【小説】捻くれ者の復讐劇
「一体君はいつまでごっこ遊びを続けるつもり?」
再び板張りの廊下を歩いていると、後ろをついてきていたオベロンが口を開いた。
「……帰れるまで」
振り返らずに答えたわたしに、オベロンはやれやれ、といった様子で付いてくる。足音のテンポが少し速くなった。
「『特異点を解消するまで』じゃ、ないんだ?」
その言葉に立ち止まる。確かに言われてみればその通りである。でも一瞬、ほんの瞬きの間、わたしはここが特異点であるという前提を忘れていたように思う。なぜだろうか、それがとても良くない気がするのは。
先ほどまでの苛烈な衝動が嘘のようだ。心なしか冷静になれた気がする。
「あぁ、いいよ誤魔化さなくて」
そんなわたしをよそ眼に、目の前に立ち塞がったオベロンは、いつものようなセレストでわたしを見下ろす。銀鼠がサラサラと降って、わたしはそこで少し思案した。
…まるで、あの日のようだ。あの日の、彼のようだ。
床板がギシ、と沈黙に耐えかねたかのように軋む。
「早く帰ろう、オベロン。」
「帰るって、どこへ?カルデアの君の部屋?それとも、」
「オベロン」
無表情のまま、曇ったセレストのまま、オベロンは半ば自動的に言葉を繰り出そうとする。
「君を使って、使い潰した君の世界?」
腹立たしくはなかった。彼はいつもこんなことを言っているからだ。
「拒絶されてもまだ帰ろうとするだなんてまるで理解が及ばない。挙げ句死ぬまで”カルデアのマスター”ごっこを続けるんだろ?も、いい加減にしてくれよって感じだ。さっさと諦めれば楽になる。ホラ、もうどうにもならないって気づいてるくせに、まだみっともなく足掻くんだ?」
オベロンの口元が半弧を描く。その先の言葉を、わたしは何故か知っていた。
『もう辞めたら?』
耳元で響く音は酷く耳障りだった。わたしの神経が逆撫でられたわけではなく、オベロンが口にしたからではなく、わたしが次の言葉を知っていたこと自体がまるで禁忌であるかのようだった。
いつものような言葉だ。気に留める必要もない、まるで「飯食いに行こうぜ」のようなノリで終末をささやく、いつもの彼の言葉だ。
だけど、なぜかいつものようには流せなかった。適当に受け流してはいけないような気がした、——いや、受け流せないくらい、心の柔らかいネットに引っかかってどこへも動かせなかった。
わたしは顔をしかめる。自分がこの会話を何度も繰り返しているのだと気付くのに、そう時間はかからなかった。
——デジャヴだ。
するとオベロンは怯えたように目を丸くした。
「なんでだよ…」
オベロンは独り言のように呟いた。いっそ独り言であれば良かった。
その反応から、オベロンは本気だったのだとようやく気づいた。のろまで愚鈍なわたしは、彼にこんな言葉を言わせてしまうくらい、いや、「言えればよかったのに」と夢に見るくらい深く後悔させてしまったのだ。
更には、わたしは叶えるべき彼の望みを間違えてしまったのだ。あの霧の夢のように、わたしは再び、気づいてしまったのだ。
「気色が悪くて堪らない!勝手にズカズカ入ってきやがって!」
「なにを素っ頓狂なことを言っているの。わたしは悪くないでしょう、オベロン。責任転嫁はやめて」
あまりにも愚かだ。たった一言、お互いに言うべきことを言えたなら、こうはならなかったのかもしれないのに。
軽薄と呼ぶには重すぎる。どうせ本当のことは言えないのだと、斜に構えていたせいでこうなった。
名探偵にすら成れないわたしは、綺麗に繋がりすぎた今までの夢を、唇を噛み締めて飲み込んだ。
「入ってくるな」、とオベロンは言う。
——じゃあ間違いなく、これもオベロンが見ている夢だ。わたしはそう確信した。オベロンの後悔が形になった、見てくれだけは綺麗なただの悪夢だ。
オベロンは耐えかねたようにわたしの胸ぐらを掴んだ。
いたい、とは言えなかった。どういうつもり、とも尋ねる勇気はとても湧いてこなかった。
彼がここまで後悔を重ねてしまったことに対してわたしは…、なぜか。
場違いな空蝉が、遠くで聞こえた。
「わたしに聞かれたくなかったの?」
わたしの言葉は、オベロンのシャツに反射する。
オベロンはわたしの胸ぐらを掴んだまま、項垂れてうんともすんとも言わない。段々と空蝉が近くなって、思考すらかき消されそうになる。それにみっともなく抗いながらオベロンの言葉を待っていた。
―――そう、なぜかわたしは。
「わたしに向かって吐き散らかしたかったんでしょ、きみは。腐っても言えないきみ自身の言葉を、他でもないわたしに向かって。でも言えないからこんな悪夢を見ているんでしょう?」
―――彼が後悔してくれたことも、わたしを愛すことも憎むこともできなかったという事実ですら、わたしはいとおしかったのだ。
「わたしの知らないこの続きを、きみは知っているんでしょう?」
「…知ったことか!」
ヤケになったオベロンは叫ぶ。そして唸り声を漏らしながら再び項垂れた。さながら枯れかけの花のようだった。
オベロンの今の感覚は痛いほどよくわかる。夢が終わる。彼が迫りくる時間切れに焦っていることも、身に染みて理解できた。
言いたいことの一つも言えなかった彼が、言いたいことを口にできる現状に躓いている。
そしてそれが、わたしのせいだという、当たり前の事実が、太い丸太のように目の前に横たわっている。
「おまえの結末なんて知ったことか!おまえが使い捨てられたことも、忘れ去られることも、おまえが受け入れたことだろうが!なのになんで」
なんで俺は今叫んでるんだ、とオベロンは言った。うなだれた頬を水滴が滑り落ちていく。脱力した腕からさらに力が抜けて、滴った涙は床板にじんわりと滲んでいく。
思うに、きっと。
これが彼にとっての望みだったのだ。
不器用で、幸福の一欠片すらも味わうようには生みだされなかった、何者でもない彼の望みだったのだ。誰でもないわたしのために抱いてくれた望みだったのだ。
「ありがとう。でもごめんね。」
―――誰かが押し付けたかった幸福の形。
―――オベロンがわたしに望んでくれた、『普通の女の子が経験すること』。
―――奈落に独り放り出されたオベロンが、わたしを何度も思い描いてくれていた、真っ白な夢。
「君は、そう言うと思ってた」
――オベロンが、オベロンなりに考えた、わたしの幸福。
夢の中でしか実現できなかった、いやそもそも、汎人類史を知らないオベロン・ヴォーティガーンには再現しようも無かった、『汎人類史の否定』。
わたしの帰還を拒んだ汎人類史への復讐。千切って、蹴り飛ばして、首を切り落として、グチャグチャの滅茶苦茶にして、「見世物じゃない」と言い切った、彼の復讐劇。
「…もういいだろ、好きに帰れよ。それとも追い出される方がお好みかい」
ほら、やっぱり。
このひとはどうしようもなくわたしに甘かった。あの國を旅していたときですら、敵だと明かしたときですら、わたしをずっと見ていたひとだった。隣に立っていては見えないような、取るに足らないわたしの内面を無視できなかったひとだった。…だからこそ、わたしへの望みを捨てきれなかったんだろう。
「きみは本当に嘘が下手くそだね、ヴォーティガーン」
わたしの言葉は間違っている。
彼は嘘などつかなかった。ただ、言わなかっただけで。事実にならないから、言えなかっただけで。
一方のわたしは、嘘ばかりついていた。言うべきことを、言うべきじゃないと割り切ってしまった。
嘘つきなのはわたしのほうだ。嘘が下手だったのは、わたしの方だ。
だから、彼の言葉を聞き届けなければ。そうしなければならないと、わたしは思うのに。
背中がひんやりと冷たい。悪寒が足元から這い上がってくる。間に合わないかもしれない、また駄目かもしれない、そんな予感が頭をよぎった。
だけど引けなかった。わたしは、わたしが間違ってしまった選択を償うためにここにいる。口づけなんかでは到底及ばない、彼の後悔を看取るために。
―――処理しきれなかった彼の感情を、彼自身の手で吐き捨ててしまえるように。
―――その手から取りこぼしてしまった結末を、彼がずっと呪い続けられるように。
わたしはそう願っているのだ。
「言ってしまえばいいんだよ、わたしはきっと忘れてしまうから」
物語を愛した彼が、わたしの乱暴な結末を呪っていた。
空蝉が、頭の中で鳴り響いている。
ヴォーティガーン、とわたしが口を開こうとしたとき、ヴォーティガーンは涙で濡れた頬を左手の甲で拭いながら口蓋を切って落とした。
「————————……!!」
本当に残念でたまらないのだが、彼が何を言ったのか思い出せなくなってしまったのだ。確かに受け取ったはずの言葉を、脳みそに染み込ませたはずの声を、もう手に取って抱き締めることができない。やっぱり、忘れてしまった。
「………。」
あまりにも脆くて、虚実の言葉だった。
そんな彼の誠意に応えるすべをわたしは知らなかった。その事実を言葉にしたくて辞めた。
口にしてしまいたい衝動がわたしを揺れ動かすから、なけなしの理性でそれを押しとどめた。雪崩のように崩れてしまいそうな「わたし」を必死で維持しようとする。
彼が切望したわたしと、わたしらしいわたし。どちらがより誠実で真実で、紛い物なのか、わたしにはまだわからない。だから、答えられない。
そうしているうちに、空蝉はどんどん近くなる。耳元でざわざわと血液が騒いでいる。
何も言えないわたしは…、結局彼のようには出来なかったわたしは、「諦めようか」と思う。
最後まで返答しなければ、いつか彼がこの夢から抜け出せるような気がするのだ。しかし、『いつか』では困るのも間違いない。『いつか』わたしは意味を見失って、彼もまた疲弊し摩耗し、ただ単に夢を見るだけの装置に成り果てるかもしれない。そうなれば今度こそわたしは自分を許せないだろう。
――やっぱり、口にするべきだ。
もう空蝉の音は聞こえない。彼の銀鼠も、セレストもその輪郭が歪んでぼやけて、もうすぐわたしは目覚めてしまう。
きっと言葉は届かない。
最期もきっと訪れない。
だからせめて、きみがあの奈落の底へ辿り着けるように。
「あなたがどれほど願おうとも、もう二度と、わたしがあなたに出会うことはないでしょう」――
わたしは一つの呪いを解くのだ。