小野﨑太鼓店#5 シベリア抑留
シベリア抑留
っていうのはなんだか遠い遠い昔話で、
時間も地域も、そして関係性も全部が自分にとってはるか遠い、平たく冷たくいってしまうと無関係な話だと子どもの頃思っていました。
けれど、あるとき祖母がぽつりと
「私のいちばん上の、よしみさんていうお兄やんはね、シベリアに連れて行かれたんだよ」と話してくれたことがありました。
当時小学校に入りたての幼い私には
シベリアに連れて行かれた
イコール
シベリア抑留
という事実に思い至れず、
なんならシベリア抑留という言葉さえ知らず、
そっかーおばあちゃんのいちばん上のお兄さんはシベリアってところに連れてかれたんか〜…とシベリアンハスキーを想像しながら相槌を打つだけでした。
ただその時に、普段は明るく気丈でサッパリとした祖母の涙を初めて見ました。
えっ
大人も泣くのか…
しかも、一家にとっての精神的支柱のような存在のおばあちゃんが、泣くのか…
と、祖母のお兄さんがシベリアに連れて行かれたことよりも、祖母が思い出して涙したことに衝撃を受けて、大いにうろたえたのを覚えています。
何十年も前に戦争で何かただごとでないことがあって、何十年も前のことなのにおばあちゃんは今も悲しんでいる…
当時を回顧する祖母の想いよりも、目の前で今起きていることの方が当時の私にとっては全然大切で、それはもう緊急事態で、
おばあちゃん泣かないで〜と、わけもわからず私も泣いていました。
その後も祖母からその話を度々聴かせてもらう機会に恵まれ、小中高と歴史を学ぶうちに、子供ながらに何が起きていたのか、その輪郭が少しずつぼんやりと見えてくるようになり、
小学生の頃よりは少し自分ごととして考えられるようになりました。
(それでも、昭和時代の戦争前後から現代にかけての日本史は教育としてあまりに抜け落ちている部分が多いように感じるのが正直なところですが。)
今思えば、戦争を体験した人の生の声を小さな頃から聴かせてもらえたことはとても大きな私の財産です。
言葉数の少ない祖父から聴かせてもらった宇都宮大空襲の話も、いつか文字に興せたらと思います。
そして、何のご縁があってなのか、ふとしたきっかけで戦没者名簿というものの存在を知り、手探りで調べるようになり…
祖母がずっと「お兄やん」と慕っていた、
祖母がずっと気に掛けていた、
私にとっての大叔父…という表現でいいんでしょうかね、よくわからんな、ググればいいんでしょうが、
厚生労働省が定期的に更新しているシベリア抑留戦没者名簿の中に、その方の名前を最近やっと見つけることができました。
日本から遠く離れた当時のシベリアで、しかも当時の一兵卒の個人情報なんてそれはもう杜撰に扱われていたはずですからフリガナも間違えられていて、我ながらよく見つけられたと思います。
(厚生労働省のシベリア抑留戦没者名簿は漢字とフリガナが併記されているため、漢字表記の方を見て気付けました)
更に、シベリア抑留を強いられた人たちの中には未だ遺骨も名前も判明していない人が何万人規模でいるという事実も知り何ともやるせない気持ちになりました。
7人きょうだいの末っ子だった祖母は長兄を含める何人かの兄たちに赤紙が来て出征するのを見ていたそうです。
そして、祖母の兄たちの中にはシベリア抑留から生還した人もいます。
シベリアでの生々しい体験談をなんとか生きて帰ってくることができた兄から聞いた祖母を通して私たちはその話を聞かせてもらっていましたが、
祖母が子どもの理解力のために選んでくれる優しい言葉の中にも隠しきれない凄惨さがにじんで、
いまだに頭の中にどす黒く重たくそれは存在しています。
優しい人から死んでいく
優しい人は奪われる
ほんのちょっとのパン一切れも、布1枚も
優しい人は一瞬、自分より飢えている者はいないか、自分より身体が弱っている者はいないかと
他の人を想ってしまうから奪われる
そして早くに死んでいく
外にいるのか中にいるのかもわからないほど寒い夜
すぐ隣から、ソワソワゾロゾロとシラミの大群が
暖を求めて、次の宿主を求めて、こちらへやってくるのがわかった
その感覚で、隣に寝ている戦友が死んだのだと悟った
故郷へ帰ったらやりたいこと、食べたいもの、会いたい人について
その人と授かりたい子どもについて
その子につけようと思っている名前について
そんなことをさっきまで共に語らっていた戦友の亡骸には目もくれず、自分は
ただ他の奴が見つけるより早く
ただ他の奴に奪われるより早く
そう必死で戦友が着ていた服を剥ぎ取った
翌朝には、戦友は丸裸にされていた
標本みたいにくっきりと肋骨が見えて、床につきそうなほど平べったくなった腹には誰かの歯形もついていた
でも、戦友に歯形をつけたやつを咎める気持ちはどうしても起きなかった
それどころか、その歯形を見て俺も戦友の体をもう一度確認してしまった
戦友としてではなくて、肉としてだ
だから、シベリアから生きて帰ってきた俺は汚い人間だ
人殺しだ
大切な友人を弔いもせず自分の生をもぎ取った汚い人間だ
よしみ兄やんは優しいから生きられなかったんだ、よしみ兄やんはいつだって人を想う人だったから死んで、
そしてきっと奪われたんだ
職人の家系ゆえか言葉少ない散文詩のように伝えてくれた、シベリア抑留を生き延びられた祖母の兄の告白は壮絶なものでした。
この話を初めて祖母から聞かされてから30年近くが経とうとしていますが、一言一句、祖母を通して聴かせてもらった言葉は忘れられません。
そして祖母はこの話の最後になると必ず
「…それならよしみ兄やんは冷たい雪の中で追剝に遭ったようにうち捨てられたんだろうかね、誰にも看取られずに、誰にも弔われずに、埋葬さえもしてもらえずに今もよしみ兄やんの身体はシベリアのどこかに捨てられたままなのかなぁと思うと、あんなに優しい兄やんがどうしてそんな目に遭わないといけないんだろう、おかしいだろう、あのよしみ兄やんが…もう不憫で不憫で…」
とまた涙を流し、声を詰まらせるのでした。
そんな祖母も数年前に脳梗塞を発症し、長い闘病生活の末コロナ禍が始まりかけた2020年に静かに息を引き取りました。
幸い、私達家族が祖母のベッドを取り囲み見舞っている中での臨終でしたので、祖母が長兄を心配していたような寂しい想いはさせずに済んだかもしれません。
ただその時には私も戦没者名簿の中に大叔父の名前を見つけられずにいて、大叔父の名前を見つけたとやっと祖母に報告できたのは仏壇の前ででした。
名簿での情報によれば、大叔父はとある地方の大きな軍事病院で息を引き取り、その後その地の戦没者のための合葬墓に埋葬されたようです。
ただ、その情報だけでは不確かなことも多かったため、翻訳アプリをこねくり回して名前と形を変えたその地方の役所…みたいなところっていう表現でいいのかな、に当時のことを問い合わせてみました。
すると数日ののちに大変丁寧なお返事を頂戴し、軍事病院では日本兵は皆1人の人として丁重に扱われ、丁重に弔ってもらえたとのことです。
本当かもしれないし、
嘘かもしれないけれど、
その言葉は私のことも癒してくれました。
だからね、おばあちゃん。
よしみ大叔父さんは寂しい想い、怖い想いをしないで逝けたみたいだよ。
ちゃんと1人の人間として、尊厳を守ってもらいながら生を終わらせたみたいだよ。
大叔父さんの名前を見つけ出すのが遅くなってしまってごめんね。
天国というのがあるのかないのか私にはわからないけれど、それでも天国を信じるとすれば、今ごろ祖母が大好きだった大叔父…兄やんと再会できているといいなぁと仏壇に手を合わせるたびに思います。
今日はその戦没者名簿によれば大叔父の命日にあたります。
終戦から翌年のことだったようです。
『義視』(よしみ)という名前からしてなんともまっすぐで優しいまなざしを浮かべていそうな会ったこともない大叔父…
本来なら、
シベリア抑留で命を落とさなければ、
本家の二代目当主として太鼓屋を継ぐはずだった大叔父の、シベリアの墓前に、いつか必ず花を手向に行きたいと思います。
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