瑠璃色眼鏡の君
序章
とんぼのめがねは、空の色をうつしているらしい。水色だったり、赤色だったり、青い空や夕焼け空を飛んだからだそうだ。確かそんな歌だったはず。
だとしたら、あの人は夜の帳の中を飛んだのだろうか。そう思わせるような、息を呑むほどの透明感のある美しい瑠璃色の眼鏡をかけていた。先ほどまでのライブでの姿とはまた違った、力の抜けた「オフ」の様子がその眼鏡をかけた姿から感じられた。眼鏡の美しさとともに見惚れてしまった。
こんな偶然
お目にかかれたのは本当に偶然だった。ライブが終わり、私はおなかがすいたので何か食べようと、ライブハウスの隣のおでん屋さんに入った。耳の中がまだわんわんと鳴り、ドラムの音が肋骨の内側を震わせたその振動を体がまだ覚えている中で、ハイボールを呑み、おでん盛り合わせとポテサラを食べ、ライブの余韻にひたる、噛み締める。心も体もおなかもみたされてお店を出たところだった。
もしかしたら出くわすんじゃないかしら、という淡い期待はあった。でも、こんなにタイミングのよいことってあるのか。また出待ちの人が全然いなかったことにも驚いた。ファンと思しき人はどうやら私だけ。今思い出してもできすぎだろうと思うような、完璧な出来事だった。
お会計と挨拶を済ませ、のれんをくぐり、隣のライブハウスを眺める。すると真っ白い壁の中の真っ白いドアがギイと開き、阪下さん(仮名)が出てきたのだ。そのもの青き眼鏡をまといて金色の野におりたった、私にはそんな風に見えた。古い言い伝えは誠であったか、と突然の出来事に目を見開いた。阪下さんはふわっと、天使みたいな感じで現れた。そう感じたのは、ライブでは汗で濡れていたくせ毛の髪が、ふわふわを取り戻していたせいだろうか。若しくはライブが終わりリラックスした雰囲気がそう感じさせたのだろうか。とにかく、やや所在無さげにふわっとしていて、「舞い降りた」、そんな登場だった。
葛藤、そして特別な思い出
サインをもらうか?しかし紙とペンを取り出す時間はない。写真を撮ってもらうか?いや彼方は完全にオフモードだ。無理強いはしたくない。し、断られてがっかりもしたくない。彼が階段を降り、こちらに来るまでの時間で頭はフル回転した。どうすれば、お互いがいい気持ちで、この時間を過ごせるか。私の特別な思い出にできるか。
私は結局、「お疲れ様で~す!」と声をかけた。あ、いや、マズイ。これでは関係者なのかファンなのか、何者かがよくわからないではないか。「ライブ、楽しかったです!」と慌てて付け加える。すると阪下さんは「あ、ありがとうございます」とその歩みは止めずに会釈してくれた。隣のスタッフさんも次の目的地(たぶん飲み屋)へ行きましょう、と、感じで阪下さんをエスコートしようとしていた。
ちょっと寂しかったので、私は次の言葉をかける。
「あの、XX(小さなフェス)にも行ったんですよ。実は。去年!」
すると阪下さんは歩みを止めて、私の方を見た。
「え?じゃあそっからッスか?(そのフェスきっかけで来てくれたんですか?)」
瑠璃色メガネの奥の目と、目が合った。ああ、なんて綺麗な色の眼鏡なんだろう。そして彼はちょっと嬉しそうな顔…というか、好奇心がにじんだ顔をしていた。この話題に興味を持ってくれている。かなり地方のフェスだったので、そこからワンマンにつながった(来てくれた)となると、うれしかったのかもしれない。
よしっ!と心の中でガッツポーズをした。しかし私は瞬発力が悪い。
「ん~ええと、知ってはいたんですけど、はい、ライブは!」
何と答えていいかわからず要領を得ないしどろもどろの答えになった。ああん、私のバカ。
「お~(そうなんだ)」
みたいな反応をされたと思う。そのあとはあまりよく覚えていない。隣のおでん屋さんで食べて出てきたところです美味しかったです、と執拗に出待ちを狙ってはいないと遠回しに弁明をして、「こらからも応援しています!よく休んでください!」と切り上げたと思う。あまり長く引き止めてしつこいファンだとと思われたくないので、幕引きはあっさりとが基本だ。
ラストシーン
スタッフさんと歩いていく後ろ姿を少しだけ見送り、私も足早に駅に向かう。
まさか。まさか。こんなにタイミングのよいことってある?私は何度も何度もそう思った。
「え?じゃあそっからッスか?」
のワンシーンを、何度も何度もリピート再生して歩いた。バンドの、お二人の地道な活動が実を結んでいることを、直接伝えたかった。きっと伝わったと思う。それは私にとってとても嬉しいことで、特別な思い出になった。
真っ白い扉から天使の様に舞い降りた姿を、私はずっと覚えていると思う。
瑠璃色の眼鏡も、あの美しい色も絶対に忘れないだろう。
阪下さんの心の何処かにも、小さく引っかかってくれていたらいいな。私を覚えてほしいとかそういうことではなくて、地方のあの小さなフェスに出演してよかったなとか、また出てみようかなとか、バンドを続けててよかったな、とか、そんな風にこの出来事が残ってくれていたらいい。
それはとてもおこがましいことだけど。
ながいけまつこ