赫奕たる夏風17 十五章 肩揚げの糸を抜いた日
1
「くれはは、おそろしい目に遭ったのですね」
お殿様と夏さまの冬の綿入れに仕立て直す用に解いた生紬を、彰様は縁側に長く広げておられるところでした。その布に火熨斗を当てるため、縁側の一方の端を私が、反対の端っこは玄蕃様がピンと張りつまんでおりました。
夏さまは古くなった中綿をほぐし、お庭の広いところに筵を広げて陽に当てておられました。
お傍(そば)には、運動のために馬場から出された蒼麟とあれすけがのんびり日向ぼっこしておりました。
岐雲園に戻って数日。
匂い立つ金木犀の、甘くるしい薫りが漂っていました。
「おそれいります、姫様が御救いくだされましたようで、おかげでこのとおり怪我もなくぴんぴんしております。なあ、くれは」
火熨斗の炭を熾しながら、母のおしまは頭をさげました。
「顔を殴られたであろう、痕の残らぬように養生いたせよ。夜は、ちゃんと眠れておるか?恐ろしい夢で目が醒めたりはせぬか」
「はい、別にそのようなことは…」
岐雲園(うち)に帰ってこられた安堵で、いつもより寝すぎるくらいでした。
「心に残るキズこそ厄介じゃ。何かあれば隠さず、必ず申し出よ」
いつになく厳しい面持ちで玄蕃様は私に向けて仰られました。
2
「あの」事件の翌朝、夏さまと私は杉倉爺に付き添われ、ひと月半ぶりに岐雲園へと戻りました。
道中、杉倉がぽつぽつと話をしてくれたのは、主には夏さまのお父上・岩之丞様のことでした。杉倉は、岩之丞様が永井家に入る以前のご実家・三好家に長く仕え、お父上の事は御幼少からよく知悉していたのでした。
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「岩之氶様は心根のまっすぐな、努力と忍耐のお方でございます。その真面目さ、ひたむきさが玄蕃頭様のお目にとまり、永井家のご養子となられました。戊辰の役にては、京から江戸まで命を賭してご養母・彰様をお守り申し上げ、玄蕃様がお止めしたにも関わらず、敬愛するご養父に従うは忠孝の道と、箱館まで付き従われたのでございます。
おかげで逆臣の汚名を被ることになり申したが、元来の優秀さと真面目さ故、勝公のご推挙を得て現在の職におつきになられた」
浅草門前を下り、隅田川堤の心地よい川風を受けながら、杉倉は私と夏さまの歩幅に合わせてくれていました。
「ただ、お心の真っ直ぐさと裏腹に、岩之丞様は幼き頃からご自分のお気持ちや情といったものをお示しになられるのが、ひどく苦手でござった。同様に、他の者の意図や真意をおし測る事も得手ではない。ご自分の素直さ故、見えていることがすなわち真なる事と受け止められる。そして、普段口数少なだけ、お心が溢れた時には、激しく高ぶられてしまうことも……」
心地よい揺れで川面を滑る渡し船の、すぐそこに見える水面に手を伸ばして、夏さまは流れに指先を遊ばせておられました。
お膝には、往きよりも厚みを増したご本の包みが置かれていました。
「女子に学びが不要とは、たしかに我ら武家はそのように教えられてきました。真面目な頑固一徹の旦那様には、すぐにお考えを変えることは難しいかもしれませぬ。だがそれは、世の中の事も同じなのではありますまいか。
それを切り拓くには、やはり学び続けることと、鍛錬し続けることしか道はないように、爺には思われますな」
出発する前と何も変わらぬ岐雲園で、私は母の味噌汁でやっと一息つくことができ、夏さまはいつものように蒼麟とあれすけの処へ向かわれました。
朝出れば徒(かち)でも昼前に着く距離だのに、ずいぶん長く、遠くまで行ってきたような思持ちでした。
杉倉は玄蕃さまにお目通りし、長いことふたりきりで話をされていましたが、なぜかその場に母おしまが呼ばれ、杉倉が帰ると、母はいきなり私をぎゅうぎゅう抱きしめてきたのでした。
3
「上野の従僕から聞きました。ほかにもいろいろと苦労をかけましたね」
彰様のお優しさに、私はかぶりをふりました。
「あたしほんとに、何のお役にも立てませんでした。夏さまには御面倒ばかりおかけして、危ないところをお救いいただくことまで……ほんとうなさけない」
「お夏は、くれはに救われていた」
布を張る指先をずらしながら、玄蕃様は仰いました。
「と、杉倉が申しておった」
「そのようでございますね」
火熨斗をゆっくり動かしながら、彰様の微笑みは、綿で遊ぶあれすけをたしなめる夏様へと向けられていました。
「嫌な思いをさせてしまったが、お夏について行ってくれて感謝しておる。ありがとうな、くれは」
「____お殿様にお願いがあります」
火熨斗のかけ終わった布をたたみ終わり、私は玄蕃様と彰様の前に両手を付きました。
「私に、もっとたくさんのことを教えてください。読み書きだけじゃない、学問も武芸もお作法も……。
あたし、夏さまの、本物の臣下になりたい」
くれは、とつぶやいたのは、母でした。
「上野で、あたし悔しかった。夏さまの何のお役にも立てなかった。悪い奴が夏さまを貶めても、あたしは何にも言い返せなかった。足引っ張ってばかりで、あげくは危ないところを助けて頂いて……。
これじゃだめなんです。あたしが夏さまをお助けできるようにならなきゃ、だめなんです。あたしはただの平民だけど、侍女として夏さまをお守りし、お支えできる本物の臣下でありたいんです。だから、あたしがんばるから、どうか教えてください……!」
「その忠道、大義なるぞ。くれは」
あの日の夜と同じ言葉は、あの日の夜よりずっと重く厳かな響きでおりてまいりました。
「だが覚えておけ。臣とは、己の肉をそぎ骨を断ち血を流して一命を主君に差し出す生き方じゃ。それが報われる保証などどこにもない。報われなかったとて顧みられることもない。報いなどはじめからない。
故に、臣たる己の在り方だけが生きる標じゃ。先ず己の心を見定めよ。心を知ることに士族も平民も国別もない。
己を知る、そのための学問ならいくらでも授けてやろう。ついてこられるかの」
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「すっかり、おとなになっちまったんだねえ」
お風呂をいただいた後、母はいつもより丁寧にわたしの髪を梳いていました。
使用人風情が残り湯を使わせてもらえることの、どんなにか恵まれていることか。
わかっていたつもりで、上野で過ごした数週間の後には、芯からのありがたみに感じ入っておりました。
「肩揚げの糸一本、抜いただけのつもりだったのにねえ」
「おとなじゃないよ。あたし、自分がなんにも知らない子どもなんだって、上野で思い知ったよ」
「……。そういうトコさね」
「そんなことより聞いてよおっ母ァ、上野で夏さまはね、ほんっとうにカッコよかったんだよ。お一人で賊をやっつけちまうし、女中たちにはド喝入れるし。上野の旦那様だって真面目一本か二本か知らんけど、ありゃァただの頭の固い慈姑(くわい)のキントンってんだ。それに外国人と…」
「外国人と?」
「……っと、なんでもない。それに花札勝負で、悪いやつをコテンパンに負かしちまったんだよ!あたしもう、ビリっビリに痺れちゃってさ。
うちの姫様は、たまんないよもう!」