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日本代表監督史2 パウロ・ロベルト・ファルカン監督

みなさんこんにちわ!

今回は「日本代表監督の歴史2 パウロ・ロベルト・ファルカン監督」というお話です。
ドーハの悲劇でアメリカワールドカップの出場を逃した日本。
テレビ東京系で中継されたイラク戦は、深夜22時からの放送にもかかわらずテレビ視聴率48.1%を記録しました。出場を逃しはしたものの、初の外国人監督で得たものは想像以上に大きかったんですよね。
今回は、オフト監督の次に日本代表監督となったファルカン監督についてのお話です。
もしかしたら、今後の日本代表が向かうべき方向がみえるかもしれません。


①ファルカン監督の基本データ

・本名: パウロ・ロベルト・ファルカン
・生年月日: 1953年10月16日
・国籍: ブラジル
・日本代表就任時期: 1994年 - 1994年10月

・選手時代のポジション:ミッドフィールダー(MF)
・選手経歴
 〔代表チーム〕
  ・1976-1986 ブラジル代表 (36試合9得点)
 〔クラブチーム〕
  ・1972-1980 インテルナシオナル (ブラジル) 158試合22得点
  ・1980-1985 ASローマ (イタリア) 107試合22得点
  ・1985-1986 サンパウロ (ブラジル) 10試合0得点

・監督経歴
 〔代表チーム〕
  ・1990-1991 ブラジル代表
  ・1994 日本代表
 〔クラブチーム〕
  ・1991-1993 クラブ・アメリカ (メキシコ)
  ・1993 インテルナシオナル (ブラジル)
  ・2011 インテルナシオナル (ブラジル)
  ・2012 バイーア (ブラジル)
  ・2015-2016 スポルチ (ブラジル)
  ・2016 インテルナシオナル (ブラジル)

うーん。すごい経歴。

②ファルカン監督になった経緯

ドーハの悲劇でアメリカワールドカップの出場を逃した日本。
出場を逃しはしたものの、オフト監督で得たものは想像以上に大きかったんですよね。
であれば、、川淵三郎強化委員長の意見通り続投で良かったんですが強化委員の意見は違っていたんです。
強化委員の1人セルジオ越後氏から『世界を目指すならW杯を経験した監督が必要』と話があり、次の監督を探すことになりました。

なんせ、日本代表はワールドカップに一度も出たこともないので、「日本ってサッカーやってるの?」って海外の人は思ってたんですよ。今じゃ考えられないですが。。日本ってそれだけ急成長を遂げた国なんです。

話をもどすと、
・元フランス代表監督のミシェル・イダルゴへ打診 →  あっさり断られる
・元ブラジル代表監督のテレ・サンターナへ打診 →  「いってもいいよ。ただし、10億円で」 (高っ!!無理)
・元ブラジル代表監督パウロ・ロベルト・ファルカンへ打診 →   「やってもいいよ」

といことでファルカン監督が誕生したんです。(簡単に書きましたが、大分大変だったようです)
ちなみに、ミシェル・イダルゴは1982年のスペインワールドカップでフランスをベスト4に導いている名将。テレ・サンターナもプラジルの黄金の中盤(ジーコ、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾ、ファルカン)を要したの時の監督で1986年メキシコワールドカップではベスト8止まりでしたが名将中の名将です。
ファルカンは監督としてよりも、選手時代の方が有名でしたね。1982-83シーズンでASローマを41年ぶりの優勝に導き、「第8代ローマ王」と言われるレジェンドプレーヤーです。ちなみにその後ASローマが優勝したのは18年後の中田英寿選手が大活躍したシーズンになります。
監督としては1990年にブラジル代表監督に就任し、カフー、マウロ・シウバなどの若い選手を召集。1991年のコパ・アメリカでは準優勝という成績をあげていました。

③日本代表の戦術とシステム

そんなファルカン監督の主なシステムはこんな感じです。

図1  キリンカップ 対オーストラリア
図2  アシックスカップ 対ガーナ
図3  アジア大会 対韓国


ドーハの悲劇を経験した最終予選のメンバーから、半分ぐらいのメンバーが入れ替りました。当時はあまりにもメンバーを替えたので、「日本のサッカーをしらなすぎ」と批判をされていましたね。
う~ん、これも代表メンバーの若返りという意味で次のワールドカップを目指すなら当たり前ですが、当時としてはそういう風潮がなかったですね。

④キリンカップ (1994年5月)

そんなファルカンジャパンは、1994年のキリンカップでオーストラリアとフランスと対戦しました。
フランスには当時有名なストライカーだったジャン・ピエール・パパンやマンチェスターユナイテッドのレジェンドのエリック・カントナ、現フランス代表監督デシャン、屈強なディフェンダー(DF)マルセル・デザイーといったトッププレイヤーが揃っていました。

ファルカン監督の戦術は、オフトのような基本と規律のある組織化されたものではなく、ブラジル流の自由を選手に与えるサッカーでした。
当時の日本はプロ化してまだ数年。まだまだ自由で、自分で考えて動くサッカーは早すぎましたね。そもそも共通認識がない。今はヨーロッパ組が多数いて、Jリーグの下部組織から育ったメンバーがサッカーの考え方のベースを持ってるので、「このときは、ここを狙うのがいいよね」とかがあります。
ブラジルではそのベースがあったので、ファルカン監督はそこを知らなかったのかもしれません。
セルジオ越後さん(サッカーのフェイント、エラシコをはじめてやり始めた人)もファルカンを推薦したわりに、面倒をみれてくれなかったようで、うまくいかなかった原因と言われていますね。
やはり日本代表は監督だけではないんです。周りのスタッフも非常に重要です。むしろ、そっちのほうが重要かもしれません。

キリンカップ成績
・1994年5月22日:日本 1-1 オーストラリア
・1994年5月29日:日本 1-4 フランス

フランスに大敗し内容が悪かったこと、選手からも反発の声が上がるなどしたため、次のアジア大会(アジアカップではないです)でベスト4以上の結果が出せなければ解任するという話しになってしまったんですよね。。


⑤広島アジア大会(1994年10月)

この選手から反発があったという話。
ファルカンは「時間が足りない」と洩らしていたようです。夏の合宿では1日に4部練習を組み、フィジカルメニューもいれていたといいます。これでは選手からも厳しい練習メニューで反発もあるでしょう。
実はうまくいかなかった本当の原因は、結果を急かせた協会側にあったんだと僕は思っています。協会側が描いたプランは、オフトを次期ワールドカップでの指揮官候補としてとっておいて、1年間ずつふたりの監督を試して、ワールドカップへ向けて最適任者を選ぶというものだったようです。
代表をそのスケジュールで進められるの??って思ってしまいますが、当時の協会もビジョンがなかったってことです。


結局アジア大会はベスト8止まりに終わりました。大会前にベスト4以上の結果を残さなければ解任という話になってたらしく、ファルカン監督は解任となりました。

アジア大会成績
・1994年10月3日:日本 1-1 アラブ首長国連邦
・1994年10月5日:日本 1-1 カタール
・1994年10月9日:日本 5-0 ミャンマー
・1994年10月11日:日本 2-3 韓国(準々決勝)


⑥ファルカン監督が残したもの

ファルカン監督は7ヶ月という短命に終わりました。あまりに短命だったので、「元ブラジル代表監督経験者が日本代表監督をしていた」という事実を知らない方も多いでしょう。

ファルカンはブラジル代表監督時代に若い選手へチャンスを与える監督でした。カフーやマウロ・シウバがそうなんですが、その後2人とも成長しワールドカップの優勝に貢献しています。
同じく日本代表では前園真聖、小倉隆史、岩本輝雄が代表に呼ばれて成長していますね。
選手を見る目は確かだってことです。

ファルカン監督は選手時代、最近でいうバルセロナのシャビ、イニエスタ、ブスケス、メッシとかの黄金の中盤に匹敵する、ブラジル代表の「黄金のカルテット」の1人です。
「黄金のカルテット」はジーコ、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾ、ファルカンの4人なんですが、特にファルカンは戦術眼に優れていて名監督になると言われていました。

結果そうなっていないところが監督業の難しさです。それは周りの人物の影響をかなり受けるからです。スタッフみんなが同じビジョンを持ってることが大事なポイントです。。

■PS
ファルカンジャパンの話は日本代表監督の話をした時なかなか話題にでできません。ホントに。
サッカークイズにいいかもしれませんが、もっと「何が悪かったか」を振り返ったほうがいいかもしれません。
では、また!

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