【25】色褪せる皮膚感覚の中 シナプスまでも濁り出してる
先日、とある人と話していて、家庭環境と人格形成の話題になった。
決して小難しい話をしていたわけではない。仕事の話が二転三転、寄り道を繰り返してちょっとそんな部分に派生しただけのことで、話題はすぐに変わっていったのだが、
変わった先の話に相槌を打ちながら、僕の頭の中にはぼんやりとその話題が残っていた。
思い出したのは直前の出演作だった。
今月の頭に舞台が終演した。
全10公演中8公演を終えたところで、公演関係者に体調不良者が出て、公演は完走せず終わった。
公式アカウントから発せられるお知らせに、特にコメントを添えることもなくリポストした。自分の体調に異常がないことを伝えるのも、公演が止まったことを謝るのも、当事者を追い詰めてしまうかなという臆病な理由で止めておいた。
脚本・演出家の、体重の乗った作品だと思った。
自らが書いた脚本に、大好きな先輩を主演にキャスティングしたうえで、こんなにも自身の抱えた逆境を真っ直ぐ言葉にして書いてみせた彼の覚悟に向き合うべきだと感じていた。邪推に過ぎないけれど、そう思ってやっていた。
もちろんどんな背景があろうが無かろうが、本来やるべきことは変わらない。ただ、そんなことが自分を奮い立たせる原動力になるくらいには、僕は彼のことが単純に好きだった。
自分の話になるけれど、もう10数年、自分の家族と会っていない。
連絡先も分からないし、住んでいる場所も知らない。
これは誰が悪いという話ではないし、僕は自分の家族に悪い人間がいるとは全く思っていない。色んなことがあって、色んなことを考えて、静かに摩擦と蓄積を重ねた結果、黙って距離を取ることを決めた。
誰も悪くないからこそ、この選択が正解だと思ったことは、今でも変わらない。
「犯罪を犯す人間は家庭環境に問題がある」という台詞に、特殊な家庭で育った自分は、正直思い当たるところがあった。
この台詞を書いた本人の家庭は、知る限りはとても仲の良い家庭に思えるし、何より本人がとてもあたたかく素晴らしい男なので、何を思ってこの台詞を書いたのかは分からないが。
僕は犯罪者ではないけれど、家族のいない自分には、他人に話すには些事すぎる不満やストレスを吐き出す場所が無かった。友人に話すのも忍びない、その時点では大したことのない苦しみの種は、大きく育つまで外に吐き出すことを許されないことが多かったのだ。
演劇に向き合えば、それが世間の共通認識であるかのように「時にぶつかっても最後は助け合う良い家族」で感動を誘う物語に辟易することも少なくなかった。
そんな感情に苛まれること自体、自分自身が家族のもたらす呪いのような繋がりを排除できていないように思えて苦しくもなっていた。
良くも悪くも、幼い頃からの数十年を共に過ごした人間に、自分自身のルーツが無いはずはない。
只それだけのことだと今なら思えるけれど、(だからこそ悪いことでもないと思うけれど、)家庭環境がその人の価値観に限りなく直結していることはやはり事実なのだと思う。
そして、だからこそ、僕は今自分の周りにいることを選んでくれる人たちに対して、並々ならぬ感謝と愛情を持てているのだろう。
人がそれぞれの家族をどう思っているのかは分からないが、僕にとっては、自分の人生の中心にいる人たちだ。間違いなく。
その人生を、この価値観を、誇りに思って生きていくことも出来ている。
ともすれば道を踏み外してしまう人もいるなか、自分の人生を照らしてくれている皆に、もう何度となく伝えているけれど、
いつも本当にありがとう。
僕の身の上を話すことは割と避けてきたけれど、今となっては苦しみの100億倍くらい愛や感謝の方が多いので、言葉にしてみようかと思った。
夜中の戯言ではあるが、皆への気持ちが届いてくれていたらと願って、眠るのが下手な夜をやり過ごすことにする。