教育学部に進んだけど、教職へのモチベーションが下がり続けている話
どうも、あさまんがです。
この記事の画像、教職に関するオンライン授業を受けていて思わず「えっ……」と引いてしまっている自分を描いたものです。(PCに元から入ってるソフトを使って、マウスで4分で描きました。笑)
今回のテーマである「教職へのモチベーション」ですが、僕個人に関してはかなり下がってきています。
そんなモチベーションの下降について、(自己認識の目的もありますが)書いていこうと思います。あくまで青二才のひとりごと(主観)で、特定の個人や団体を貶す意図はありませんのであしからず…
かなり上から物を言われている感覚になってしまう
初っ端からだいぶ僕個人の意見になってしまいました…笑
教職系の授業を受けているときに、よく「私は元教師です」という肩書を引っ提げてお話をしてくださる方がいらっしゃいます。(特別講師の方など)
話の内容自体はとても参考になるし、やはりこれまで経験されてきたことを僕たちに還元してくださるのはとてもありがたいことです。
しかし、ごくまれに「君たちは何も経験していないんだから、とりあえず言うことを聞いておいてね」という言い方に聞こえてしまうことがあります。(流石に性格悪いよね、というのは僕自身が一番感じています)
事実、僕を含む教育学部生は学校現場で教えた経験は皆無です。
しかし、かといってそれが能力の優劣の差にはならないと思います。経験を積んでいないのは不可抗力ですし…
あと、自分のやり方に自信を持たれるのは素敵なことだと思うのですが、僕としては「それが絶対的な正解ではない」ということを念頭に置いて考えたいのが正直なところです。
これだけ多様性が叫ばれている現代社会で、「これをしておけば安泰」なんてやり方、見つける方が難しいのではないでしょうか。
また、僕は「相手の事情を考慮せずに、やり方や規則を押し付けるのではうまくいかないよね」という考えを持っているのですが、そういった意味で考えると、僕の教職への適正ってあるんだろうか?と考えこむこともしばしばあるわけです。
「個性を伸ばす」なんてキレイゴトに聞こえてしまう
さっき書いたことと結び付ける形で、これについても言及しておきます。
「あなたらしさを大切にしましょう」「他の人と違っていい」という価値観は、僕も持っています。
にもかかわらず、ツーブロック禁止や下着の色指定など、なんともびっくりなトンデモ校則がまかり通っている現実があります。先輩から聞いた話では、教育実習の担当教員の方によっては、ツーブロックに難色を示される方がいるそうです。
問題は、「なんでダメなの?」と聞かれたときに合理的な説明がされないことが多い、ということにあると思います。
先程のツーブロックの例でいえば、「トラブルに巻き込まれる可能性が高まるから」のようなことが言われていますが、これに納得できる人っていったいどれ位いるのでしょうか?
僕の周りでは、中高生のころにトラブルに巻き込まれた人の中にツーブロックではない人もいた記憶があるのですが…
仮に、学校が敷いたレールから逸れてしまう児童生徒が生じても、その子が脱線事故を起こして人生で不利にならないようにケアするのが教師なんじゃないかと思っています。(少なくとも僕が教職に進むならそうなりたい)
「だからダメだと言っているだろうが」で済ませてしまっては、救いがないです。感情論とまではいきませんが、歩み寄る姿勢は持っておいた方がいいと僕は思います。
個性、個性と言いながらレールから外れることをよしとしない矛盾があるので、僕は「生徒指導」という言葉を実はあまり好みません。
教育学部=将来は教員以外なりません!の風潮
これは割と入学するまで気付かなかったことです。
これまで述べてきた2つは、一般的な考え方からある程度到達できるものなのですが、この「進路の限定」については、入学してから感じたことです。
大体の教育学部生の思考としては
①教員になりたい
②そのためには教員免許が必要
③教育学部に進む
だと思います。僕の場合①から違っていたので、そりゃ「進路の限定」を感じるよって言われそうですが…笑
なので大学としても、「教育学部生が教師になるためのサポート」を実施するわけです。必修授業で専門科目の指導法を学んだり、特別講師を呼んで学校現場の様子を知るなどします。
ただ、教員以外の進路も考えている学生からすると、かなり心もとない印象を受けてしまいます。
教員以外ありえないよね!だって教育学部にいるんだから!
こんな風なことを言われたことはありませんが、「やっぱり教員以外の進路を持つのはあまりいい顔をされないのかな…」と思ってしまうことが僕は多いです。
「教師は世間知らず」という偏見
これもよく言われていますよね。
企業に所属せず、実力ではなく年功序列のおかげでいい給料をもらってるんでしょ?という考え方は、いまだに存在しています。
「一度も社会に出たこともない人に、我が子を任せるなんて…」
という風におっしゃる親御さんもいるらしいです。
しかし、考えてもみてください。
僕個人としては、教育に携わるということは、教育を受ける人に対して誠意をもって向き合うことだと考えています。
そうすると、常に教育について様々な事を考え、毎日試行錯誤をしている教員は彼らなりに真摯に向き合っている、とも言えるのではないでしょうか。
四六時中、「この教え方の方がいいかな」「次はこうしよう」と構想を練っている教員に対して、「世間知らずだ」「もっと社会を知れ」といった言葉を投げかけるのも、なんだか気が引けます。
事実、世間知らずと思われても仕方ない部分はあります。ですが、世間を知るための時間を、教育の質を上げるための時間にしている人もいると思うのです。
アルバイトしながら非常勤講師として学校に務めています、という教員がいた場合、「片手間に教師をやるなんて」という意見を持つ方がいないのであれば、別に問題はないと思いますが…
二者択一というか、トレードオフというか…
教員を志すことで、社会を知る機会を失ってしまうという現状も嘆かわしいと思います。いくら学生時代にバイトをしたところで、責任もって業務をこなす範囲が違いますからね。
若者への投資、というけれども
色々と考える事を書きなぐってきましたが、もう少し教育というものに目を向けた方がいいな、という問題意識は僕の中に確かに存在しています。
「自分のころはこうだった」というのは、資料であり記憶です。法則、模範となるような高尚なものではありません。もちろん、これは僕が受けてきた教育にも言えます。
だから、「今の若者は~~」で思考停止するのではなく、「ならどうすればいいのか」「どんなやり方が考えられるか」などに焦点を当てた方が、よっぽど生産的だと思うのです。
「自分はもう教育を受け終わったから」ではなく、「教育に上乗せされた社会経験をどう伝達できるか」を検討するような姿勢を持ち続けたいです。
「教育は将来への(若者への)投資」と言われているのをどこかで聞いたことがあります。
この概念があることで、最近多くの企業が教育事業に着手しているのではないかと思います。
すると、「教員だけじゃなくても教育に携わることは十分可能だ」という考えが僕の頭に浮かび、柔軟に動くことが時として難しくなる教職へのモチベーションが下がってしまうのです。
かなり乱雑な文章になりましたが、現在大学2年生の教育学部生の端くれは、こんなことを考えているのです。お付き合いいただきありがとうございました!