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essay#11 舞台芸術学院






このnoteをご覧になっている方で舞台芸術学院の存在をご存知の方はどれくらいいらっしゃるのでしょうか…

市村正親氏、役所広司氏、渡辺えり氏、大倉孝二氏、最近だといとうあさこ氏…といった一流の表現者を世にバンバン出している、池袋西口の小さな小さな専門学校です。



でね、私、舞台芸術学院のOGなんです(と胸を張っていいのかわからないくらいはちゃめちゃで先生方にはご迷惑をおかけしまくってた)。



OGと言っても、本科(昼間部)ではなく別科(夜間部)の方の。


つい最近池袋を歩いていて、ああここ舞芸(みんなブゲイって呼んでた)の通学路だったな…なんて思い出して懐かしくなり、校舎前まで来たところでHPを見てみたところ、

当時私がお世話になっていた夜間部そのものがもう無くなっていて、寂しくなって、何だか母校なのに舞芸に立ち寄ってはいけないような気がしてしまって、

そのまま、小さな校舎を見上げながら通り過ぎたものです。







話は遡ること約20年前、
高校2年生だった当時


志望大学への道というか大学進学への道を改めて思いっきり閉ざされた私はいよいよメンタルをやられ、

7月8月のクッソ暑い日、しかも冷房設備といったら当時は扇風機しかなかった貧乏県立高校に冬のコートを着て登校してました。



本当に、寒くて仕方なかったんです。



授業にも集中できず、自分という存在の価値が誰よりも感じられず、大学進学に向けて猛勉強を当たり前に頑張るクラスメイトたちの背中をぼーっと見つめながら

【みんな、私とは違う世界に行っちゃうんだなぁ】

【…いや違うぞ、私だけが劣っているから置いてきぼりなだけだ】


なんて回らない頭で考えてはどんどん食欲もなくなり、水を飲むのも気持ち悪いと感じるようになり、かかりつけの先生には妊娠まで疑われ(もちろんそんなワケない)、最終的には自律神経失調症(今思えば処方薬の感じからして鬱病)と診断されました。





病院に通う過程で言われたのが、

『もうね、この何年かは完全に無責任になっちゃっていい。というか、あなたの人生はあなたのものだから本来もっと自分のこと以外は無責任でいい。でもそれが出来ないなら、2年とか3年とか期限を決めて、自分のやりたいこと、今までと全然違うこと、思いっきりやってみましょう』

ということでした。







自分のやりたいこととは…???

全然違うこと…とは…????


と、はじめ他人事のようにしか考えられませんでしたが、私の慕う叔母が長年様々な舞台ファンだったこともあって我が家には特に劇団四季のミュージカルCDが溢れており、また叔母に連れられて何度も劇団四季の公演を観たことがあった私は病院からの帰り道にチャリンコを漕ぎながらぼんやり




…………




……………




…ミュージカル…???



と、答えを出していました。


そしてチャリンコで派手に転びました。















身体がだるくて起きられない日が増えつつありその頃には高校も休みがちだったくせに一度決めたら謎の猪突猛進力が働く私は、その日の夜には舞台芸術学院という名だたる俳優を輩出している小さな、でも、とても立派な専門学校があること、

ミュージカル部と演劇部(学部みたいなものです)の2種類が当時はあって、


本科は普通の専門学校や大学と同じく朝から夕刻までの授業となり、在籍は2年間、高校卒業資格を持ち選考に通った者だけが通えるということでいきなり出足を挫かれた気持ちでした


が、よくよく見れば



ミュージカル部にも演劇部にも別科と呼ばれる夜間部が存在し、授業は18時半から21時過ぎまで、在籍はたった9ヶ月ながら歌唱指導、演技指導、ダンス指導とミュージカルの三本柱を実践レベルでみっちり教えてもらえるというものでした。

そして、別科の入学志望者要項には『中学校を卒業した16歳以上の者』と。



















ここだぁぁぁぁぁあああああああああああああ













と叫んで夜中なのに思わず仲良くしてくれていたクラスメイトに電話をかけ『私、高校通いながら舞台の専門学校行くからぁ!!』と高らかに宣言し、

資料を取り寄せ、資料が手元に届いたその日のうちに応募書類を全て書き上げ、その頃はまだ夜通し開いていた郵便局の窓口までチャリンコをすっ飛ばし、速達で書類を送ったのでした。




今でも覚えています。




応募書類の中に

【あなたがこれまで観劇した中で最も好きなミュージカル作品とその理由を挙げてください】とあり、


【私はずっと自分という存在が嫌いです。自分ではなくなりたいという想いが幼い頃からあり、生まれてきたのが間違いだったとさえ感じることもしばしばです。しかし劇団四季のCATSを観劇した際に、自分が自分でなくなるという以上に、関節や四肢といった身体の使い方や卓越したヘアメイクと演技力で人は猫にもなり得るのだと、雷に打たれたような衝撃を受けました。そしてCATSという、極端に言ってしまえばストーリーらしいストーリーも存在しない作品から、命を全うすることの美しさを教わりました。以上の理由から、私は、自分自身の殻を思い切り破ることの出来るCATSが現在のところ最も好きな作品です。しかしこの先もっと多くの作品に触れ好きな作品をどんどん増やしたいという想いもあります。】


と、回答枠から思いっきりはみ出し、何なら書類の裏側まで続く長文を書いたこと。

『↘︎裏へ続きます』とか偉そうに書いたこと。







専門学校の書類選考なんてもしかすると送れば受かるようなものなのかもしれませんが、それでもドキドキしながら当時居候させてもらっていた母方の祖母の家のポストを毎日チェックしていました。


無事に合格通知と入学案内の書類が届いた時にはやっと自分の脚で初めて歩ける、
とてつもなく大きな一歩を踏み出せる権利を貰えたような気持ちでした。






余談ですが、私や母、祖母が通った女子高には制服どころか校則も存在せず、また各科目が単位制だったためスーパー自由と言えばスーパー自由、


しかしながら恐ろしくスーパー自己責任でもある学校でした。

自由というのは何をしてもいいということではなく、

何をしてもいいが、そこに至る判断にもその結果にも全て責任が伴うのだということを暗に教えてくれた凄い仕組みだと思います。















で、校則がないので、


普通の高校ならまず許可をもらえないダブルスクール(しかも毎日栃木と東京の往復)さえも、



担任の先生と生徒指導の先生、学年主任の先生たちに、【この専門学校の夜間部に来春から通います、ちゃんと高校も(ギリギリ卒業できる程度には、たぶん…)来ます】
と宣言したところ


『うんまあ校則ないしね、いいよ』とあっさりOKを貰えたのでした。


ただその裏で、essay#1で書いた音楽の先生…
誰よりも相談に乗ってもらっていた先生が、『小野﨑がダブルスクール体制になること、どうか許してやってください、あいつはちゃんとやりますから』と他の先生方に頭を下げて回ってくださっていたことをだいぶ後に知り、

本当に、知らないところでさえ私は背中を押してもらえていたんだなぁと今でも先生のその姿を想像するたびに、
私のためにそこまでしなくても…というありがたさと申し訳なさが一緒に襲ってきます。




さて、専門学校入学と3年次進級をどうにか無事に(どちらかというと高校の進級の方が怪しかったと思います)クリアした私は、同級生のみんなが志望校合格に向けて放課後図書館で(母校の図書館めちゃデカい)本格的に赤本を解きまくる中、


こいつ宇都宮ブリッ◯ェンに入団希望なのかな?
ってくらいの本格的な漕ぎ姿でギア無し普通〜のチャリンコをかっ飛ばし、たどり着いた宇都宮駅から大宮まで新幹線、そこから先は埼京線もしくは湘南新宿ラインというルートで毎日池袋に通っていました。


身体と気持ちをリンクさせて表現するなんてことはおろか基本の体づくりも出来ていなかった当時の私は酷いもんでしたが、


滝汗を流し、怒声と罵声をマシンガンのように喰らい(こういうのって、ナントカハラスメントじゃなくて上達したい者と上達させてあげたい者の間に存在する信頼関係と、師の愛なのではと個人的には思います)私以外みんな大学生とか、社会人とか、年上ばかりの同期と過ごした時間は今でも私の宝物です。


ミュージカル部別科71期生として過ごせた時間は、本当に幸せでした。




そんな舞芸…舞台芸術学院が、コロナ禍の影響による生徒数減少を受けて、来年度末で閉校となるそうです。

ネット記事にもなっていたこのニュースを目にした時、一瞬にして自分の片足が無くなったような…

大袈裟じゃなく、そう大きく自分が揺らぐのを感じました。


当たり前にあると思って、何なら意識すらせずにいたものを急に失う感覚。


それほどまでに、私は知らず知らずのうちに舞台芸術学院という存在に、
舞台芸術学院出身であるということに、
救われていたのでしょうね。










クラシックバレエにジャズダンス、身体を動かす間はエアコンを完全に切った状態での稽古が鉄則だったため、みんなの汗と熱気で曇って結露してほとんど見えなくなっていた鏡。


ダブルスクールだから、本来ならどちらも同じくらい大切にしないといけないのに、舞芸に通うことを最優先し日中は家や学校で爆睡してしまってた当時。


何度も高校の先生から『お前この学校をちゃんと卒業する気あるんか』と呼び出されたこと。


眠気に勝てず、時にぼーっとして行きは横浜、帰りは郡山(新幹線…)まで行ってしまった通学電車。


年上ばかりの、頼れて、でも心から話せて時にぶつかり合える対等な関係でいさせてくれた尊敬できる同期のみんな。


舞芸の修了公演のために、高校のオーケストラ部幹部OGの役割を放棄したこと。


修了公演のために、初めて借りたウィークリーマンション。


卒業式の練習というだけで寂しすぎてわんわん号泣して、先生たちに『オイ早いぞ!まだ公演残ってるだろうが!!まだ卒業させんわ!』と大笑いされたこと。


卒業当時、【期待してるよ】という言葉で送り出してくださった恩師。


2年後私が劇団◯◯に受かった直後、交通事故に遭い、もう舞台は無理みたいですと報告すると、
残念そうに、

ずっと舞台で共演するのをお世辞じゃなくて本当に楽しみにしてたんだよと言ってくださったその人。





小さな小さな、でも、そこから本当に多くの表現者を生み出したステージ。


私の、アイデンティティを作ってくれた場所。










あまりに濃い時間を過ごせたからでしょうか、まだあの場所がなくなってしまうという実感がありませんが


いざ【舞台芸術学院】という看板が外された校舎を見てしまったら、冷静じゃいられないんだろうな。









『変わらないものなんて何もないんだよ、絶対なんて絶対ないんだよ』

演技指導を担当してくださっていた恩師が柔らかな声でそう教えてくれたことがありました。




今、その言葉を思い出しキリキリと痛む胸を、忙しさでどうにか誤魔化しています。






ただ、
恩師の言葉を覆すようで恐縮ですが


舞台芸術学院がなくなっても、


そこで得られた知識や技術はもちろん、きっと一生涯大切な友人たち、舞芸で汗と涙だらけのぐしゃぐしゃになったという思い出、そして私のアイデンティティは


絶対に、
変わらないまま、

持ち続けていきたいです。

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