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当事者とか当事者性みたいなものを私たちは本当に正しく使えているのだろうか
当事者とか当事者性みたいなものを私たちは本当に正しく使えているのだろうか。ドラマや映画なんかで「アンタなんかに私の気持ちが分かる訳ないでしょ!」と怒りを露わにするシーンをよく目にするが、このフレーズはいかに議論において強く、そして脆いかということを最近は考えている。
歴史小説を数多く執筆した偉人の一人に司馬遼太郎がいる。『坂の上の雲』や『燃えよ剣』などが有名であり、大河ドラマにもなった『竜馬がゆく』で彼の名前に見覚えがあるかもしれない。そんな司馬遼太郎はひとつの題材を用いるにあたって本を何百、何千と購入しそれを読んだという。そして、彼の中にうっすらと見えてきた姿をありのままに文字に起こしたのである。おかげで、ひとつ題材が決まれば近くの古書店から関連書籍が全て姿を消すという逸話まで残している。
なぜそんな司馬遼太郎の話を持ち込むのか。それは彼の論じた「トランスネーション」という話を少しばかりするためである。トランスネーションとは英語にするとTransnation、つまり「国の変換(橋渡し)」という意味である。厳密にはこんな単語は存在しないのだが、司馬はトランスネーションを考えてみるのは重要なんじゃないか、と説いてくるのである。
ちなみに、トランスネーションは移住とか外交とかそういう類の話ではない。むしろ、もっと精神的な話である。
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例えば、私たちの中には日本という像がある。それは私たちが日本人であり、日本というものを有体として、そこに実体があるように扱えるからである。では、遠いヨーロッパやアメリカの地はどうだろうか。ヨーロッパでは過去2000年間ひたすらに戦争をしているがそれがなぜかを私たちは教科書以上に実感し得ない。アメリカでのトランプ大統領の熱気はアメリカ人にこそ分かるものだろう。それどころか、周辺国の中国や韓国、東南アジアの国々ですら私たちは感知し得ない。
しかし、私たちは考えなければならない。
なぜヨーロッパの人々が戦争をし続けるのか。なぜアメリカではキャラの強い大統領がウケるのか。なぜアジアの国々は経済力を増し続けているのか。たとえ学者やジャーナリストでないにせよ、私たちには他者を理解するという仕事が生涯付きまとう。結論が何かはさておき、それらの問題を考えるために向けた自らの視線や価値観を見つめることで自己を捉え直す。就職活動で流行る自己分析とは違い、深く、奥底にある"わたし"を見るのである。
さて、そんな仕事を完遂するためには2つの視点が必要であろう。ひとつは外部からの目線。言い換えると、自分の持つ文化や価値観との比較である。以前、イタリア人の女の子に「なぜ日本人はそこまで働くのか?」と問われたことがあるが、結論から言えば知らないのである。そういった価値観の上で形成された文化体系ニッポンで暮らしているのだから、そりゃそうなるといった具合だ。イタリア人の彼女から向けられた視線こそが外部からの目線である。自国から見て他国の不思議なところはどこか、差異があるのはどこかと考えるのだ。
そして、次が重要。
もうひとつの視点こそが当事者の目線である。
アフリカには未だに水道や道路が整備されていない土地が至る所にあるという。実際、『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』を読めば分かるように、所得レベルが低い国々はアフリカに集中しており、彼らの生活はプラスチックのバケツを抱え、裸足で数時間歩き、ぬかるみに溜まった泥水を汲んでくるのが日常茶飯事である。そんな彼らに対して日本を含む先進国が支援するのは重要な事柄のひとつであるのはこのnoteを読んでくださっている皆さまの同意を得ることだろう。
一方で、ただ支援すれば良いという話でもないことに注意が必要である。例えば、地域性を感知せず食糧を一部の人に配ったとする。その地域は強烈な村社会だったとすれば、食べ物を受け取って救われたはずの人々が次の日から社会の嫌われ者になり、最悪血祭りかもしれない。この時、支援は支援でなくなってしまう。このジレンマの一助となるのが当事者性であり、彼らの社会体系を理解した上で平等に食糧を配給すれば良かったのだ、となるのである。
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では、ここで冒頭の問いに戻るとしよう。私たちは当事者とか当事者性みたいなものを本当に正しく使えているのだろうか。
司馬遼太郎の提起した「トランスネーション」は自身の視点を外部から、そして彼ら自身として、という2つの視点を交互に入れ替え、変換し続けることに意味がある。彼がそれを会得し、登場人物たちの生きた姿を彼自身の中に描き切ったからこそ今私たちが面白いと感じる文章が存在するのだ。しかし、彼の説く説明は非常な重みを持つことを理解した上で、この手法が現実的に可能であるか。そして、どこに限界があるのかについて考えたい。
さて、昼のサイレンがなり、僕もお腹が空いてきた。当事者性の限界値に関しては、今度の投稿で一緒に考えていきたいと思う。
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