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情報を投げ込む手を止めないために

久々にnoteに帰ってきました。
4ヶ月以上振りだそうです。

実のところ、友人をはじめ(少なくとも)同年代の方々へ向けた情報の"投げ込み"[注1]や自分なりの考えの整理を様々に投稿しておきたかったのですが、情報の精査やファクトチェックなど諸処に気が滅入ってしまい、しばらくnoteをお休みしていました。近頃はどうしても引用や出典が気になってしまい、表に"意見"[注2]を発信するのが辛かったのです。なので、この期間に10も20も記事を書き始めてはボツにして、というのが裏の話…。


ただ、そろそろ何か一発書いて出してみないと自分の中で情報も溢れますし、本来の意図である投げ込みが達成されないのはマズイので、ここらで最近考えていることを(ザックリとですが)打ち込んでおこうと思います。久しぶりのnoteなので、お手柔らかに。


ずっとnoteをフォローし続けてくださっている皆さん、そして今この記事を読んでくださっている皆さんに感謝!

Amsterdam, Netherlands, 1st June 2024


Ⅰ.何から書けばいいのやら…

久しぶりのnoteで一発目に何を書こうかというのは想像以上に難しい。現に、頭を悩ませて10分が経った。

結局のところ、noteで何かしらの情報や考えを投げ込む際にある程度のフォローアップは必要であり、それはどの段階から説明すれば分かりやすいか、のベースライン(基準線)を決めることである。

例えば、生成AIであれば「そもそもChatGPTとは何か?」という話からなのか、LLMRAGは理解している上での話か。それとも、NeurIPSのような学会レベルからいきなりぶっ込んで良いのか。これらが選択肢に同列に並んでいる時点で、かなり苦痛度が高いというのも事実である。

いつかはそういったことも体系的に書かなきゃいけないな、と思いつつ読んでくださる読者の独学や知的探究にお任せしたい気持ちもある。


平均的よりかはその辺りの嗅覚[注3]は鋭いのだが、それゆえに疲れてしまう場合も往々にしてある。どの程度、手前の段階から書き記すべきか、というのは最近の私のnoteの大きな悩みなのだ。


以前のnoteはハッキリ言ってかなり日記的ではあった。日々考えていることをアーカイブしているようなもので、私自身がおそらく1番再読して活用している気がする。

あの時は正直参考文献とか論理性はさほど気にしておらず、「一旦走ってみるか」の精神で毎日書いていた。毎日書くのは書くので精神的に辛い部分もあったのだが、内容の精査にさほど気を取らずに済んだのは幸運だったのだろう。


こんなことを書いていると、noteを書くことに対してあまり前向きじゃないように捉えられるかもしれない。ただ、実際は書きたいことが膨大にあって、むしろこのワクワクを書き表し足りないのである。性格的に、情報を共有するのは好きな方だし、何よりおしゃべりだからすぐ色々語りたくなる。現に今も、次のように書きたいトピックがあったりする。

▼理数系
・情報理論(情報の量を可視化する)
・地球温暖化の全体観
・『サイバネティックス』『人間機械論』
・生成AIの現状および進歩[注4]
・南海トラフおよび富士山噴火
・首都直下地震の想定
・データの分析手法に関するアレやコレ
・スマホの次は何か
・Robot-Readyな生活に
・コロナおよび感染症からの議論


▼人文・政治系
・司馬遼太郎の歴史観に関する是非
・夏目漱石的な文明論
・明治時代に関わる考察
・文芸における読者の変遷
・福沢諭吉に基づく国家論
・トランプ氏の勝利に纏う意味
・9.11に見られた情報の不確実性
・日本の国防に関する数字的な議論


ザックリと挙げてもこんな感じだ。もちろん、一学生として門外漢な部分が大半だから決して筋の良い議論ばかりはできないだろう。極力、可能なように努めるがそれは専門家の存在意義を問うことにもなる。

ただし、こうした内容はいわゆるジェネラリスト的に生きる[注5]のであれば必要だと思われるし、人生で知っておいて損はないことが大半なのではないかなと感じる次第でもある。



Ⅱ.投げ込みの重要性

さて、先の節で書きたいことが溢れていることは重々伝わったであろう。とりあえず、今後のnoteでは先に列挙したテーマを中心に、自分なりの感性を交えてとりあえず投げ込んでみるように工夫していきたい。

さて、注1にも少し記したが、「なぜ投げ込みをするのか?」といった話をして、この回は終わろうと思う。


まず、私の考えのひとつとして、「果物なくして果汁なし」の精神がある。もう少しテクニカルに言えば、「インプットなくしてアウトプットなし(No input means no output)」の立場だ。

ある意味で当然といえば当然のことなのだが、知らないことには「考える」ことも「議論する」ことも「判断する」こともできない。現代の過剰な情報量の是非はあるとしても、一個人の戦略(Strategy)[注6]として多くのインプットを行っておくことは少なくともBetterな選択肢だ。

情報の持つタイムスケールは様々で、時流を追うためのファストな情報もあれば、100年単位のオーダーで考えないといけない深淵な事柄もある。ただし、日々のニュースの意味合いや情勢を分かっていないと判断できないことも多数あるし、長い目で見るべき事柄の原石がいくつもなければそもそも方向性すら立てられない。[注7]


そして、もうひとつ情報の面白いところは「良い情報を持つ人からしか良い情報は流れてこない」ということである。[注8]

前提として、多くの事柄で差が付いていることは大抵能力の差か所有する情報量の差、もしくは運で決まっている。能力や運は仕方がないけれど、情報は等しく皆同じくらいなのだから、まだカバーしやすい。

例として、議論をする際に軽い情報を元に議論する人と、ずっしりと重たい情報を元に議論する人の2パターンがあって、なぜか大きな差が存在しているのは能力や運とはあまり関係がなさそうだ。


結局のところ、軽い情報を扱う前者も重たい情報を扱う後者も等しく24時間、等しく(ある程度)同じ言語、(ある程度)同じ検索エンジンを使っているはずのだから、情報の精度に差が生まれるとしたらその源流かキャッチアップする手法のどちらかが大半なはずである。


なので、良い情報を手に入れるにはまず良い情報の発信源を突き止める必要があるのだ。周囲の友人から良い投げ込みがない場合、残念ながらその人は「良い情報を持つ者」ではないかもしれない。[注9]


話が多少逸れたが、情報はなるべく流動的に、人に惜しみなく共有していた方が情報のそれ自体に価値がつく。この辺りはギバー(Giver)であるべきだ。[注10]

私自身、できる限り「良い情報を持つ人」を追っているはずなので、全くの無学者よりは少しばかり精度のある投げ込みができる気がする。もちろん、その是非は読み手の皆さんが決めてくださればそれで良い。


少なくとも、
投げ込まないことが問題なのである。

議論の起きない環境が辛いなら情報を多種多様に投げ込んで、議論の起きる環境に変容させることだって手段のひとつだ。

他力本願すぎても世の中は変わらない。


Ⅲ.結びにかえて

さて、今回は準備体操を兼ねて久々にnoteを書いてみた。正直、やっぱり書くのは楽しい。ただ、今回の内容だけでも書ききれなかった部分は多くある。また、ニュアンスが伝わりづらいところは適宜注釈(文末にまとめて記載)を使って補足したが、伝わっているかイマイチ分からない。

前節で「情報を投げ込む(シェアする)重要性」についてある程度書いたが、私自身疲弊しないようにバランスを持ってこれからも更新していこうと思う。何より、情報が溢れて脳みそがしんどくなるのも事実だからだ…。(笑)


というわけで、先に挙げたようなテーマに興味関心がひとつでもあれば、せっかくの機会にフォローやイイねを押して忘れないようにしておいてほしいです。近いうちに、早速色々更新する予定です。では、また次回。

Nara, Japan, 30 July 2024



Ⅳ.注釈

[注1]いわゆる「情報の"投げ込み"」は、外部から注射器でワクチンを投与したり、ハンマーで鉄を打ったり、鍼治療するイメージ。外部要因によるインプットだと思ってください。

[注2]ある程度の論理と推察と根拠を持ったOpinion。決して、学術ほど硬い話ではないけど、ある程度は社会に寄与できそうな説得力といったせめぎ合いの箇所。A view or judgement formed about something, not necessarily based on fact or knowledge.である。

[注3]おしゃべりな性格上、人にいろんな話題を振ってみると面白いほどにリアクションが分かれる。「何を言ってんだか」と呆れ顔で返される時もあれば、「なるほど、そういう意味か」と納得してもらえる場面も多い。あくまで経験則的にだが、基礎から説明した方が当然後者になる確率が高いので、なるべくはそう書きたい。ただ、時間も労力も限られているので、最初から書く苦痛度も共存しているのだ。うーん、難しい…。(笑)

[注4]先ほども書いたように、生成AIという領域は狭いようでムチャクチャ広い。どの段階から説明するかによって、その分量も果てしなく変わる。個人的には、LLMやディープラーニング、RAGやファインチューニングといった基礎の語彙自体(雰囲気)は知っている、という前提で進むのが健全ではあるような気がする。なぜなら、先のような基礎的な話はすでにネットで多くのことが議論されているからだ。「巨人の肩の上に立つ」である。

[注5]個人的に「ジェネラリスト」というのはあまり好きではない表現だが、世間の慣例に沿ってこう書いてみた。そもそも、スペシャリスト(専門家)の線引きもあまりないにも関わらずその区別が職業などであるのは合点がいくものではない…。(笑)

[注6]戦略というのは日本語だと誤訳が多いように感じる。漢字から解釈すれば「戦を略す」ことであり、そもそも戦わないのが大前提。また、英語の意味合いから言えば、「長期的または全体的な目標を達成するために設計された行動計画(a plan of action designed to achieve a long-term or overall aim.)」なのであり、周囲と戦えなんて誰もお願いしていないのだ。自分の狙いが達成できればそれで良いのである。

[注7]絶対的に書いているようだが、あくまでどんな仕事に就きたいか。どんな人生を生きていたいか、に依存するのは確かである。正直、ここまで考え込まなくても生きていける世界線はたくさんあるはずなので、嫌になったら逃げ込むくらいに捉えるのも良いだろう。

[注8]正直これだけで1回分の投稿ができそうな気もするので、気が向けばもう少し体系的にまとめるつもりだ。

[注9]言い方に若干キツさがあるかもしれないが、それ以上でも以下でもない。ただし、良い情報を得るためには重要な線引きであることも確かだ。

[注10]『Give and Take』を参照。リンク先はTED talk


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