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恋と愛と、『ハウルの動く城』。

 いつもご覧いただき、ありがとうございます。

 さて、前回『千と千尋の神隠し』に続いて、『ハウルの動く城』(2004)です。

 『ハウルの動く城』以降は、それまでの商業的成功もあってか、宮崎駿監督がやりたい事が溢れ出ている感じがあります。

 それでいて、決して直接表には出さない、強いメッセージが感じられるところが、また魅力でもあります。

 また彼は、常に作品を通して「君たちはどう生きるか」と問い続けているようにも思います。

 さて、それでは、進めていきたいと思います。


1. 弁証法からの脱却

 『ハウルの動く城』以降と以前において、顕著に異なっているのが、対立構造です。

 『風の谷のナウシカ』〜『千と千尋の神隠し』までは、たいていシンプルな対立構造があったんですね。

 自然vs人間、進歩主義vs復古主義、正義vs悪など、とても分かりやすい構造です。

 つまり、どこかに信念があって、その信念が対立している、という構造だったんです。(ただしトトロ以外)

 そして、だいたいは弁証法的に、主役が「新しい解決策」を提示することで対立を解消する、という物語の流れでした。

しかし、このパターンが『ハウルの動く城』では単純には通用しないんです。

 『ハウル』では、明確な信念対立はなく、ただ「戦争」という「何かの対立状態」があり、人々が何らかの影響を与えられている、という風に描かれます。

 つまり、とても現実的に、世界が描かれているんですね。

 現実世界において、弁証法では、カバーできない部分が現れます。

 弁証法は結果的に「答え」を導き出せますが、その答えを一般化することはできないからですね。

 例えば、とある洋食屋のお客さんで、カレー派トンカツ派がいて、彼らが対立していた時、カツカレーという解決策を弁証法的に導き出すことができます。

 かと言って、その洋食屋がカツカレー専門店に鞍替えすると、それはそれで問題が起きるので、カツカレーは新しくメニューに載せるぐらいにしておかないといけない。

 なのに、そのカツカレーがあまりに美味かったせいで、カツカレー屋さんだと思い込む人が出てきてしまう。

 すると、場合によってはカツカレー信仰者が押し寄せてくることになる。

 結果、カツカレーという「メニュー」であっても、カツカレー信仰者たちに「世界一うまいカツカレー」を目指している店だ!なんて曲解されたりします。

 すると、その店の元々の客であるカレー派とトンカツ派が、カツカレーは邪道だ!とか言い始めたりする。

 いやいや、お前ら、やめとけと。笑

 これは、「カレー信念」や「トンカツ信念」という一義的な信念を持っていることが、そもそもの間違いなんですね。

 大切なのは「みんなにカツカレーを!」と言うことではなく、カレーとトンカツを選ぶ「自由」とか、カツカレーにできるような柔軟な「自由さ」を認め合うことのはずです。

 信念を超えた「自由」というものに向かっていかなければ、信念に固執してしまうことになりかねないので。

 話が逸れましたね。

 でも、実際とてもよく起こることです、原因はシンプルなのに、結果がややこしいだけ。

 簡単に言うならば、これらの原因は「執着」「プライド」、そして、その結果生まれた「コンプレックス(信念の複合状態)」です。

 そしてその解消法は「恋」から「愛」への変化だと、『ハウルの動く城』は言ってるんですね。

 と言うことで、前置きが長くなりましたが、解説していきたいと思います。


2. おばあちゃんになる魔法

 『ハウルの動く城』原作は、ダイアナ・ウィン・ジョーンの『魔法使いハウルと火の悪魔』という児童書です。

 ですが、けっこう原作からは異なった内容です。

 戦争シーンが追加されたり、普通にハッピーエンドで終わってたり、いろいろ違うんですね。

 そして最も異なるのは、その捉え方ですね。

 ヒロインのソフィーは、魔法でおばあちゃんにさせられます。

 そして「ヒロイン=おばあちゃん」だから、老人も頑張る映画!みたいに言われましたが、少し違います。

 まず、ヒロインのおばあちゃん化は、原作者のダイアナ・ジョーンズの実体験です。

 彼女は、一時期、ひどい牛乳アレルギーになって、髪の毛が真っ白、肌もボロボロになったそうです。

 この時の状況を主人公のソフィーに置き換えたわけです。

 そのため、おばあちゃんになるという「老いを考える映画」なんです。


 どうも「老い」というのは悪いものと考えられがちですが、なぜ悪いのでしょうか?

 一般的には社会における生産能力性や身体能力、また「見栄え」ばかりを問われたりしますが、それは非常に偏った「老い」の見方です。

 「老い」によって逆に得られるものも多いんです、特に芸事なんて老いないと表現できないことすらあります。

 そもそも老いない生命はいないのに、「若さ」ばかりを求めてしまうから、おかしなことになる。

 そもそも「若さ」という「時間逆行」は無理です。笑

 だからこそ、「老い」を受け入れて、いかに生きるか、なんですね。

 そして、「生き方」こそ「魔法」なんです。

 魔法とは、命の炎のことです。

 ただ、この命の炎を燃やせない理由が、いっぱいあるんですね。


3. 燃えない人たち

 今回、ジブリとしては、とにかく、火の表現に拘ってます。

 火の表現って、絵で描くのはとても難しいです。

 焚き火を描いてください!って言われて描いてもなかなか難しい。

 これがフルアニメーションであれば、1秒あたり24枚も書くわけなので、なおさら難しいワケです。

 その炎を描くという挑戦こそ、この『ハウルの動く城』におけるジブリのアイデンティティなんですね。

 自分たちしか出来ない仕事を「わきまえる」って事ですね。

 かっこいいですね。


 で、炎のキャラクターとして、カルシファーという悪魔がいます。

 火の玉みたいなヤツですね。

 原作では青い炎だそうですが、映画では時々しか青くなりません。

 そして、なぜ悪魔かと言うと、他人の心臓(魂)を借りて生きているからです。

 この心臓は、もともとハウルの心臓なんですね。

 なんで心臓が必要かと言うと、カルシファーはもともと流れ星でした。

 でも、流れ星はすぐに死んでしまいます。

 そんなカルシファーを不憫に思ったハウルが、心臓を貸す契約をするんです。

 だからカルシファーは、流れ星の割に長生きできるんですが、その結果、ハウルと一心同体です。

 また、片方が死ねば、片方が死ぬんですね。

 そして、もし死なないようするなら、原則、宿主を変えなければならない。

 ここから、心臓を奪う=魂を奪う、そして他人の心臓(心)を借りながら燃やして生きている、よって、「悪魔」である、として表現されています。


 一方、心臓のないハウルには「心がない」という設定です。

 実際に心がないというより、「思いやりがない」という感じでしょう。

 そのため、女たらしだとか、常識がないとか、子供っぽいとか言われるわけです。

 でも本人には悪気がないため、他人から見ればよけいにタチが悪いんですね。

 また、見た目も素振りも超イケメンなので、自然とモテるわけです。

 いますね、こういう中身が空っぽなのにモテる人。笑

 なので、心を奪われる女性も少なからずいて、「心(臓)をうばわれる」という噂が広まったという設定です。

 しかし、本人は興味があっても本気じゃないため、結果的に多くの女性の恨みを買い、城を動かして逃げているわけです。

 本人は興味だけで、燃えてないんですね。笑

 女性にとっては「あいつ、気があるような素振りを見せて!」って感じかもしれません。

 木村拓哉が不慣れな声優をやって、声が超カッコいいのに、時に棒読みなのもとてもいいです。笑

 つまり、どちらかと言うと「ハウルの動く城」ではなく「逃げる城」なんですね。笑

 そして、ヒロインのソフィーです。

 映画では全く説明されてませんが、原作では彼女は物質に魂を与える魔法が使えるそうです。

 もはや神ですね。

 それにしても、ジブリでは神格化された女性はすごく多いですね。

 メイやサツキは、トトロと同じ神、またお母さんも如来として扱われてますし。

 ラピュタのシータも、インドの神たちの船(ラピュタ)の姫。

 もののけ姫も、捨てられた子から復活するという民俗学的に言えばエビスですし。

 ナウシカなんて、死んで復活する救世主(メシア)、もはや神そのもの。

 千尋も最終的には、カミムスビノカミまで昇華されるし、もうカミさんだらけです。笑

 駿監督が読み込んでいるらしい、ダンテ『神曲』に通じるところがありますね。

 そんな女性の一人であるソフィーは、荒地の魔女の魔法のせいで、おばあちゃんになります。

 この荒地の魔女がかけた魔法は、「自分が思っている自分になる」というような魔法なんですね。

 つまり自己暗示ですね。

 主人公のソフィーは、自分自身に強いコンプレックスを持っているんです。

 つまり、「私はおばあちゃんみたいな人間だ」というコンプレックスが表出しているってことです。

 燃えてないんですね。

 こうやって見ていくと登場人物の多くが、その命を燃やしきれてない、「くすぶっている」んですね。

 言い換えると、何かから逃げているんだけれど、何かが具体化されていないから、何から逃げているか分からない。

 かといって、そもそも生活としては問題ないから、困ることもない。結果、燃えきれない。

 そして、そんなソフィーに突如襲ってくる「老い」!

 現実だと怖いですね。笑

 ソフィーやハウルが逃げている「何か」とは、いわゆるコンプレックスという生き方のことです。

 燃えれないと、無意識にコンプレックスから逃げちゃ運ですね。


4. 恋とコンプレックス

 では、コンプレックスなんていう「ややこしい生き方」からどうやって抜け出すのか。

 それは、やっぱり「恋!」です。

 ハウル自身もコンプレックスの塊です。

 「美しくなければ生きていたって仕方ない」って言うぐらいの、ぶっとびイケメンです。

 なのに魔女が怖くて、部屋には魔除けばっかりを置いて、掃除のできない超中二病な魔法使いです。

 言ってみれば、一種の「ひきこもり」なんですね。

 ちなみに、コンプレックスとは、感情複合という意味です。

 難しく言うと、現実の意識に反する感情が抑えつけられたまま保存されて、無意識のうちに現実の意識に混じり込んでいることを言います。

 そして、日本においては、劣等複合の訳で使われています。

 なので、劣等感と同じ意味で使われるようです。

 じゃあ、このコンプレックスというのは、どうやったら解消できるのか?

 まずは「思い込み」というものを無くさなければなりません。

 そのためには、自分自身の思い込みを認識しないといけないわけです。

 そして映画では、ソフィーは、自分で思い込んでいる「おばあちゃんみたいな女」にさせられるんですね。

 まさに思い込みが、そのまま形になるんです。

 これはまさに「生き方」なんですね、生き方というのは、とてもややこしいものです。

 人は、生き方によってその人になる訳です。

 でも、ただの思い込みであれば、解消することができます。

 ソフィーと同じように、魔法がほぼ消えるんですよね。

 そのため、彼女にかけられた魔法は、素敵な魔法かもしれませんが。

 そして、思い込みを壊す方法とは、やっぱり「恋」です。

 『千と千尋』が「働こう!」だったから、今度は「恋せよ!」ってことなのかもしれません。笑

 そのため、ハウルに対する思いを「正直に」出せば出すほど、ソフィーは元の見た目に戻ります。

 逆に、劣等感による言葉を吐けば吐くほど、ソフィーは老婆になるんですね。

 まさに、恋の二面性を表すかのようですね。

 「想い」って本当は単純なものなんですけど、「恥ずかしい」とか「私なんて」とかいう「ややこしい」感情によって、どうも遮られてしまうものです。

 たいてい事態をややこしくしているのは、自分だったりします。

 そして、ハウルのコンプレックス解消も、同じく「恋」です。

 彼は、「魔法」によって自分というものを「ややこしく」偽って生き続けている。

 これは、例えば「ペンドラゴン」などの偽名にも現れていますね。

 でも、それは師匠のサリバン先生から言われるように「魔法の扱い方を間違っている」んですね。

 この「魔法」とは現実世界における「思い込み」と同じで、とても強力なものです。

 「思い込み」すぎると、人間は戻れなくなります。

 そのため、ハウルも「魔王」になって戻れなくなる、と映画で言われたりしたんですね。

 なので、ハウルの場合は、自分を正してくれるソフィーの存在そのものが大切なんですね。

 単なる正義感や力の誇示ではなく、彼女のために何かしようという行動を起こすことで、コンプレックスを解消していく訳です。

 また、ソフィーにとってもハウルは、自分を正してくれる存在なんです。

 「ソフィーは綺麗だよ」とか、とにかくハウルはソフィーそのものを見て、そのまま伝えるんです。

 でも、これって「恋」とかしてないとなかなか通じ合わないものです。

 人間ってなかなか正気にも素直にもなれないし、恋してないと相手の話なんか聞こうともしない。笑

 だからこそ、惚れ込むってのがとても大切です。

 仕事でも趣味でも、惚れ込むのが一番ですね。

 そうして二人で一緒に自分自身を受け入れ、そしてお互いのために行動する姿が描かれるんです。

 なので、キャッチコピーには「二人が暮らした。」って書かれているんでしょう。

 愛の炎が燃えてるんですね。

 もうメロメロですね。笑


5. 今を生きよ

 そして、コンプレックスの塊は、まだまだいます。

 荒地の魔女もです。

 彼女は、美しさや永遠の生命(とその源の若い男の心臓)というものに執着しまくる訳です。

 そのため老婆になっても、ひたすら美しさとか贅沢とかを追求します。

 実際に老婆であるということを否定し続けるんですね。

 そのため、逆にどんどん老害を起こすわけです。笑

 そして「本当の姿」に戻された時、それこそ超高齢の老婆になっているんです。

 で、このコンプレックスを解消するのが、ソフィーです。

 ソフィーは自ら老婆になったことで、老婆に対しても共感できるようになります。

 そして、このリアルな共感からの優しさが、荒地の魔女の心を溶かしていくんですね。

 また、ハウルの師匠であるサリマンもそうです。

 彼女も弟子?であるハウルそっくりな取り巻きがいっぱいいたりして、ちょっと気持ち悪い。笑

 彼女も魔法や国政に執着し、またハウルに固執するが故に、あらゆる障害を排除しようとするわけです。

 そして、固執する理由なんて非常につまらないことが多い。

 映画においては、どうやら敵国の王子が「カブ頭のカカシ」に変えられたことから始まったようです。

 そこから大騒ぎして、ついでに戦争を起こしたのでしょう。

 つまらないことです。

 まぁ、戦争なんて誠にバカげた事で始まるものです。神話でもほとんどの戦争は痴話喧嘩から始まってるので。笑

 最後はサリマン自身も「バカげている」と発言、ハウルへの「許し」によって自身のコンプレックスを解消する訳です。

 人間って、案外気づかないうちに固執してしまいますものね。

 そして、固執していることも気づかないうちに忘れてしまう。笑

 『ハウル』では、いろんな固執を解消していく様をソフィーの視点から描きまくっている訳です。

 そのため、彼女のセリフをリピートして喋っていると、ものすごく面白いし、いろんなことが分かります。

 そして、最後にカブが「心変わりは人の世の常」なんて言葉を吐くのも、ものすごく辛辣なんですね。

 人は「どうせまた忘れて固執するでしょ」って、まさにその通りです。

 また、最後に追い討ちをかけて「今を生きろ」と言うかのように、谷川俊太郎作詞の歌『世界の約束』がエンドロールに流れます。

 老いの先に、もし誰かがいなくなっても、約束は残る、その約束そのものや、約束を守るということもまた、生きる。ということなのでしょう。

 という風に、ものすごくシンプルで強いメッセージが散りばめられているなはずなのに、どうも伝わってない。笑

 そのせいか、映画としては「わからない」作品として評価されることが多いようです。

 そのため、駿監督なんかは、「わからんなら、考えろ」って怒ったぐらいです。笑

 もちろんそんな事を言えるのは、それまでの成功があってこそ、という駿監督の「わきまえ」もあったようです。

 「わきまえる」とは、他人に口出しをするのではなく、自分ができることを精一杯やる、これだけです。

 「恋」や「愛」そして、「わきまえること」を「老い」を通して表現した、とても素敵な映画ですね。

(おわり)


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