福浦和也の引退について、思うこと

この文章を書いている日から3日前の記事だが、今期限りでの現役引退を表明している「幕張の安打製造機」こと福浦和也の引退試合のチケットが、申し込み多数による混乱を避けるため抽選制となる、と言う記事を目にした。

福浦は、言うまでもなくマリーンズファンだけでなく千葉の野球ファンにとっては印象深い選手の一人だ。習志野生まれ、市立習志野高校出身、プロ入り後は地元球団それも川崎から移転してきて間もないロッテに入団し、ボビー・バレンタイン監督時代の主力の一人として活躍。現役生活25年目の2018年には2000本安打を達成した。その野球人生のすべてを千葉で過ごした彼の現役生活はけして平坦なものではなかったが、度々の不調を乗り越えてなお、マリーンズ一筋で活躍し続ける彼をファンはいつしか「千葉の誇り」と呼ぶようになった。

私は千葉県出身で、今年26歳になる。奇しくも福浦が地元・千葉でプロ野球選手としてのキャリアをスタートさせたのと同じ年、私はこの世に生を受けた。

私は今でこそプロ・アマ問わず野球の観戦を密かな趣味の一つにしていて、昨年の福浦の2000本安打達成についても球場で直接目にこそしなかったものの、昨年「FUKU-MATER」が点灯しているZOZOマリンスタジアムに観戦に行ったときなどは、「この試合で一本でも多くヒットを出してくれ!!」などと切実に願い、2000本安打達成の瞬間をTwitterで目にしたときなどはスマホ片手に小躍りして喜んだものだが、子どものころはそうロッテに興味があるわけではなかった。

弟が小学校時代に一時期地元のソフトボールチームに入っていて、キャッチボールなどで遊んでいたこと、当時コロコロコミックで連載していた『ゴーゴー!ゴジラッ!!マツイくん』がめちゃめちゃ好きだったことから、プロ野球中継自体は好きだったが、千葉テレビ以外でやっている野球中継は巨人戦ばかりで、私の父などもそう野球に興味があるわけではないのにも関わらず「大体ロッテは川崎の球団だし、正直巨人戦より興味がない(暴言)」と言ってはばからず、けして千葉テレビのマリーンズナイターを見ようとはしなかった。同級生の野球少年ですら、そういった地元のロッテのなじみの無さぶりからか圧倒的に巨人ファンが多く、口を開けば「松井、清原、桑田、高橋、上原、阿部」などといった巨人の選手の話題ばかりしていた。

そのような風潮に転機が訪れたのが、今でもロッテファンの間で語り継がれる「2005年のロッテの日本一」だった。当時私は中学1年だったが、小6まで「阿部慎之介が~」と言っていた野球少年たちが口々に「成瀬、里崎、西岡、福浦」などといったロッテの選手を話題にし始め、ミーハーな女子たちもこぞってロッテグッズを身につけるようになっていった。当時、学校に全く馴染めずどうしようもない「陰キャ」として日々学校生活を軒下のナメクジのようにして過ごしていた私は、このあまりに突然の変化についていけず、混乱した。そうして家族とのチャンネル争いをどうにかこうにか避けて見ることに成功したマリーンズナイターで、「ボビー・マジック」「マリンガン打線」を目の当たりにし、ようやく状況を理解するに至ったのだった。中学1年の夏ごろの話である。

その年、ロッテはあれよあれよとリーグ優勝を果たし、日本シリーズでの阪神戦を制して日本一に輝いた。このときの同級生たちの沸きようといったら半端ではなく、日本一を決めた日の翌日から皆ことあるごとに「このチームは世界でイチバンです!!」とボビーの口真似をした。地元の商店などもこの流れに乗り、ロッテ製品値引きなどを始める始末であった。2005年、千葉の田舎の町ではこうした同年代の子どもたちと住民の熱狂があって、私はそのなかで過ごした。しかし、私は相変わらず教室では「軒下のナメクジ」であって、野球は好きでありつつもこの熱狂に乗ることができずに過ごした。そうしたなかで、私は福浦と出会ったのだった。

ポプラ社から刊行されている『ナゴヤドームで待ちあわせ』という中日ドラゴンズを題材とした短編小説集の中に、太田忠司「マサが辞めたら」という短編が収録されている。若い頃に演劇を志し、和菓子職人として働きながら劇団員として活躍している男が、演劇人としての自身の活動と和菓子職人としての仕事の両立を巡って葛藤している中、中日・山本昌が自分と同い年でノーヒットノーランを達成(これは2006年のことである)したことを知り、自身をマサに準え、演劇でもう一花咲かせよう、と奮起するも、先代である父の病、自身の身体の限界など、演劇人生の引退が確実に近づいてくるのを感じていく。男は「マサが辞めるまで、俺は辞めない」と決意し、奮闘していくが、彼が「もう限界かもしれない」と思ったそのとき、山本昌が現役引退を表明する。そして、彼は演劇引退を決意し、マサの引退試合の日、最後の舞台に立つ。大まかに言えばこんなあらすじの話である。

私は福浦と同年代ではないが、先述したとおり、福浦入団の年に私は誕生した。福浦が現役引退を表明して以来、折に触れて彼の26年にわたる選手生活を振り返ってみるが、そのときにはどうしても、今年で26年目に入った私の人生を回顧せずにはいられない。

2005年、ロッテが日本一に輝いたその年、私はどうしようもなく自分の生活環境になじめず、常に茫漠として浮遊している感覚があった。それから時は流れ流れて気づけば26の年を迎えるに至ったが、ふと、「ああ、そういえばもう26年生きてるんだっけ」と自覚すると、なんとも不思議な感覚に陥ってしまう。よく野球選手などが引退のスピーチで「こんなに長く現役生活を続けられるとは思っていませんでした」などとコメントするのを目にするが、こんな感覚なのだろうか、などと思ったりする。

福浦とマリーンズのモノトーンに赤ギザのユニフォームは私の茫漠とした26年の中で数少ない象徴的な出来事である。今年9月の引退試合も、おそらく私の人生の26年目に起きた出来事として刻まれることになるだろう。ただ、「マサが辞めた」ことで演劇生活を辞めた彼と比して、私はまだ自分の人生で何かを成したとは良い難く、「福浦が辞めた」にも後も私にはその後長い人生が待っていて、それを生き続けることになることに変わりは無い。その先の何十年かをどう過ごしていくのか。私はそこで何を成すことができるのか。惜しまれつつ引退していく福浦の姿を見ていると、ふとそんな考えが沸いてくる。

記事を書いていて、そういえば、今年一度もマリンスタジアムに足を運んでいないことに気がついた。「福浦が辞めたら」の後の生き方を考えるための布石とするためにも、マリスタに行くのも悪くはない。

昨年幕張でロッテキラーとして猛威を振るったレアードが、ロッテの白黒ピンストのユニフォームに着替えてどんなことになっているかもまだ生で見ていないので、内野スタンドあたりでのんびり観戦したいものだな、と思った夏の1日だった。

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