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なりたい自分になれてる?(7)

舗装された道路の山道をゆっくりと進んで荒涼とした景色から豊かな街の空気へと変わっていく。帰れないかもしれないという心配から解き離れたれて一路「成都」に僕らは立派なバスに乗ってむかっていった。 
途中道で客を拾ってはのせていく、その度にボロボロの僕らをみてどこから来たの?と話しかけてくれる。「日本からきたよ」と言うと「へ〜」みたいなやりとりを何回も繰り返す。
方言の問題もあったかもしれないが、意識を遮断してしまってまったく相手がなにを言ってるのか悟れなくなっていった。
まるでスイッチが切れたみたいに。

成都に到着して、適当な宿を見つけ暖かいシャワーもあり清潔な部屋だ。
もうこの旅の面白みはすっかりなくなってしまってたのかもしれない。

とりあえず腹ごしらえをしようと、街の中を流れる川沿いにある食堂に入ってあいかわらずランダムに頼む。もうお金の心配もしなくていい、いつでも連絡できる安心感とですっかり気が緩んでいた。

テーブルにチャーハンが運ばれてきて、食べると美味い。


しっかりと味付けがしてありようやくまともな味に出会えた喜びに満ち溢れていた。チベットで食ったほとんどものを忘れてしまったが、この食堂だけはしっかりと今でも思い出す。

次に・・・

チャーハンが運ばれてきた・・・・。

え?チャーハンを2つ頼んだっけ?
まぁいい味付けのちょっと違うチャーハンを食べてさらに満足感がました。
さすが四川省味の博覧会、見た目同じなのに味が違うので楽しめる。
そうだ、麻婆豆腐を食べて帰らないといけない、なんて思っていた。

さらに・・・

チャーハンが運ばれてきた・・・。

ちょっと待ってくれ、いくら3人でもチャーハンを3人で食べるなんてバカじゃないんだからさ。
と思って壁に書かれているメニューをよくよくみたら「炒飯」どれにも炒飯って文字が最後に書いてある・・・。

さらに...

チャーハンが運ばれてきた・・・。

おかずチャーハンだ。
チャーハンにチャーハンをおかずに食べることになるとは・・・。

4つのチャーハンがテーブルに乗っていた。

でも・・・3人で5品目頼んだのだ・・・・

ラストも・・・

チャーハンだった・・・

そこは、チャーハン専門店だった。店の店主も店のウェイターもゲラゲラ笑ってた。中国語がさっぱりわからなかったが、「だから言ったじゃーん」的な感じだった。

もれなく2パック分のチャーハンをお持ち帰りして街を観光してまわることになった。腹はチャーハンで満たされているので、麻婆豆腐を食べるきも起こらない・・・。


しかし 陳麻婆豆腐が有名だと事前に調べてたので店の前まで行ってみる。

店から出てきた日本人バックパッカーの女子二人が、「めっちゃ辛かったわ〜」と言って出てきた。久しぶりに聞く日本語に嬉しくなり、「日本人?美味しかった?」と声をかけた。「美味しかったよ、どこへ行ったんですか?」と聞かれたのでルートを説明したら爆笑された。

ガイドブックにもいくなって書いてたやん」と・・・・。

すっかり都会の空気に嫌気がさしてしまい、映画館にでもいこうとなりジャッキーチェンとビビアンスーのアクション映画をリクライニングベットが敷き詰められたような映画館でみた。ジャッキーお得意のラストのNGをみようと楽しみしてたら、映画が終わった瞬間に電気がついて強制的に追い出された。カルチャーショックをうけ、エンドロールなんぞだれもみないんだと初めてしった。 

パンダもいたらしいが興味がなかったので夜の街をふらつき宿へ帰った。

すると宿で、麻婆豆腐の店であった、女子にまた会うことになる。
話をしてみると、偶然にも大阪芸術大学の舞台学科の1年後輩だった。
驚きだったのは、重綱くんを知てったことだ。偶然にもほどがあるだろう・・。彼女らはバックパッカーよろしくのお決まり定番パリピコースをまってすっかり浮かれてた。地獄をみた僕らとは大違いだ。僕のバックパッカー嫌いにも拍車がかかってしまった。

そうして・・・

帰国日を確定するために上海へ移動して船の予約をとった。
残りの日数は、上海観光をしたり同部屋の連中と喋ったりしてた。
最終日、部屋に忘れ物がないかチェックしててベットを持ち上げるとベットの下にVCDが落ちてた。エロVCDか!と思うパッケージで中をみてみると、中国の性教育ビデオだった。なかなかレアなお土産ができたと思いそれをカバンの中にいれて持って帰ることにした。

乗船する前のイミグレで写真をチェックされたりビデオをチェックされたり報道規制がありなかなかシビアなことを言ってきた。さすがに現像してなかったのでどこへいったとかいろいろ聞かれた。 ビデオは、チェックされたがとりあえずのチェックで1時間程度で乗船できた。 船内には騒がしい、バックパッカー連中が行きと同じでいるなと思ってみたら芸大の後輩の女がいた。近づきたくなかったので距離をおいた。

帰りの船の中でシャワーを浴びてたら。
片言の日本語を喋るやつがドア越しに!

「おきゃくたん、ここでうんこしちゃだめよ!」
と言われとっさに

「うんこしてません、シャンプーしてます!」
「おきゃくたんうんこダメよ!」

と通じてない。
ドアをあけて説明しようとおもってあけたら!

中井ちゃんが中国人のフリをしてただけだった・・・。 
今でも慌ててたのを覚えている。

帰えりのイミグレでは案の定、中国の性教育VCDは税関に止めれました。

そうして僕らは・・・

30日間中国チベットを何しにいったのか、わからないが帰国した。

神戸港に到着する前に、携帯に電源をいれると電通の1次試験の案内が来てた。明後日だ!そうして僕らは何の余韻にひたることもなく、就職活動しにいく。大手代理店やメディア関連など含め45社ほど受けた。後半にいけばいくほどふざけてた気がする。何度も東京へ面接へいったり試験したり、帰り道に東京の大学へ行ってる奴はそもそも勝ってるよな・・・と思った。普通の大学へ行けばよかったかな〜と後悔したりもした。

とある外資の代理店に最終面接で待ってる時に「なりたかったものにこれでなれるのか?」って疑問に思え始め「今日で就職活動やめます」と宣言して大阪へ戻った。

カメラマンになりたいと思ったのでカメラマンの弟子入門をして1日アシスタントについた。
カメラマンから「お前にとって写真なんなの?」的なこと聞かれたので、「連続する1枚の中の1つ」と答えたら「お前の考えは映像向きだから別へいけ」となりテレビ局のカメラマンのアシスタントにバイトでいくことになる。カメラマンになろうと頑張ってると、就職しろとなり試験を受けて内定がでると配置されたのが、制作部だった・・・・。
なんでだ?と撮影部の部長に聞いたら「カメラマンのセンスないから」って言われた・・・。
たしかに、録画ボタンをOK前に消してしまう。水平取らない。手持ちがブレまくってる。など欠点が凄まじくある・・・。そうして、僕はカメラマンを諦め監督へなっていくのだった。

なりたい自分になれてるか今でもわからないが、なりたいものを探してるうちにきっと人生は進んでいくんだと思う。計算なんかしなくてもいいかもしれないが、ただ明確になにをしたいかを自分に問い続けることが大切だと思う。きっとそれは自分にしかみつけることはできない。

この旅には後日談がいくつかある。

このチベットの旅を紹介してくれた重綱くんは、このあと何度もチベットへ渡り中国政府がチベットの寺院を破壊し国境を超えて逃げていくチベット人を射殺する映像をとり雑誌に取り上げられる。そんな政府から追われる中、玉樹にいたチベット人の彼女をつれてスイスへ亡命し数年間行方不明になる。ある日ロケしてるばったり日本であって彼女とわかれて日本へまた戻ってこれていた生きていた。そしてまた、チベットへ行くのだった。

成都であった芸大の後輩と僕はその後付き合うことになりながく付き合った。出会いとはわからないものだ。犬を飼ったのだが、チベットにちなんで「ラサ」と名付けた。その後別れて彼女は、セット美術の道を歩んでいる。

中井ちゃんは、就職せず金を貯めて世界半周の旅に出た。そうしてもう一度あのルートを辿り、セルシュ のあのおばあちゃんに感謝の言葉を僕らを代表して伝えてくれた。そうしてドキュメンタリーの制作会社に入ってNHKが初めてチベット青海鉄道開通した時のクルーメンバーとなってクレジットされていた。

弟は、高校卒業前に精神を病み病棟に入るのだが記憶が後退しこのチベット旅行のことをしきりに話した。楽しかったのだ。あのゴミトラックの時に実は、母親が数個だけホッカイロを忍ばせおりおおいに寒さしのぎに役に立った。チベット人にあげたらすごく喜んでいた。そんな弟も結婚して所帯もちだ。今年2人目の子供が生まれる。

誰かの人生の先を一緒に知れることは、若いうちにしかない。
そう思わせてくれる旅だった。

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谷内田 彰久
40才になったので毎日書く修行です。