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私は生かされている


2024年の上半期も終わり、あっという間に一年の折り返し地点。
そして下半期の幕開け。
ということで、7月から良い流れにのっている最近の私ですが、実は密かに考えていたコーチングを本格的にやっていこうと動いている最中。

なぜ私はコーチングをやろうと思ったのか? 

それは、
私の使命を果たすにはそれが一番実現可能な方法だと思ったから。

使命?
なにそれ?
誰かから与えられたの?

これが誰から与えられるでもなく、ある時自分の中に降ってきたというか、内側から出てきたというか、そんな感じで。
うまく言えないというのが正直なところ。

そして今回は、コーチングをやると決意するまでに、私の命や存在、人生について考えるきっかけをくれた経験について、自分自身のためにも振り返っていきたいなと。


実は私は人生で三度ほど、死を意識した経験があって、それらの経験を通じて自分の生きる意味や目的を考えるようになっていった。
それについて今日は話したい。


一度目、交通事故



遡ること約10年以上前、当時大学生だった私は乗っていた車(買ったばかりの新車Passo、乗ってまだ一ヶ月ほど)を大破するほどの大事故を引き起こした。
それにもかかわらず、かすり傷ひとつない私。
ついその前までは中古車(マニュアルのMOVE)を乗っていた私に、
「その車でこの事故起こしていたら死んでたよ、確実に。」と言う警察。

深夜に起きたその事故に母親が飛び起き、駆けつける。
涙一つ流さない私の横で大泣きしていた。
そして後になって母から、”その事故を起こした当日が母の母、つまり私のおばあちゃんの命日だった”ということを聞かされた。
ちなみに私はそのおばあちゃんに一度も会ったことがない。
私が生まれるずっと前に死んでしまったから。

それを聞いて鳥肌がたった。

「おばあちゃんが守ってくれたんだよ。」

そう言う母に同意せざるを得なかった。
そのとき私は初めて、”生かされている”という感覚を覚えた。

もちろん、日々親に養ってもらっている身だったのでそういう意味で生かされていることは経験していたが、何か見えないもの、存在によって生かされていると感じたのがそのとき初めての経験だった。


二度目、東日本大震災


誰もが知っているあの大地震。
当時私は震災地、仙台にいた。

実はそのときの様子を、オーストラリアへ留学中に語学学校で作文として書いたのでそれを掲載したい。

自分にとっても一生忘れ難く、命について考えさせてくれた経験を改めて自分に刻むためにも。
英文なので下に日本語訳を。
当時の拙い英語だけれど、自分なりに当時を振り返り書いた思い。

The Fukushima nuclear disaster in 2011 is a happening that no one will ever forget. It definitely made me change my mind in my life.

On 11th March, I went to Sendai city in Miyagi by bus for an employment examination in the morning. I was a student in University. In the afternoon, I arrived there and went forward to a meeting room near Sendai station. Maybe I think that the examination lasted for about two hours. After that I went to Sendai station and met my friend for lunch. She was from Sendai and was living there. When we were talking while waiting for meals, it happened. Everything shook. Everybody was quite shaken and they screamed. At that moment, I couldn’t understand what happened. A few seconds later, the staff of the restaurant said aloud “Please evacuate immediately!” so we went outside of the station. The glass, roofs, signs, and ground…everything was broken. I couldn’t believe that. I just stood by watching for a while. A few moments later, I realized that I couldn’t go home that day because the express high way was closed. It was desperate for me. I was wearing a recruit suit and I had nothing except a recruit bag. Therefore, my friend and I had no choice and had to go to a designated evacuation site. So did everybody.

In the evening, It started snowing so it was cold. There were just three small heaters in a gym of junior high school . A few gyms of schools were designated evacuation sites. People were shivering with cold and trembling with fear during the night. I couldn’t have hoped about anything. However, I found hope. The woman who was sitting next to me spoke to me and gave me her socks because I was wearing just a recruit suit and stockings. She was worried about me. I was very surprised…and moved to tears by her kindness. She came to Sendai with her son for his entrance examination so her son was wearing just a student uniform just like me. In addition, the another woman who was sitting opposite of my friend spoke to us. She was from Sendai and was living near there. She said that you could visit my house in the next morning if you wanted to.

The next morning, my friend and I went out and visited her house relying on our memory. When we arrived there, she greeted us with a smile and then she made us something to eat. A lifeline was closed. The electricity, gas and water were stopped, so she cooked by using an oilstove. It was amazing! In the past, she had been managing a Japanese restaurant so all the dishes she made were very delicious. That made us feel happy. A few hours later, my friend’s boyfriend came there to take her back to her house. In the evening, the woman’s friend came and we had dinner. He was a professor in university so he was very smart and also kind. He said “Even if we were in a hard position, don’t start feeling sad. Let’s be positive and smile.” His words saved me.

That night, he went home and we went to bed. When we were sleeping, the aftershocks happened again. She tried to wake me up but I didn’t. I chose not to wake up. I couldn’t neutralize the despair. Maybe I gave up on living my life and I was quite prepared to die at that time. Just at the moment, she said “Hey, Nana! Wake up! I don’t care myself but I have to make you alive! That’s my responsibility!”. Tears gushed from my eyes and I realized that I was wrong. I woke up and we went to an evacuation site again. We did such a life over and again. A few days later, my friend invited me to go back to Aomori in his car. He was from Aomori and was living in Sendai. I was lucky but I had mixed feelings because it would be the time to say goodbye to her. I said my farewells with smile and left.

It was definitely a happening that changed my way of thinking about living. That incident is never a good experience for everyone, but for me, it’s both good and bad because I learned a lot and deeply through this experience. After all, I thought again and strongly that I was kept alive, by something. Everything and everyone around me. I had to feel it. Also, I realized that my life was not only my own through this experience. It  made me think deeply about life and death at the same time as I felt deeply connected to others. Then I was able to think that all the experience that happened to me and all the encounter that I had make me grow up. That became my belief and a source of my life.


2011年の福島原発事故は、誰もが忘れることのできない出来事だ。それは間違いなく私の人生を大きく変えるきっかけとなった。

 3月11日、私は朝に採用試験のため宮城県仙台市にバスで向かった。私は大学生だった。午後には仙台に着き、仙台駅近くの会議室に向かった。たぶん2時間くらいだったと思う。その後仙台駅に行き、友人と昼食を共にした。彼女は仙台出身で、仙台に住んでいた。食事を待っている間、話をしていると、それは起こった。すべてが揺れた。そこにいた全員がかなり揺れて、悲鳴を上げていた。その瞬間、何が起こったのか理解できなかった。数秒後、従業員が大きな声で「すぐに避難してください!」と言ったので、私たちは駅の外に出た。ガラス、屋根、看板、地面...すべてが壊れていた。信じられなかった。私はしばらくそばで見ているだけだった。しばらくして、その日は高速道路が閉鎖されていて家に帰れないことに気づいた。私にとっては絶望的だった。私はリクルートスーツを着ていたし、リクルートバッグ以外は何も持っていなかった。そのため、友人と私は仕方なく指定された避難場所に行くことになった。みんなもそうだった。

 夕方、雪が降り始めて寒くなった。中学校の体育館には、小さなヒーターが3台あるだけだった。いくつかの学校の体育館が避難場所に指定されていた。夜中、人々は寒さに震え、恐怖に震えていた。私は何も望めなかった。しかし、希望はあった。隣に座っていた女性が話しかけてきて、リクルートスーツにストッキング一枚の私に靴下をくれたのだ。私のことを心配してくれたのだ。私はとても驚き、そして彼女の優しさに涙が出た。彼女は息子さんの受験のために彼と一緒に仙台に来ていて、息子さんは私と同じ学生服だけを着ていた。さらに、友人の向かいに座っていたもう一人の女性が話しかけてきた。彼女は仙台出身で、近くに住んでいた。翌朝、よかったら私の家に遊びに来てくださいと彼女は言う。

 翌朝、友人と私は記憶を頼りに彼女の家を訪ねた。家に着くと、彼女は笑顔で迎えてくれた。ライフラインが止まっていた。電気もガスも水道も止まっていて、彼女は石油ストーブで料理をしてくれた。驚いた。彼女は以前、小料理屋を経営していたそうで、どの料理もとてもおいしかった。私たちは幸せを感じた。数時間後、友人の彼氏がやってきて、彼女を家に連れて帰った。夕方、その女性の友人が来て夕食を共にした。彼は大学の教授で、頭とても良く、親切だった。たとえ私たちがつらい立場にいたとしても、「たとえ私たちがどんなにつらい状況にいたとしても悲しむのはやめよう。前向きに、笑顔でいよう。」その彼の言葉に、私は彼の言葉に救われた。

 その夜、彼は家に帰り、私たちはベッドに入った。寝ていると、また余震が起きた。彼女は私を起こそうとしたが、私は起きなかった。起きないことを選んだ。絶望を消し去ることができなかった。生きることを諦め、死を覚悟していたのかもしれない。その時、「ねえ、なな!起きて!私は自分のことはどうでもいいけど、あなたを生かさなくちゃいけない!それが私の責任よ!」。私は目から涙があふれ、自分が間違っていたことに気づいた。目が覚めて、また避難所へ。そんな生活を何度も繰り返した。数日後、友人に誘われ、彼の車で青森に帰ることに。彼は青森出身で仙台に住んでいた。ラッキーなことだが、それは彼女との別れのときでもあり、複雑な心境だった。笑顔で別れを告げ、その場を後にした。

それは間違いなく、私の生き方に対する考え方を変える出来事だった。あの出来事は誰にとっても決して良い経験ではないが、私にとっては、この経験を通して多くのことを深く学んだので、良くも悪くもある。結局のところ、私は何かに生かされているのだと改めて強く思った。周りのすべてのもの、すべての人に。それを感時ざるを得なかった。また、この経験を通して、自分の人生、そして命は自分だけのものではないことに気づいた。他者との深いつながりを感じると同時に、生と死について深く考えさせられた。そして自分に起こったすべての経験、すべての出会いが自分を成長させてくれるのだと考えることができた。それが私の信念となり、生きる源となった。


”起こることすべてに意味がある”

私の大切にしている信念のうちの一つがここで確立された。

そして同時に、
”何があっても大丈夫”
”なんとかなる”

という言葉もただの励ましや自分を奮い立たせる言葉としてではなく、この出来事をきっかけに真実として自分の中に刻まれていくようになっていった。だからこそ、どんな経験からも学び、感謝をし、自分や周りを信頼できるようになっていった。


そして三度目、留学での挫折と最愛の人との別れ

ここでは物理的、身体的な死を意識したのではなく、まるでこころが死んでしまったかのような経験。

念願の海外留学、ずっと思い描いていたバリスタとして働く夢を達成させるどころか、海外生活の想像以上のつらさ。生まれて初めての愛を経験するも、愛する過程で自分自身を見失ってしまった苦しさ。最愛の人との未来を望んでいたにもかかわらず、決断せざるをえなかった別れ。帰国後、遠距離恋愛中の突然の別れ。

こんなにもつらく、痛みを感じるくらいなら死んでしまった方が楽。
けれどもその一歩が踏み込めず、勇気も覚悟もない弱さと、ただただこの世からいなくなってしまいたい気持ちが葛藤していた。

死ねないのならば、生きるしかない。
生きるという選択肢しかなかった私がどうやって今後生きていこうかと方向転換したときでもあった。

実はそのとき、支えてくれたのが母だった。
以前のブログに詳細を綴っているが当時、オーストラリアと日本で遠距離中だった私たちは電話一本でお別れをした。
悲しみを受け止めきれなかった私は、当時実家で一緒に住んでいた母に別れを報告。
ただただ泣きじゃくる私。
言葉も出てこず、”別れた”という事実しかまともに伝えられなかった。
母は何も言わず、そして聞かずに、ただただあたたかい言葉をかけ続けてくれた。

そんな無償の愛をくれる母へ、二言目に発した私の言葉は”この世からいなくなりたい”だった。

そんな私に母はこう言った。
「ななが死んだら悲しむ人いっぱいいるよ。私も、アン(愛犬)も。ななを失ってしまう人たちのことを考えて。その人たちのため、アンのために生きて。生きているだけで、それで充分だから。」

生きる希望を失っていた私はその言葉で救われた。自分は生きているだけでいいのか、価値があるのか。
それまでずっと”自分には存在価値がない”
そう思っていた私が初めて、自分の存在をほんの少しでも価値あるものとして思えた瞬間だったのかもしれない。
少なくとも親という存在があって、母が自分をありのままに受け止めてくれたと感じられたその瞬間が私にとって救いだった。

このときからさらに、自分が人に与える影響や自分という存在について深く考えるようになっていった。

きっかけをくれた母にも、そして家に帰るといつも駆け寄ってくるアンにも感謝しかなかった。いつも無条件の愛をくれる存在に、私はこれまで何度救われてきたのだろう。
心の底から、感謝しかない。
ありがとう。


こうして、身体的にも精神的にも死を意識せざるをえなかったこれらの経験が、それぞれに異なる大切なことを私に教えてくれた。
何か目に見えないものや人との繋がりによって私は生かされているということ、自分の命の尊さ、そしてここに存在する意味。

これらすべての経験を通して、なんだか、”あなたはこの世で生きなければいけない存在。生きて何かをしなければいけない。”と言われているような気がした。

そして同時に私の中でも、こんなにも”自分は助けられ、生かされている”と感じたことによって”誰かのために何かをしたい、助けになりたい”という想いが強くなっていった。

ーでも一体、私に何ができるんだろう?


これまでの人生、人との関わり合いの中で多くの人に助けてもらい、たくさんの学びを得て成長させてもらってきた私。だからこそ誰かにそれを返したい、自分が周りにそうしてもらったように、関わる人すべてに何かプラスの影響を与えたい。これは常に持ち続けてきた思いだった。
そんな思いが漠然とあったけれど、どうすればいいのかがわからない状態。

そりゃそうだ。
自分の存在ってー・・・
ということにずっと長い間口を閉ざし、向き合うことすらしていなかった私。まずは自分自身をよく理解しなければいけなかった。

小さい頃から物事の本質を見る癖がある私だったけれど、いつも見ていたのは他人や周りの出来事で、自分自身を深くみようとしていなかったことにも気付く。
本当に、これらの経験がもたらしてくれた気づきや学びは私にとってとても重要なものだった。

そして自分自身を省みることによって、自分を深く理解することによって、生きる意味も、目的も、そして自分はどうありたいのかも見えてくることを、後に知ることとなる。





このとき気付けなかった私の使命に、やがて気付くようになる過程を次回以降綴っていけたらと思います。


そして最後に、貴重なお時間を割いてこんなにも長い文章を読んでくださって本当にありがとうございます。私の経験が誰かの励みになるとしたら、それ以上に嬉しいことはないです。ここでのご縁も、どんなご縁も大切に。



あなたはありのままで充分、素晴らしい。
あなた自身もあなたの人生も、
あなた次第で如何様にも輝いていく。

絶対に、大丈夫。

あなたには望む人生を創造する力がある。
私は心の底からそう強く信じている。



With love and gratitude




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