たちには、決して見せるな」

+++++++++++++++++++++++

 女中部屋に戻ると、私の分の布団はありませんでした。
 綿の飛び出た座布団を枕に、向島から持ってきた唐草風呂敷を掛け布団かわりにして、その晩は開け放した縁側で眠りました。
 板に直で少し痛かったけど、夏の夜風が涼しくて、気持ちが良かった。

 腹アくくんな。もう子供じゃない。
 母の言葉を思い出していました。
 おっかさんとおんなじ大人にはほど遠いけど、もう二度と、昨日と同じ子どもには戻れない。
 その夜、私はそれを明確に自覚していました。

 おっ母さんは、もう寝ただろうか。
 蒼麟とあれすけも、一緒に寝ているだろうか。

 ……玄蕃様とお方様は、上野で夏さまがどのようにお過ごしか、知っておられるのだろうか。

 ふとそこに思いが至る前に、私は眠りに落ちたのでした。


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