【小説】藤丸立香の日記
藤丸立香の日記①
ドクドクと規則正しい心臓の拍動の音。一つしか鳴らない、鳴り止まない。その音に合わせて、顔に触れた髪がかすかに震える。
煌々と白々しい白熱電球。その光がちらちらと灰色の髪に遮られて、セレストの双眸が冷たい色でわたしを見つめているーー。
「オベロン」
オベロンと呼ばれた男は肩をピクリと震わせた。瞳の温度はそのままに、目頭を若干不機嫌そうに細める。
「ヴォーティガーン」
いたいよ、とわたしは告げた。その言葉は白い壁に吸い込まれて消えていった。まるで最初から発されていないかのように、そもそもわたし一人しか居ないかのように。真っ白な天井が迫ってくるような錯覚を覚えるほどスローペースで、重力加速すら間違って知覚してしまいそうなほどの圧迫感。
ヴォーティガーンは随分苦痛そうだった。自身のうちにあるどのような感情に突き動かされたのかは知れない。そもそも話してくれもしないのだからわからない。そのくせ勝手に想像されたり決めつけられると怒るのだ。
わたしは一つため息をついた。
この状況は一体何なのかと考えて、いくら成長しない私と言えど答えを導けてしまう。辟易とした。正確には、目の前の男にではなく、自分自身に対してだが。
男はわたしの目を見つめたまま動かない。唇の端ですら、いつものような軽快な悪口のために働くことはない。
何も言わないのなら――、わたしを押し倒したその先が無いのなら、これ以上慮る義理はなかった。
わたしは膝蹴りをみぞおちに食らわせる。いわゆる自衛だ。
「イッテ!?」
ヴォーティガーンは飛沫状に汚れた白いシャツをくしゃりと握りしめた。そして苦悶しながら「なにすんだ!」と抗議した。
男はやっと口を開く気になったようだ。
「それはわたしのセリフ。なんのつもり?」
変わらずお腹を押さえる彼をよそ眼に起き上がって、髪に手櫛を通した。さっきまで彼に掴まれていた手首がビリビリと痛んだ。生きている証のようにも思えたが、先程までなんの危機感も抱けなかった自分を激しく嫌悪した。
「押し倒したくらいでそんなに怒る?」
まったくマスターは心が狭い、とヴォーティガーンはため息交じりに付け足した。
「痛いって言ったよね?」
「えー?言われたかな?ちょっとよく覚えてないなァ。」
「ホント白々しい…」
わたし個人の感情としてはもう一発デコピンくらいしてやりたいところだが、さすがに過剰防衛になる気がしたのでやめた。これではただの八つ当たりだろう。わたしは話題を変える。
「あー、なるほど…暇なのかぁ。」
「…おい、マスター?」
嫌な予感がする、とでも言いたげなヴォーティガーンは、お腹を押さえながらじりじりと後退していく。しかし走るほどの元気は無かったようで、無事にわたしに捕まってしまった。
わたしは満面の笑みでヴォーティガーンの背中をひっつかみ、ずるずると廊下へ引きずっていく。
「それならそう言ってくれればいいのに。よし、じゃあ今からリソース回収に行こう!」
「俺は暇じゃな…おい、引っ張るなって!まだ腹が痛いんだ!」
「はいはい。あとで湿布あげるから我慢して」
「シップがサーヴァントに効くわけないだろ!おい!聞けって!」
藤丸立香の日記②
いつもよりも朝日がきれいに感じた。透き通った白色を貫く閃光がまばゆかった。
いつもよりもご飯を食べる速度が落ちていた。「味わって食べるのはいいことだ」なんて言われた。
たったそれだけなのに、本当は普段と何も変わらないわたしのはずなのに。些細な矛盾を感じている自分がいる。
指先が痙攣する。なにかおぞましいものを受け入れなければならないような錯覚に陥って、息が詰まる。指先から虫が這い上がってくるような、それを振り払うことができない金縛りにでも合っているような、そんな感覚。
「マスター?」
見知った声が聞こえて、私はバッと振り返った。金縛りは一気に解けたようだった。その代わりに言い表せないほどの吐き気と悪寒が全身を凍らせていく。息が上がって、ハ、ハ、と短く肩を揺らす。ビートにすら成らない未熟な呼吸。
「…ひどい顔色です、立香。医務室へ行きましょう。」
麦の穂のような髪。つやつやと輝く緑色の目。それらが振り子のように揺れて、きらきらと光を反射して…。宝石のようなまぶしさだ。わたしには到底手に入れられないような…めまいを誘うほどの極彩色が、
「立香?」
「え?あ、ごめんね、考え事してて…。」
少女は少し顔をしかめた。
「私は医務室へ行ったほうがいいと思うのですが、歩けますか?」
「だ、大丈夫、ちょっとめまいがしただけで大したことないよ。心配してくれてありがとう。」
強がりだということはバレているのだろう。本当は膝から崩れ落ちそうだし、変な言葉が頭に浮かんでは消えてを繰り返すし。そのせいで思考がまとまらなくて、医務室へ行こうと誘われても、自分の状況と医務室をうまく結びつけられなかった。
少女はため息をついた。
「いいですか、立香。強がったほうがいい時と、強がることで事態がより深刻になってしまう時があります。今はどちらだと思いますか?」
少女の言葉がぐわんぐわんと鳴っている。白い壁と意匠の細かい窓枠が光で反射して、さらさらと…光の粒が。
「わかんない」
わたしの言葉を聞いた少女は、腹立たしいといった様子で少々乱暴にわたしを抱き上げた。そして驚嘆の声を上げる。
「うわ、混乱をかけられてるじゃないですか!?いつの間に…?」
わたしを抱き上げたまま全力ダッシュした少女のおかげで医務室にはついたものの、そのあとに彼女が「乱暴が過ぎる」と叱られていたのは言うまでもない。
藤丸立香の日記③
混乱が解けたからと言ってわたしの謎の矛盾感がすっかり消え去ったというわけではなかった。むしろ日に増して悪化の一途をたどっている。
ざらざらとした苦みを舌の上でずっと転がしているような不快感。
じっとしていると腹の底が掻き毟られているような焦燥感。
何かしなければならない、と焦る気持ちと、もうなにもできないだろう、という悲観。わたしが悲観を持つのはらしくない。非常に。だからこんな気持ちになるのは初めてで、どうすればいいのかがわからない。言語化するのも難しくて人にもうまく説明できる気がしない。
人に話せば見えてくるものもある、とはよく言ったものだと思う。人に説明しようとすると、自分が悩んでいることについて思考を巡らせて、あらゆる角度から認識しようとする。それが最も大きな効果だろう。
—さて、今のわたしにはそれができるだろうか。答えは否だ。
ぎし、と椅子のスプリングが鳴った。
「本当に話す気がないと?」
わたしの前には何も置かれていない机と、それを隔てて一人の男が座っている。
「きみってカウンセリングもできたんだ…」
「話を逸らすな、マスター」
男はため息をついたので、わたしも合わせて息を吐きだす。これは断じてため息ではないーー、そう、深呼吸の一部分だ。
「だって、必要のないことだし…」
わたしは丸椅子の上で胡坐をかこうと膝を持ち上げた。が、胡坐をかくには少々狭い。程よく落ち着くポジションを探していると、丸椅子がくるくると回転した。
男が先ほどと比べて2割増しの呆れ顔でわたしを見ていることに気づき、そそくさと足を床に戻した。
「必要が無いってキミねぇ。マスターの心身の状態について把握するのが不必要なことだと?キミが軽んじているのはキミだけじゃなくて、キミにかかわる全ての人間だってことを…」
「わかってるよ、わかってる。そのうえで必要ないって言ってるんだよ。」
「本当にそう思うのかい?」
「思うよ。これはわたしが自分で答えを出すべきことだと思うんだ。」
男は少し目を伏せて、視線をそらした。心なしか苦しそうに見えた。
「…そうか。なら私は、キミが出した答えを尊重しよう。」
藤丸立香の日記④
ぱちぱちと焚き火のはじける音で目が覚めた。テントと寝袋でとる睡眠はいつもよりも浅くなる。どうしても、警戒心だけは解けなくて。
「今何時くらいなのかな」
いつもの癖で隣を見た。誰もいなかった。
わたしはゴソゴソと寝袋から出て、テントの入り口に少し隙間を作った。どうやら夜明けにはまだ少し早かったようだ。
なんとなく、昔行った林間実習を思い出した。あの時はテントではなく施設の二段ベッドで寝ていたけど、二段目で寝ていた人の顔にバカみたいにデカイ蜘蛛が這って大騒ぎになった。朝食のときも泣き、実習中も男子に揶揄われて泣き、本当に気の毒だった。彼女は「家に帰ったらポチと遊んで早く忘れたい」と呪文のように繰り返していたんだっけ…
「………そっか、そうだったのか。」
パチ、とひときわ大きな音を立てて薪が弾けた。空気は湿っぽくて、近くの茂みはつややかに霜で濡れていた。
わたしは焚き火のそばに座って手をかざした。日常と非日常の間の音。わたしにとっては日常になってしまった音。遠くで川がせせらぐ静かな波音が聞こえた。
…こんなにも、敏感なのに。
「…まあ、こうなるよね。」
視覚も聴覚も、危機察知には必要だからと研ぎ澄まされていった。
嗅覚は腐臭に慣らされて閾値が上がってしまった。
触覚は…。
わたしは焚き火にかざしたままの自分の手を見やった。いつからこの赤色に見慣れてしまったのだろう。いつからこの赤色を受け入れてしまったのだろう。もう、思い出せない。
「わたしは…」
一人称ばかりで嫌になる。誰もいない焚き火の跡はさみしかった。彼に「話せ」と言われたときに話しておくべきだっただろうか。そうすれば、今ここで彼の言葉を思い出しながら傷心に浸れていただろうか。
残された時間でわたしに何ができるだろう。わたしは彼らになにをしてあげられるだろう。わたしが後悔しないためには、どうすればいいのだろう。