【小説】五里霧中
五里霧中①
「うーんこれはマズイ!」
「言ってる暇があったら足動かせ!呑まれるぞ!」
ジャカジャカと全身の装備を揺らしながら全力疾走すること4名。
「こういうときにこそ『いつものことだ』って言いながら、謎の余裕をみせてくれないかなクソマスター!」
「言ったところで現状は変わらないよオベロン!」
「ていうかクソマスターってなんですかクソオベロン!!ぶん殴りますよ!」
「殴るなら追っかけてきてるキメラにしてくれるかなぁ!?」
危機的状況なのに喧嘩が始まってしまいそうになり、さすがに「どうどう、そういうのは後にしよう」となだめる羽目になる。息がきつい。
神代に程近い時代の特異点にレイシフトしたわたしたちは、現代には存在しないような獣と戦闘を繰り広げ、そして無事ピンチに陥っていた。
「あと、どのくらい、走れば、ポイントに、着くの」
ゼェゼェと息を切らしながら、迎え撃つのに絶好のポイントの場所を通信機越しに尋ねる。通信機ごしの管制室からは「あと1分!」という、あと少しなら頑張れそうな、いやもう無理なんだけど!と言いたくなるような、絶妙な時間が返ってきた。できれば距離で言ってほしかった気がしなくもない。
「抱えましょうか、マスター」
走りやすい格好に再臨し直したサーヴァントの一人がわたしに提案してくれる。
「血だらけの人には頼めません!」
そうなのだ。白と青を基調にした衣装は、返り血と自身の血で配色バランスが完全に崩れていた。要するに怪我をしているので頼めないと言う訳だ。これは彼女に限った話ではない。あと少しというところまで追い詰めたところで、さすが獣としか言いようのない根性を発揮してくれた。そのおかげで、油断していたわたしたちは満身創痍というわけだ。
『その崖を登るとポイントです。くれぐれもキメラを上に上げないように。』
通信機越しの指示を聞きながら、わたしは作戦を組み立てるのだった。
五里霧中②
「いくら想定外だったとはいえ、ねぇ?」
「はい…」
「私達を庇おうとして飛び出してくるのはちょっと、辞めたほうがいいというか…やめてくれたほうがいいというか…」
「はい……」
「こちらが気が気ではないので直すように。」
「はい……ごめんなさい…。」
同行者3名に呆れ混じり怒り混じりに叱咤されて、わたしはしおしおと肩身が狭くなっていくのだった。
キメラが根性を発揮したとき、気づいたときには前に飛び出してサーヴァントを庇っていたという話だ。これこそ『いつものこと』なのだが、この発言は間違いなく火に油を注ぐに違いない。
『いつものこと』が『それが普通』とは限らない。むしろ、こうやって叱責されるまでが『いつものこと』で『普通のこと』なのだ。
ぼんやりそんなことを考えていると、
「………!?、マスター!!」
3人から同時に呼ばれてハッと顔を上げた。慌てた様子で、3人がそれぞれわたしに向かって手を伸ばしている。それと同時に凄まじい量の煙…のようなものが吹き付けて、一気に姿が攫われていく。
「えっ、なにこれ!?」
「誰でもいいから腕に掴まれ!」
遠くの方からオベロンの声が聞こえる。アルトリアとモルガンも、自分の手を握るようにと声を張り上げているのが遠くから聞こえる――。こんなに離れていたっけな、なんて考えながら、わたしは吹き付ける煙の中、誰のものかもわからない何かを必死に手繰り寄せた。
五里霧中③
目を開けると、目の前には節くれ立った枝を握っていた。言い表せない焦りが自分の身を支配した。
「どうしよう」「どうしようもない」「どうすればいい」―。
これらの言葉がぐるぐると廻るばかりで、一向に答えが見つからない。とにかく枝を握るのをやめようかと思考を逸らそうとしたところ、
「いい加減握るのをやめたら?」
と声が降ってきて、飛び上がるほど驚いた。そして実際に飛び上がった。
視線を上にやってみると、わたしが握っている枝の大元…つまり幹だが、その更に上に茂っている枝上に虫のような男が腰掛けていた。
「みっともないとは思わないかい?」
わたしが枝から手を離したのを見届けた男の口からは、予想外の言葉が飛び出してきた。なにが、と問返そうとして、コイツは誰だ、という疑問が頭を占めた。
「ほらやっぱり。僕は常日頃から君に忠告してたよね?危機感が足らないって」
虫のような男は、ものぐさにドサ、と飛び降りてきた。枝の高さは目測で3mくらいはあったので、随分丈夫な男だと思った。
「あんな煙、吸い込んだら最後…ってわかるもんなんじゃないのかなぁ。何回同じことを繰り返せば気が済むんだよ、ほんッとに、いい加減にしてくれ」
男は厳しい口調で言葉を続けた。見た目で言えば無口そうな無愛想そうな男なのに、よほど腹立たしいのか、若干眉をひそめながら目を逸らして言葉を紡いでいる。
「誰でもいいから腕を掴めって言っただろ。なんでそれで握ってるのが枝なわけ?つくづく理解できないんだけど、君の頭ってもしかしてあんこでも詰まってる?甘ったるい妄想に侵されでもしてるわけ?」
「…で、きみは一体誰?」
わたしは無遠慮な言葉の数々に少々、いや結構ムッとしながらぶっきらぼうに尋ねた。
「君の恋人だよコイビト。覚えてない?あ、そう、残念だなぁ」
「それは嘘だよね?なんでそういう嘘つくの?」
「うわきっつ〜。忘れてる自分の過失は棚に上げて自己紹介した相手のことは咎めるんだ?」
「棚に上げてるっていうか、普通に聞いただけだよね?嘘つくほうが不誠実じゃない?」
「いやほら〜、俺って不誠実の塊みたいなヤツだからさ、しょうがないんだよね。何が嘘で何が本当か、当の本人すらわかっちゃいないんだから。」
「それがわたしとなんの関係があるの?きみが嘘つきだとして、きみがわたしに嘘をついていい理由にはならないよね。」
目の前の男は黙った。
今更気づいたことだが、男の装いは外国風…、もっと言えば2〜3世紀くらい前のヨーロッパの風貌を漂わせるシャツに、意味不明なほど黒黒としたキチン質を感じさせる手甲と足甲を纏っているという始末だ。挙げ句何かの虫の羽を適当に切り貼りしたようなちぐはぐなマントに、黒い何かふさふさのものを首に巻いて、おまけに星を思わせる王冠を冠っていた。極めつけは背中から生えている翅である。トンボのような、脱皮したてのセミのようなその翅は、黒く白く、すべてが幻想であるかのような主張をしていた。
「求めてもいないような平凡な感想をどうもありがとう。気に入ってくれたみたいで嬉しいよ」
男はこれでもかというほどの平坦な口調で言ってのけた。明らかな嘘だとわかった。
それにしてもやはり、嘘はよろしくないのだ。嘘を付けばつくほど、自分が現実から離れていく。嘘をつく自分が『本当』になって、いつか『嘘』がどれかわからなくなってしまう。
…なんて考えながら、どうして自分がそんなことを思うのか、根拠が見当たらず困惑した。
「嘘つきって言ったことは謝るけど、なんでホントのことが言えないの?」
男は不愉快そうに眉をますますひそめて、そして笑顔で吐き捨てるように言った。
「そりゃ俺は、生まれたときからなにもかもが醜いとしか思えなかったからね。心ってやつがないってことなんだろ。」
今度はわたしの眉がひそめられた。男の言葉はわかるようでわかりづらい。
「心がないって…そういう言葉は自分も傷つけるよ」
「意味のない忠告をどうもありがとう。無駄話はこのへんにしてさっさとここから出るぞ、マスター」
「マスターって、」
ズカズカと近づいてきた男は、ぐい、とわたしの服の袖を引いた。自分の着ている服は、懐かしい戦闘服だった。
「ずっとここにいるのは君に悪影響だ。ま、俺には関係ないけどね。でもあとで二人にボコボコにされるのだけは避けたいんだよ。」
「さっきから意味不明なことばっかり…」
「いいか、マスター。夢を夢だと気づいて良いのは、夢の主導権を握っていないときだけだ。夢の主導権が自分にあるときは気づいてはいけない。気づけば君はそこに囚われ続けることになる。」
夢に閉じ込められて、一生目覚められないかもね?。男はニンマリ笑って言った。
男がわたしの服の袖を、まるで嫌なものを摘むかのように引っ張って、わたしをどこかへ誘導していく。なんとなく、どこへ向かっているのか知るべきではないと、そういう意味であるような気がした。
「ならせめて、きみの名前を」
「必要のないことだ。無意味だって言えば理解出来る?」
「無意味と不必要は違う。」
「ああまったくだ!じゃあどっちもだよクソマスター!まるで子供の駄々を見ているようで虚無感が襲ってくる!」
「きみはさっきから自分のことは何も言わないから、せめて名前だけでも知りたいと思って」
男はわたしに背を向けたまま、長いため息をついた。
「いい加減君のワガママに付き合うのにも飽きてきたなぁ。」
男はわたしを見た。
ハッキリきっぱりと男は言う。
「どうでもいい、全部だ。きみがここから出られなくてもどうでもいいし、そのあと何を言われようとどうでもいい。ましてや今の君の状態になんて微塵も興味がない。」
だって、虚しいだけじゃないか。全部墜としてしまえばいいじゃないか。そうすれば綺麗さっぱりするだろう?少なくとも、二度と君を目にしないで済む。
男は笑っていた。一切冗談のようには感じなかった。
わたしは疑問を頭に浮かべた。
――それなのに、そうしないのは何故なのだろうか。今ここでわたしを殺してしまえば、この男が言う通り綺麗さっぱり全部なくなるのに、何故そうしないのだろう。
「あぁ~~、そうだった!君って空気読めないんだったね、忘れていたよ!面倒くさいなぁ!何故もクソもないだろ。ほらさっさとついてこい、ぼけっと突っ立ってたら置いていくぞ」
理由のわからない寂しさが、わたしの身を震わせた。
喉が詰まるような、心臓が凍えるような、一つの言葉が頭の中に鳴っている。
ソレが嫌なら一緒に行くしかない。彼の手に引かれて、また同じことを繰り返すしかない。
それなのにわたしは、―何故かはわからないのに、どうしてもついていく気にはなれなかった。この先へ行く資格が自分にはないと思ってしまった。
「あのさ、」
わたしは彼の背中に声をかけた。彼は少し振り返って、明らかに面倒くさい、とでも言いたげな顔でわたしを見つめている。一応、話は聞いてくれそうだ。
彼の言葉が嘘だというなら、最初からそこに込められている意味なんてない。探すだけ無駄なかくれんぼと同じだ。それなのにわたしはほんの少し、滓かな意味を見出してしまった。勝手な行いだ。本当かどうか確かめる勇気なんてなかった。
「わたしってどんな人だった?」
わたしは言葉を置き換えた。こんな中途半端な確認にすら、今なら彼が応えてくれるのではないかと期待した。これってきみの、なんて言えるはずがなかった。
男は訝しんだ顔をして、ひとつ瞬きをした。
「青天の霹靂」
男は呟くように言葉をくれた。たった一言ではあったが、なんとなく、彼なりの誠意であるような気がしたのは気のせいではないだろう。
そうか、やっぱり。
わたしの内側に、途端にやるせなさが湧き上がってくる。
「そっかぁ…」
「気は済んだ?それは何よりだ。…おい、どうしたんだ、立ち止まって」
――理由はさっぱりわからないけれど、ここは彼の世界なんだろう。彼の罪悪感で塗り固められた、そんな世界。
未だに、自分が何者かなんてよく思い出せない。
自分がどこへ向かうべきなのかなんて、もうとっくに見当たらない。
わたしにはそんな大層なものは、もう残っていない。
だから、彼の手を握って、彼の願いのまま歩いていけたらどれほど良いだろうか。
わたしは、「置いていかないで」と縋りつきたくなる気持ちを抑えこむために、自分の左腕を握った。そして、なんとか頬を持ち上げて笑った。彼についていける覚悟さえあれば、どれだけ良かっただろうか。
「とんでもなく引き攣った笑顔だなぁ、君ってそういうの得意だっけ?」
「ヴォーティガーン」
男はピクリと反応した。ざぁ、と風が吹きつける。途端に霧が立ち込めて、ヴォーティガーンの姿が霞んだ。
たった今、ヴォーティガーンは思い知ったことだろう。
こんな白いだけの悪夢を自分が見ていることも。わたしが自分の意志で彼の望みを踏みにじろうとしていることも。
自分のことはさっぱり思い出せないのに、彼の名前だけは何故か言葉にできた。思い出すより先に、口が動いた。喉の開閉が、彼の名前を憶えていた。
よっぽど、わたしは彼を信頼していたのだろう。…あるいは、まさか。
「きみも、嘘が下手くそになったね、ヴォーティガーン。」
わたしは慌てて言葉を繋ぐ。
この選択で良いのかどうか、わたしは確信を持てなかった。
ヴォーティガーンがどんな表情でわたしを見ているのか知りたくなくて、わたしはくるりと背を向ける。
――たとえ間違っていたとしても、彼にはついていけない。彼が思い描くわたしは、もうどこにもいない。
…だから、ここではっきりと伝えるべきだ。彼が伝えたかったことをここで聞いて、綺麗さっぱり終わりにするべきだ。こんな、彼が自傷するためだけに存在する夢を、他でもないわたしの手で。
…そう思うのに。
「わたしは、もう行くけど。最後に何か、わたしに言っておきたいことはあるかな?」
どうしても唇は震えて止まらなかった。背を向けていたって誤魔化しきれないくらい、未熟な強がりだった。
彼はよほど腹立たしいのか受け入れ難いのか、ズンズンと足音を立てながらわたしの前にやってくる。そしてわたしの顔を笑顔で覗き込んだ。
「たーっっっくさんあるとも。そうだな、まずは君のその無鉄砲なところを直すべきだと思うな。あとはこっそり夜食を食べてるところとかかな。あぁ、毎晩魘されていたのも良くなかったね。うん、ま、これは別にどうでもいいか。そうだなぁ、他にも挙げるとするなら…」
ヴォーティガーンは黙りこくってしまった。
わたしは首をかしげて続きを待つ。
「…これはだいぶ前の話だけど。」
「うん」
「…君を……、ベッドに押し倒したことがあったろ?」
わたしはそれを聞いて、不意に少し笑ってしまった。
「ああ、あったね」
ヴォーティガーンは一瞬だけ悔しそうな顔をした。
「…………。」
ヴォーティガーンは何か言いたげにわたしのほうを見て、口を開いたり閉じたりしている。この先は口にできないのだろう。彼の信条も含めて。
…本当は、わたしだって口にしたくないのだ。もっとも残酷な現実を突きつけることが、どれほど鋭利に両者の心をえぐるか、わたしは今になって身をもって体感している。彼の名前を思い出すより先に口走った理由を、わたしは確信を持って理解した。
「…うん、いいよ、最後にきみの願いを叶えておかないとね。」
だけど、それを口にすることはできなかった。わたしにだって、信条の一つくらいある。
わたしは半ば勢いに任せて彼に歩み寄り、彼の頬に左手を添える。彼は抵抗一つすらせず、石のように動かない。項垂れて背を丸めた彼を見て、わたしは少し躊躇ってから…、そのまま彼の頬に口づけをした。ヴォーティガーンの頬は冷たかった。
「さようなら、ヴォーティガーン。もうわたしに会いに来ちゃだめだよ。こんなところに来たら、きみまで帰れなくなるからね」
わたしはヴォーティガーンからそっと離れる。
わたしはちゃんとお別れを言えただろうか。
チクリと胸を刺す痛みがあった。名残惜しさは確かに存在する。
彼の口が、「帰る場所なんてない」と動いたのが見えた。その言葉が、わたしの選択の結末を物語っている。
途端に激しい後悔に襲われた。この選択で本当に良かったのだろうか。彼に口づけをする選択は、正しかったのだろうか。だけど、どれだけ悩もうと、もう取り返しがつかない。
お互いに呆然としたまま立ち尽くし、何も切り出せないまま徐々に、目の前に居るはずのヴォーティガーンの姿が霞んで見えなくなっていく。
「受け入れたくない」という声が聞こえて来るような気がする。それこそが、この夢の正体そのものなんだろう。…でも、その望みだけは受け入れられなかった。受け止めてはいけないのだ。その選択だけはできない。
霧が吹きつけてくる。これで最後だ、とわたしは精いっぱい笑った。清々しさなどどこにもない、ましてや残るものすら何一つない、意味のない繰り返し。
―――どうあれ、自分の選択を貫かなければ。
まだ少し、悲しいと感じる心が残っていたことが自分でも驚きだった。
五里霧中④
霧が晴れた。わたしは一人ぼっちで、崖の上に佇んでいた。
三人はどこへ行ったのだろう。あの霧の中逸れてしまったのだろうか。それとも、わたし以外がどこかへ飛ばされてしまったのだろうか。
未だ頭は冴えない。彼の頬に触れた唇が、まだ少し熱を帯びている。
通信機がピピ、と音を立てた。わたしの意識が少し現実へ引き戻される。
『お疲れ様、藤丸。無事にキメラを撃退出来たみたいだね』
「…はい。みんなのおかげです。」
『うんうん。あの三人はチームワークにちょ〜っと問題があるけど、今回は上手くいったみたいで何よりだ。』
「その、三人はどこへ?」
『おや、はぐれているのかい?……少し離れたポイントにいるようだね。まあ自力で戻ってこれるだろう。心配いらないさ。』
「そうですか…」
通信機越しに沈黙が漂う。
『もうすぐこちらへの帰還準備が整う。それまでの間、さっきの霧について少し話しておこうか。』
ドキ、と脈打つのがわかった。
『きみはあの霧で何かを見たかい?』
わたしは口を閉ざした。
…嘘つきを名乗ったヴォーティガーン。愛しさとやるせなさと憎しみを織り交ぜたようなセレスト。あの霧の中でさえ口にしなかった望み。断ち切ってしまった羨望。
まるで自分が自分ではないような、誰かに取り憑いて言葉を繰り出しているかのような、あの感覚。
「…いいえ、というより、何も思い出せなかったことだけはハッキリと。」
嘘ではない。わたしが目の前にいた男について思い出したのは、しばらく時間が経過してからだった。わたしは記憶を反芻した。やっぱり、あれは。
『…なるほど。霧の発生源は不明なんだけどね、多分あれは『迷いの霧』の一種じゃないかな。』
「迷いの霧?」
『よくある話さ。森は神秘への入り口だ。今きみの居る時代は特に、神代との境目に当たる。そういうものが発生しても、特に不思議はないんだよ。実際キメラもいたしね。』
「じゃあ、霧もキメラも特異点化の影響ではないってこと?」
『恐らくね。……さ、準備が整った。いつもの手はずで頼むよ、藤丸。』
ゴーストライナー
サーヴァントは境界記録帯だという。それは、生と死の境界に位置するからだと、ダ・ヴィンチが言っていた。
でも、わたしは思うのだ。
サーヴァントは、過去と未来の境界にも位置している、そういう意味での境界記録帯でもあるのではないかと。そしてそれは生身の人間も同じだろう。
今、というものは、過去と未来の、ただの境目の名前だ。過去は記憶に留まるが、未来は果てしなく行くだけの場所。そしていつかは、わたしたちが置いていかれるもの。
あの霧で見ていたヴォーティガーンは、あれは間違いなく夢だった。
夢を夢だと気づくまでは自分のことを忘れていられる。夢だと気づいたときに自我を取り戻し、そして追い出されるように目覚める。普通は、そのはずだ。
でも夢だったのに、追い出されなかった。自分を思い出したときには、ヴォーティガーンの顔が鮮明に見えた。今もハッキリと、正確に彼だと思い出せる。
——じゃあ、あれは。あの夢は。
——わたしが見ていた夢ではなかった。
だとすれば、あれは必然的に、ヴォーティガーンが見ていた夢だったことになる。
わたしはあの霧の中で眠り込み、勝手にヴォーティガーンの夢に入り込んでしまったのだろうか。
レポート作成の手が止まる。
帰還後にヴォーティガーンに顔を合わせたときには何も言われなかったし、それを態度で示すようなこともなかった。まあそもそも、彼の何を信じるのかという話ではあるのだが。思っていたとしても表せないし、思っていなかったとしても表してしまうかもしれない。
「ほんと、ややこしいひとだなぁ」
残る疑問はいくつかある。
ヴォーティガーンが見ていた夢だとしたら、なぜわたしが入り込む余地があったのか。
ヴォーティガーンはなぜ何も言わないのか。
あれは本当にヴォーティガーンが見ていた夢だったのか。