隣の人

「隣、いいですか?」

顔を上げると、その人はニッコリと微笑んだ。

透き通るような白い肌に綺麗な黒髪。大きめのボストンバックと紙袋をひとつ持った彼女は、帰省途中の大学生といったところだろうか。

大学進学で大阪に出た弟に会うため、こうして新幹線に乗るのは3カ月ぶりだ。

両親が死んでから自分が親代わりとなって育ててきた弟も、もう21歳。バイトだサークルだとなかなか帰ってこないため、私が大阪に遊びに行く方が多くなってしまった。

8つも歳の離れた弟は、私にとってたった一人の家族だ。これまで随分と溺愛してきたから、ブラコンと言われても仕方ない。一緒に歩けば恋人と誤解されるような姉と弟だと自分自身でも思う。


隣に座った大学生と思しき女性は、座席に腰を下ろすなり大きなため息をついた。

「えっと、どちらまで?」

声をかけずにはいられなかった。出来る限りの笑顔を作って尋ねた。

「大阪に。彼氏に会いに行くんです」

いかにも訳あり、といった感じで彼女は答えた。

「彼氏? あ、遠距離なんですね」

「そうなんです、でも、本当は行きたくないんですけどね」

「あら、どうして?せっかくの週末なのに......」


まるで数年前の自分を見ているようだと思った。

当時、私には大学時代から付き合っていた恋人がいた。お互いの夢を捨て切れず遠距離恋愛となった私たちは、週末に新幹線で行き来する生活をしていた。

仕事を始めたばかりで当然と言えば当然なのかもしれない。精神的に余裕のなかった私たちは、会う度に喧嘩が増えていった。自然と新幹線に乗ることも少なくなり、彼はいつのまにか新しい人と生活するようになっていた。

「実は彼、浮気してるみたいなんです」

「それ、本当?」

やっぱり。そんなところなんじゃないかと思った。

信じていない訳じゃない。でも、ぬぐい去れない不安がある。

会いに行ってその証拠を見つけるのが、怖いのだ。

「本当です。最近、夜に電話すると話し中の時が多くて。きっと女の子と電話してるんです」

「それは、偶々なんじゃない?」

「いえ、この前会った時に問い詰めたら黙っちゃったし。それに......」

「それに?」

「見つけちゃったんです、髪の毛。茶色い、パーマの」

「彼の、じゃないってことよね?」

「もちろん!」

色白の肌は紅潮し、今にも泣き出しそうだ。

「彼氏は大学生なの?それならサークルのみんなと家で飲んだりすることもあるだろうし、そんなに気にすることじゃないかもよ」

「そうですかねぇ」

「あなたに余計な心配させたくなくて黙ってた、ってこともあるかもしれないし。不安な気持ちが先走って傷つけあうのはよくないわ」

納得いかない様子の彼女は、うつむいて黙り込んだ。

さっき会ったばかりの、見ず知らずの人に「心配するな」なんて言われても、説得力ないよな。自分でもそう思う、お前に何がわかるんだ! と。

それでも彼女の恋愛について口出ししてしまったのは、やはりあの頃の自分に後悔があるからなのだろう。


「そうだ! アップルパイ、食べません? 昨日作ったんです。お嫌いですか?」

そう言って、彼女は小さな紙袋の中からアップルパイを一つ取りだした。

まるで高級なケーキショップで買ってきたかのようにツヤツヤと輝いていて、とても美味しそうだった。大好物を目の前にした私は、ごくりと唾を飲み込んでしまった。

「え、いいの? そんな、なんだか申し訳ないよ。彼と一緒に食べようと思って作ったんじゃないの?」

「いやいや、いいんです。作りすぎちゃって2人じゃ食べきれないし。それに、お菓子なんて食べてる場合じゃなくなるかもしれないし......」

「またそんなこと言って! 本当にいいの? 私アップルパイ大好きなのよ。じゃあ遠慮なく頂くわ」

ちょうどタイミング良く回ってきた車内販売のお姉さんにコーヒーを2つ注文した。

「あなたはいいの?」

出会ったばかりの女子大生にアップルパイをもらったアラサーの女が、一人で黙々とそれを食べているというこの状況。なんとも気恥ずかしい。

「お昼が遅かったので、まだお腹空いていないんです。コーヒー、いただきますね」

彼女は丁寧にお礼をいい、コーヒーに口をつけた。



それから新大阪の駅に着くまで、私たちの話は途絶えることがなかった。

大学生活の話や家族の話、将来の夢まで色々なことを聞かせてくれた。私も仕事の話や結婚観について、自分でもびっくりするほど話してしまった。

もし自分に妹がいたら、こんな感じなのかな。

到着予定のアナウンスが流れる頃には、そんな風に思っていた。

「そろそろお別れね、なんだか寂しいわ」

「私もです。いろいろ相談にのっていただいて、ありがとうございます」

「こちらこそ。あ、アップルパイありがとう! 美味しかったわ」

「あの、もしよければ連絡先教えていただけませんか? なんだか、また会えるような気がして」

「ええ、もちろん!」

改札を出て彼女と連絡先を交換していると、弟から電話が入った。

そうだ。今日は珍しくバイトがないから、駅の近くで食べて帰ろうと約束していた。

「あ、もしもし? うん、今着いたよ、新大阪。そうそう、その辺にいるよ。あー見えた、こっちこっち!」

久しぶりに会う弟は、また少したくましくなったように思えた。「恥ずかしいから手振るなよ」と言わんばかりの表情で、頭をかきながら歩いてくる。

だが次の瞬間、ピタリと立ち止まった。

「では、私はこれで」

最初に見た時のようにニッコリと笑って、彼女は人混みに消えていった。

次に来る時も、同じ時間の電車に乗ってみようかな。彼女の連絡先を保存して弟の方に目をやると、先程の場所に立ち尽くしたままだった。

「どうしたの?」

不審に思いながら近づくと、顔からは血の気が失せていた。

「今日はもう家で食べよう、俺が作るから」

「なんで? お給料出たし、ごちそうするよ。せっかくだし食べて帰ろ......」

「いいから!」

腕をつかまれ、引きずられるようについていく。いつもなら電車で帰るところを、タクシー乗り場に連れて行かれた。車に押し込まれ、ようやく離してもらえた腕をさすっていると、弟は震えた声で聞いてきた。

「姉ちゃん、あの人、どうしたの?」

「あの人って? ああ、さっきの女の人ね。新幹線で会ったのよ、偶々隣の席になって色々お話して......」

「それ、偶然じゃないかもしれない。あのさ、高校の時に変なもの送ってきた奴いたの、覚えてる?」

そういえば。数年前の弟の誕生日、ポストに投げ込まれた不気味なぬいぐるみを思い出した。血まみれの包帯でぐるぐる巻きにされたクマのぬいぐるみの中には、小型の盗聴器が入っていた。警察にも調べてもらったが、送り主が弟と同じ高校の生徒だったため、その子は弟と接触禁止の厳重注意を受け、処罰はされなかった。

「さっきの女、あの時の送り主だよ。姉ちゃん、何かされてない?」

「何もされてないよ、ただ話してただけ」

「ならいいけど......」

落ち着かない様子でタクシーを急かす弟を横目に、シートに深く体を沈めた。

仕事終わりの新幹線移動で少し疲れたのだろう、眠気が一気に襲ってきた。ぼんやりとした視界の中で弟がまだ何か喋っているが、声が遠くてよく聞き取れない。そんなにお腹も空いてないから、夕ご飯はもう少し後でいいかな。ああ、そうだそうだ。あの子にアップルパイをもらったんだっけ。

「あっふ、うあーぃ食へらぉ」

おかしいな、唇が痺れてうまく言葉にならない。弟が必死に呼びかけているが、私はもう息をするのもやっとだ。

やっぱり、偶然じゃなかったんだ。

金曜の夜だというのに今日は乗客が少なく、自由席はガラガラだったことを思い出した。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!