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原子心理学実験レポート005:VR石英の瞳


星の守護者

 マグネトロンを応用した強烈なマイクロ波によって人の頭を錯乱させる電磁波兵器は各国の秘密裏の協定によって“核”の暗号で呼ばれ、製造・使用・研究を禁じられた。が、中東の紛争地域でその使用の形跡が認められ、不可解な事件が多発していることから流出が疑われ、CIAのエージェントとして活動していた彼は、同じく軍事訓練を受けていた数名の部下とともに調査部隊として現地に送り込まれる。
 上司の命令によって軍事訓練の傍ら医学書に埋もれMITで量子物理学を修めたエリートである彼は、空爆を避けモスクに避難している女子供、老人たちが突然錯乱し互いにナイフや銃を向ける現場に何度も遭遇してきた。そして兵器の射程範囲に入り、攻撃を受け、同士討ちを始める部下……いつ自分の受け取っている情報が、世界が狂って錯乱するかわからない、そんな状況でも常に部下を励まし闘いつづけた。しかしいくら密輸ルートを叩いても事件は収束の気配を見せない。
「俺は誰だろうと一瞬で苦しませずに殺せる。ジム、アームチェアでのうのうとしているお前が想像もできないような汚いこともやってきた。下らない能書きはいいんだ、正確な情報と指示をくれ」

 そのうち、電磁波兵器の指示の発信源が本国にあるらしいこと、密輸組織の人間が残した通信記録、収集した様々な形跡から、彼はCIAそのものが兵器を流出させているのではないかと疑いはじめた。そして命令を中断させて本国に帰還する。MIT時代から犬猿の仲であり今は直接の上司として指示を出していたジムと直接対峙、問い詰められたジムは白状する。
「僕らはラジエルの樹(シミュレート用のスパコン)で未来を見たんだ……あれが流出し、世界が大混乱に陥る未来をね。どんなに徹底的に管理しても誰か一人の不用意な好奇心や悪意で破滅は訪れる。だから起こりうる経過を全て知るために箱庭の中で実測データを集めなければならない。あの地の誰を犠牲にしようとも。……これが僕らの正義なんだ、君は理解しなくてもね」
「……ふざけるなよ、それで俺が反乱を起こす可能性も測ってたってわけか? 俺はお前たちには従わない。今まで実際に闘ってきたのは俺だ、お前じゃない」

 そして彼は紛争地域に戻り、改宗して今まで救ってきた女たちを娶り、アラーに祝福されたムジャヒディンとして闘いつづけ、苦しみに喘ぐ第三世界の人々とともに歩むことを選んだ。

     *

 ――去にし幼き夏の日、戦火の地にあって友と談笑するいつかの自分、取り戻せない、懐かしい、鈍く差すような痛み。目が覚めて誰もいないことに気付く夢見の悪さに目を覆うのと、この錆びたコンパスを失ってしまうのと、私にとってはどちらがマシだろうか?
 面影をはかなむ心をあざ笑い、季節はめぐりつづけた。乾いた空に手を伸ばせば、夜よ、今はその果てを知らない暗さがこの胸に棲む星たちをざわつかせる。透徹した視界とどこまでも落ちていくような目眩に冬の訪れよりも一足はやく降りた霜は心を震わせ、それはいつか私の身体が塵に還るとき、墓標の前へ置き去りにしてきた私の魂もまたあの人の許へ帰るのだということをどうしようもなく思い起こさせる。月のない朔の夜。眠りに落ちた間も星は運ばれ、その相の差が、失われた時のそう短くはないことを教えていた。

 炎が呼ぶ。彼らが近いことを警告している。脳裏に術式をちらつかせながら、後ろ手に体重を預け、やおら腰から立ち上がる。胸の奥に意識を延ばし、そびえ立つ暗い水晶の鏡に手を触れて、広がる波紋の向こうに“従者”の姿を求めた。銀の鱗におおわれた流線形の体躯の内に、瞬きもせぬ星の座を住まわせた龍。闇の色と同化する腹部の、どこまでも澄み渡る銀漢の間から、瞳を模した対の金星が私を覗き込む。

「銀漢――おまえには何が見える?」

 再生されていく世界の記憶。灰色の摩天楼の幻影。地を擦り砂塵を舞わせてコートの裾を払う風の中に、人々のざわめきと、ぬるく血錆びた臭気が混じった。星の光を欺くきらびやかな人工灯に飾られた街と、黒煙にいぶされ朱くただれた空が、先刻まで立っていたむき出しの原野を背景の奥に退かせる。見渡す限り車も人もすべてが進めの色になった信号機、意味不明の文字を垂れ流す電光掲示板、交通管制が完全に麻痺した大通りで、玉突き事故を起こした車のそばに立って言い争いをし、あるいは血まみれになったまま応急処置すらされずに放置され、あるいはつながらない電話に苛立つ人々。

(ああ、これは――これはまだ“最後の日”じゃない)

 量子転送技術が医学に精通したテロリストの手に落ち、原理的に自然死と見分けがつかない暗殺が横行する前。軍や医療現場に浸透した人間とそっくりの生体素材に搭載された人工知能へのハッキング、声帯や虹彩や指紋に至るまで個人をコピーした機械とその本人のすり替えが問題になっていた頃。めんどくさいからといってありもしない財政問題を建前にしてさんざ予算を削りセキュリティ面を整える人間を育てなかったツケだ、それはそれとしても脳神経回路の構造パターンを個人認証に使えばいい、(個人史を持っているか尋問する)チューリング・テストなんてまどろっこしいことしなくたって細胞核に遺伝子があるかないか調べればヒューマノイドと人間の区別なんて付くんだよ!と上司に食ってかかったことをふと思い出す。

 人間としての青年時代を過ごした風景を懐かしむように目を細めていると、突然ばぁんと何かが爆ぜる音がし、ガラス片とともに金属の枠がはじけ飛んでくるのを反射的にコートの裾をひるがえらせ顔を覆いながらかわす。やや遅れて右手を見ると、百貨店らしきビルの内側から溢れでた首のない全身鎧の群れが照り返しの炎も鮮やかに列をなし、槍の穂先を揃えて迫ってくる。わけのわからない怪異に人々のざわめきが混乱と悲鳴に変わるのを横目に、気の利いた趣向だ、と皮肉が口を衝いて出た。

 右手を掲げ、意識を集中し、形成した軸を握り込んだ冷たい手応えがずしりとした質量を得ると、刃が白熱した光を放ったままの赤いハルバードで踏み込みの重さに任せて右舷から薙ぎ払い、叩き割ったがらんどうが派手な音を立てて転がるより早く左足を軸にして、逆手に持ち替えた長柄の回転に正面から左弦を巻き込んで引き倒す。絶対座標固定、空間指定、原初の相。前衛が崩れ後続がもたついたその隙に展開した術式を視認できるかぎりの広範囲に走らせる。彼我の接触面から半球状に構造を素粒子レベルで解体し、生じた余剰エネルギーを吸収していく。

 ――腕を引いて、五指の先に強く込められていた力を離し、ハルバードを空間から解放する。これは、幻であって幻ではない。サーカスの猛獣ショーを見るような視線が突き刺さるのを感じながら、無造作にコートのポケットに両手を突っ込んで、話しかけられる前に脇をすり抜けて歩き去る。ぽつりぽつりと等距離に輝くオレンジの灯と広葉樹の梢が重ねられたアーチをくぐり所々タイルが欠けて差し上がった自然公園までやってきて、ベンチを探し、手を頭の後ろで組んでどかりと背をもたせた。

 ――この時自分は何をしていたか。右手で顔を覆い、苦笑とともにかぶりを振る。ラジエルの樹への不正アクセスを行い、敵国に原子力発電所の設計図を渡し、CIA長官暗殺を計画したテロの首謀者として嫌疑をかけられて裁判の準備をしていた。自分はそんな歪んだ形で正義を表わさないといくら主張しても、記録は残っている、証拠はそろっているの一点張りで、軍の施設に移送はされなかったが自宅軟禁で尋問の日々だ。
 私は囮にされたわけだが――あのまま邪魔をされずに調査をつづけられていれば、人々の記憶を封印して世界を夢の中に閉ざす、などという選択はされなかったかもしれない。量子転送技術と“核”の組み合わせは本物の悪夢だった。情報の背景を書き換えられ見ている世界の意味が変わって人々が混乱と狂気に陥る一方で、隣に立っていた人間が突然咳きこみ頭を腫れあがらせてはじけ飛ぶ。しかし、どれほどの罪を犯そうと、探し出して裁きを下すべき彼らはもういない。自らも悪夢の中に自壊していったのだ。

 長い旅だ。かつての敵も友も遠い夢の中に置き去りにし、ゴールもわからずただ生き延びるために生きるように戦いつづけ、誰のために、とも思う。見上げれば凍えるような夜の星だけがあの時と変わらず、ただ、今となっては、鋭く対立していた文明の調和点を求めて三千世界を渉猟するシックザールだけが私の由来を覚えているし、理解できるのだということを強く感じた。

「先生――あなたは今、何を見ていますか。この世界にどんな答えを出しますか」

 

獣と鳥

001:ガレリアの獣人

「このままじゃ、みんな死んでしまう! 放せ、この……」
「お前が行ったところで誰も助けられない!」
 ちっ、とトーナは舌打ちをする。今にも飛び出さんとする腕をつかんでいたのと反対の手をその白い首に回して上腕と前腕で挟んでがっちりと絞め、抵抗などお構いなしに無理矢理意識を落とす。
「くそっ……なんで俺がこんなことを」
 岩陰にぐったりとした少年をそっと横たえ、彼はここが死地だと肚を決めて敵の許へと向かった。浅い草地では死角からの不意打ちなどとれない、だから力ずくの一息で決める、と駆けるリズムに合わせて跳ねる鞘を片手で支え、逆袈裟に斬り込んだ渾身の一撃が打ち下ろしによってはじかれる。骨に響く重い衝撃とともに台地に打ち込まれた刃を抜く暇はないと判断して、倒れ伏す兵士の手からこぼれ落ちていた剣をひったくって転がる。
 落とされた白刃が耳の横をかすめ、起き上がって間合いを取りながら確認すると、さいわい柄は血で濡れておらず、手の内から滑らせる危険なしに使えそうだった。
「――築くべき現実がもはや無いと知りながら、自分たちに未来が無いと知りながら、なぜその砂上に楼閣を建てようとするのか? お前たちが持てる者であるのは偉大な過去からのけちな遺産で食いつないできたからにすぎない。誰一人として守ることなく、見向きもしなかったそれがお前たちの生命線そのものだった。どうしてその矛盾に気づかない?」
「…………」
 歌うように戯言を口にしながら、心臓を握りつぶすほどの覇気で威圧する。これは、まずいものだ。戦ってはいけない相手だ。と本能が警告する。

 惨状。死体の山から流れ出す赤い川と、むせ返る錆びた鉄の臭い。燦々と照りつける太陽が、肌のうわべに熱気を閉じ込め、いやにつめたく不快な汗が額から頬に流れる。
「リアン……どうしてあんたは、オレにだけ優しいんだ? どうしてオレにだけ生きろって言うんだ? こんなに多くのものを犠牲にしなけりゃならないっていうなら、そうでなければ生きられない命だっていうなら、だったらオレは……そんなの、いらないよ」
 それだけを言うと少女は、もうどうしようもない、という顔をして、そっと自らの胸に右手を当て、――どむ、というわずかに腹に響く音を、心臓に向かう爆撃を放った。
 ごう、と一瞬の炎が中空に昇ってすぐに消える。
 びちゃり、と人の焦げる嫌なにおいを残して倒れたその正面の、えぐれた肉から血に染まった胸骨がむき出しになっている。
「ア、――アーティ!」
 折られた左腕の激痛にかまわず、いてもたってもいられず駆け寄ると、苦しげではあるが、まだ息がある。心臓はまぬかれているようだが、傷の深さがわからないので下手に抱き起して動かすこともできず、手の出しようがない。気管に入った血のかたまりを吐いてるんだ、と気づいた。まずい、まずい――と、頭の中で警報がわめいている。
 リアンはいわく言い難い表情をしてその様子を見つめていたが、静かに首を振ると、やがて背を向け自分が築いた屍の山を後にして去っていった。

「あいつは誰の助けも求めずに、全部一人で背負い込んでカタをつけようとしていた……だから、不安なんだ」
「不安?」
 どこか苦しげに青みがかった灰色のまなざしを細めて、ベッドに横たわる少女を見つめるトーナに、シックザールが聞き返した。ごちゃごちゃと商店の雑居する街の喧騒が、部屋の中の静寂にまで伝わってくる。隣接した建物の陰にさえぎられて陽のあまり差し込まない窓枠を背に、黒い毛並みの獣人は、自分の胸の中に鋭いものを吹き込むような調子で続けた。黒マントの男は彼の方を確かめもせずに、幼さの残る、しかし今は血の気の失せている白い横顔に視線を固定させたままである。
「俺は、守れなかった」
「…………」
「あんたが来なければ、俺も、あいつも、今頃どうなっていたかわからない。あんたが何者であれ、どういうつもりで俺達を助けたんであれ、そのことは感謝しているよ」
 この冷静な男は、ひどく慎重な態度を崩さないまま、警戒とは別のためらいを言葉の間に挟んだ。けど、とまるで近づきたくても近づけない何かがあるとでもいうように、苦み走った表情にさらに混迷の険しさを深め、心の奥底を縛る激情を解く糸口を探しながら、そのことごとくを潰しているような様子であった。
「……あんたがコヨーテと知り合いだとは思わなかったが、奴らはまだリアンを追いかけるんだろうな」
 黒マントの男――シックザールは答えない。しかし、それは当然だ。彼らがこの商業都市ガレリアを、そしてまた周辺領域の都市連邦経済圏の諸国を守ろうとする限り、リアンは明らかな脅威であるからだ。これまでに数えきれないほどの人間を手にかけ、傭兵仲間だった者たちを無惨に殺し、そしてこれからも死を撒き散らし続けるだろう彼を、トーナも庇う気はない。
 あの男は、人殺しという以外に呼びようがないのだ。
 放っておけばその分だけ、必ず誰かが犠牲になる。心のどこかでその肉親に対する情を――彼の良心を信じたい気持ちがないわけではないが、やはり自分にはアーティのようにリアンを信じることはできないと思った。
「ふむ……それで、君はどうする? かつて国に誓いを立てたように、今度はこの娘を守るために誓うのか?」
「俺はもう騎士じゃない。誓いだけじゃ何も守れやしないんだ。だが――ここであいつを見捨てるのは、たまらなく後味が悪い」
 瀕死の重傷を負っていたアーティの治療の場所を提供してくれたのはこのシックザールだ。今はフードをうしろによけているその顔からは、いかなる表情も読み取ることはできない。しかしおそらくはリアンから離れたことで、自分たちが脅威の対象から除外されたか、あるいは――アーティに、リアンを倒させるつもりなのか。
 シックザールとつながるコヨーテは、王室騎士団治安維持局ガレリア分室の最高責任者だ。彼が許可したのでなければ、トーナたちは市街の門をくぐることも許されなかっただろう。以前、噴水広場での爆破炎上騒ぎを起こした連れ合いの身としては、その件を一存でにぎり潰した彼の権力をまざまざと思い知るばかりである。そして、彼に許されたということは――すなわち、利用価値があると認められたということである。
 残酷な話だ、とトーナは思った。コヨーテは信頼に値する人物だが、同時に油断のならない相手でもある。トーナにできることは限られているが、いずれにせよ今の時点でアーティから離れることは、あいつを更なる危難にさらすことに等しい。兄妹で殺し合わせることだけは絶対にさせてはならないが、己の無能を嘆いてもどうにもならないというなら、いっそこちらから協力を申し出て、わずかでも主導権を握るほかない。
 平素はニヒル、傭兵の鑑のような情のない人でなし、そう仲間内で通っていた自分がどうしてここまで怒りにも似た苛立ちを抱くのか、自分でもわからない。それ以上にどうしてその感情を自分で引き受けようという気になっているのか。いずれにせよ思惑に乗ってなるものか、とトーナは思う。
「――くそっ」
 正攻法でやって、あの男に勝てるとは思えない。
 奴がどこにいるかは分かっている。ただ、あの圧倒的な力に対してどんな策を立てればいいかわからないから、誰も無理に攻め込まないだけで。コヨーテの情報網を使えば、大陸中に仕掛けられたヒューミントの罠が、たちどころに奴の居場所を上げてくる。利害関係の深い、政権に近い人間や財界の要人を篭絡するような罠を事前に察知して、回避する――あるいは、くわだてが暗渠にあるうちに、動き出す前に闇に葬る。もともとは、そういった志向の為に仕掛けられた網だ。今回ばかりは彼らの世話にならざるを得ない。
 この借りは高くつくだろうな、とトーナは思った。
 元首が、北方のニーズズ家の分派に過ぎない出自のこの商業都市が、古王国とイェルムンレク市――二つの強国に挟まれて絶対中立を保っていられるのはなぜか。それはひとえに、条例・政策に対するスムースな予算付けが行われるよう中央銀行と国債の制度を整えたことでの強大な経済力を背景にした、精強な王室騎士団と、それ以上に安定した取引を行える法制度を守る、治安維持局(要するに暗殺も行うスパイ網)の存在があるからだという。そんなものは軍事同盟を結びたい外国を呼び込むためのプロパガンダか裏商売を隠蔽するための隠れ蓑でしかないと、実際関わり合いになるまでは右から左に聞き流していた彼も、さすがにここまでくると否が応でもこの組織の強大さというものを思い知らされる。
「――リアンは、俺の手で始末する。コヨーテにそう伝えろ」
 彼の宣言を黙って見つめるシックザールのまなざしは、深く、鋭く、どこか底意の読み切れない異様な光を湛えている。それぞれの思惑の動くその中心で、嵐の予兆の中で、炎使いの少女は眠りつづけていた。

002:エルベの使命

 つけっぱなしにしていたラジオから流れてくる放送の中で、これからハリケーンが来るというので、私は風とりに開け放していた二重ロックの窓を閉め、同居人にも部屋の窓を閉じるように言った。上陸予定の時間にはまだ早いと言われたが、とにかくこれで街が大水に襲われても部屋の中には水が入らない。このまま大人しく待っていてもいいのだが、たしかに時間が余っていたので外を巡回してこようと思った。
 街には警報が発令され、商店の立ち並ぶ通りは準備のために買い物をする人たちでごった返していた。一昔前に比べて、通信手段の発達したこの街には災害対策の設備も運用制度も整えられており、にわかに色めき立つような雰囲気はあっても、人々は割合落ち着いて行動している。この種の出来事に慣れてきた、というのもあるが、予測技術が発達して時間的な余裕があるというのが一番大きい。
 私は店を閉めようとしていた花屋に適当なブーケアレンジを見繕ってくれと注文して、非常に怪訝な顔をされながら代金を支払い、白いマーガレットにユリというシンプルな花束を包んでもらってその場を後にした。
 そろそろ頃合いか、と私は人の流れを横切って、喧騒から離れ、赤く朱に塗られた巨大な門が石敷きの段々広場を見下ろしている神社の方へと向かった。一人の少女が避難に急ぐ人々の方に目もくれずに社殿の方に歩いていくのが見えた。持っていたペンライトで合図として取り決めていた信号を送り、私は彼女に声をかけ、一緒に社殿の奥へと足を踏み入れる。両脇に朱塗りの円柱が立ち並ぶ板張りの広間を抜けて、御神体の封じられている扉へと続くルートを進む。今この時、警報を無視して外に出ているのは私と彼女だけしかいないはずだ。神主たちもすでに引き払い、敷き詰められた玉砂利に石灯籠と飛び石が案内をする、手入れの行き届いた庭先の松が見える薄暗い縁側の路から舎《やど》に上がったときも、そこに人の姿はなかった。
 ――神獣の紋の刻まれた岩扉の前に立ち、右手を当てて開錠の言葉を唱える。その奥に続く狭く細い廊下を抜けると、そこには赤い棺のベッドに横たわる少女がいた。
「具合はいかがですか」
 黒髪の幼女ともいうべき少女は二人が来ると起き上がり、すっかり馴染みになった客人として迎えて「悪くはないわ」と返す。私が以前頼まれていた花束を手渡すと、それを受け取った彼女は、ありがとう、と微笑んだ。それは訳の分からない命令だったが、彼女のことであるから何か意味があるのだろう、そう思いながら本題を切り出そうとした。
「わかっているわ――星の護り人のことでしょう?」
「はい?」
「私は、彼をどうしようかずっと迷っていたの。やりすぎたわけではない、ただ自分の使命に忠実なだけ――だから時代との齟齬が生じた、本当は齟齬ではないのだけれどもね」
「は――齟齬、ですか」
「ヴォイド卿の双子がいたでしょう、あなたが選んで片割れに渡しなさい」
 そう言って彼女は手のひらを天に向けると、その直上の中空にぼうっ、と青白い霧が集まって実体をなし、金の房が垂れる黒塗りの鞘に覆われたその曲刀をはしとつかんで差し出した。私はそれを受け取り、式にのっとり恭しく頭を垂れた。
「御意に」
「ところで、あなたに見せたいものがあるの」
 ぱん、と彼女が両手を打ち合わせると、そこは自分がつい今しがたまで立っていたはずの薄暗い洞穴の中ではなく、人ひとりが住むとは思えない、神殿のように荘厳で、だだっ広い空間だった。部屋を埋め尽くす、無数の彫像、壁画、天井画……彼女にこの部屋をどう思うかと訊ねられて、私はその芸術品の数があまりにも多すぎることを口にした。明るい光の差し込んでくる部屋の中央に配されたグランドピアノに向かう少女を私はエルベと呼んでいたが、彼女の話によればこれは全て石にされた女たちで、彼女の一族の人々なのだという。代々の当主がこの部屋を継いで、石化の呪いを解く方法を探してきたらしいが、この部屋を見渡す限り、その始まりは気の遠くなるほど、それこそ何千年もの昔からの話なのではないかと思われる。少女の背負ったものを知って、私は少しだけ、彼女の心を理解できたような気がした。
「花束のお礼、と言ったらおかしいかしら。けれどあなたには知らせておくべきだと思ったから」
「エルベの使命を、ですか?」
「いいえ――そう、そうだけれど違うのよ」
「それは私が存じてもかまわないことでしょうか」
「今は伝えようがない、けれどその時が来ればあなたはかならず気づくわ」
「……はい」
 彼女の様子に、彼女らしからぬ感情のさざ波を見て取った私は、その時あなたはどうなっているのですか、という問いをのみこんだ。

 傷が癒えるなり行方をくらませたアーティを追って、王室騎士団治安維持局イェルムンレク支局大使であるナツメは、彼女が必ず旅の終わりに訪れるであろう神獣の紋の刻まれた岩扉の前に立ち、適当な岩に腰を下ろした。前時代の遺物である、地下千メートルに六基建造された核融合発電所のひとつへ続く封印であり、――マイナス百度の世界を廻りつづける八軌道四基ずつ、すなわち三十二基の衛星にエネルギーを供給する、この世界の秩序そのもの。その開けた森の高台によじ登って、今頃あの少女はどこにいるのだろう、と思う。
 少女の行く末について考えを巡らせていると、しばらくして、来た道の方から、身の丈二メートルはゆうに超えると思われる、人の肉を食らう鬼がやってくるのが見えた。このエネルギー場に惹かれて形成された、強力な魔物である。まともに戦えば勝てるかどうかわからない。ナツメは、いちかばちか、破魔の法を使って敵が崖を登りきる前に冥府に送り返すことにした。頭を踏みつけて唵《オン》の声を唱えると、それは断末魔の叫びをあげて黒い霧へと散った。
「一体倒しただけでこのエネルギー……さすがに、炉に近いだけはあるわね」
 これ以上ここに留まるのは危険と判断し、ナツメは増援を呼び寄せようと城壁内で待機している部下のロクトールに連絡を取った。しかし、その念話が何者かによって妨害され、すり替えられる。ロクトール側は、こちらは特に問題ないというナツメからの報告を受け、「わかりました。では、こちらも引き続き調査の続行を――」と、それが彼女自身の命令であるとまったく疑っていない。なんだこれは、と思ったが、こんな方法で連絡する人間は限られているし、おそらくは声までそっくり同じなのだ。
「まずいな……」
 目を閉じ、見えないネットワークを探って黙想していたナツメは、何者かが外部から割り込んで通信を書き換えている痕跡があることに気付いた。しかしそれは、発信者である自分だからわかることであって、「衛星サーバに割り込んでいる?」下手にこちらから連絡すれば、通信記録は整合性を保ったまま誤った情報が流れるかもしれない。
「頭が痛い、案件がまた一つ増えた」
 大幅な時間のロスではあるが直接出向くしかない。そうさっさと決断を下してしまって一度岩場を降りることにした。

003:王城の守護者

「……ダメだ、回り込まれた!」
 背後の深い森に、次々と火の手があがる。何者かが放った火が乾いた風に乗り、魔の者どもを遮るかがり火の護りすらのみこんで、彼らの生きるサバドの街とステップを、緑の大地を焼き尽くそうとしていた。持ち主の手を離れて叩き落とされる熱波が大地を破砕し、黒い土をえぐる。これ以上広げてはいけない。延焼を防げるだろうか。四方から緊張した声が通り抜けるが、そのどれもが今のアーティには遠いことのように感じられた。
 ――自分にしかできないことだ。
 体が熱い。鼓動のたびに、血の巡りが異質な何かを自分の中へ運んでいくのがわかる。よく見知った人間のいない、馴染んだ地でもない、しかしおそらくは自分にしかできないことだ。
「しまっ……」
 体勢を崩した男の脇をすり抜けて、一直線に、地走りのごとく炎が駆ける。虚空より振り払われた赤熱の刃が、闇の住人を引き裂く。視界を潰され、ぎちぎちと蠢く無数の脚。
「おまえたちは、ここにいちゃいけない」
 ――このまま跡形もなく、消し炭となれ。森の捕食者をとらえた腕が、熱を増す。“それ”は苦しみにもがきながら、やがて少年の手の中で完全に命の感触を絶たれた。
「…………」
 理に従い、熱量が霧散していく――ひとつの死は、その熱量を得んとする他の死をひきつける。瞳に映る、揺れ動くこの明かりがいずれ他の敵を呼び寄せるだろう。結界の呪を張り損ね、死を覚悟したはずのアガトは目の前の光景を信じられないという面持ちで見ていた。幾条もの爪痕を残し、いまだくすぶる遺骸を横目に、アーティは“次”を求めて木々の深みへと分け入った。
 走る、走る。この夕闇の隅々まで見渡せそうなほど、思考がクリアだ。風のざわめきに乗ってくる声の位置と、気配の把握。奴らが巣を作りはじめる前に叩き潰さなければならない。炎に隊伍を分断され、散り散りになった森の暗闘の全体図を、頭の中に描く。体が軽い。疾く、疾く、息ひとつ乱さずに駆けることができる。これまで感じたことがないほどに手足の自由が利く――まるで、周囲の世界が手足の延長になったみたいに。
 ――つがえた火矢を、隊伍を組んで張り詰めた弓が、第一列、第二列、と交互に魔物どもへと撃ちつける。アーティはその彼らが向かう、目測でとらえた捕食者の影に、ありったけの熱量を叩き込んだ。ほとんど弾丸のように突っ込んできたスピードと重なって、拳の一撃は鋼の刃を通さない甲殻をあっさりとひしゃげさせ、炭化させながら鈍重な巨躯を吹き飛ばし、群がり伸びた木々の幹へと打ち据えた。
「大丈夫かっ……!?」
 ぶすぶすと白煙を上げ、昆虫類特有の複眼がかろうじて原形をとどめているがもはやそのために獲物を求めてさまようことはないだろう怪物と、言葉通り風のように現れた少年を見比べて、防人たちは目を白黒させている。

 街で延焼する可能性がある火のルートを塞ぐために一通りの破砕消火を終えると、俺の式神が戻ってこない、と合流したアガトが言う。衛星を経由する通信の妨害を避けるため複数の人間に直接魔力を分け与えていたナツメは「使い」の一人としたロクトールの魔力がその命ともども途切れようとするのを感じた。「……あ……ごめん……」それが、最後の応答。彼は何か強力な敵を追跡していて、気づかれてそれと正面から遭遇してしまい、戦いに敗れた。おそらくは。何度その名を呼んでも、もはや返事はない。
「いい、――オレが行く。あんたが出る必要はない」

 ……城の内部に足を踏み入れると、鉄錆びたような、血なまぐさい臭気が鼻を突いた。陽の光の落ちた暗闇の中で、松明の火があかあかと、あるいは壁に打ち付けられ、あるいは重なり合うようにくずおれた兵士たちの死体を照らしている。王城の守護者たち、主君を守るつわものたちは、それでもその惨禍の中心に立つただ一人の敵を防ぐことができなかった。
「やっぱり、あんたが来てたんだな」
 石畳の間に響く、高くもなく低くもない声。少年の嘆息に振り返った男は、その姿を認めて笑みを向けた。
「遅かったじゃないか。今日はもう、お前の出番はないかと思っていたぞ」
 周囲の惨状にそぐわない優しげな、しかしどこか冷たいものを潜めた笑み。その手には、兵士たちから奪ったと思しき刃。身に纏う灰色の外套は、多くの人間の血を吸って所々赤黒く変色している。先ほどまでただただ殺すだけだった男の様子に明らかな変化を見ても、かろうじて生き残った人々は圧倒的な恐怖にさらされたまま、向かい合う二人の挙動を注視することしかできない。
「まだ、殺すつもりなのか」
 少年の幼い端正な顔立ちが、わずかに不快な怒りに歪む。松明の火を映した燃えさかる炎のような双眸は、目の前の男を真っすぐ睨み据えている。
「言っただろう? それが俺だ、と」
「はっ、――冗談はやめろよ」
 話にならない、と首を振って吐き捨てる。なぜこんなことをするのか、と重ねて問う少年に「お前がこのままその道を進むというなら、理解できる時が来る」と男はいう。
「お前の助けたがるその命とやらが、影にどんな真実を潜めているのか――お前にも理解できる時が来る」
 サバドの街は奴隷貿易の中継地となっていて、王はそれを見逃していた、という酒場で聞いたゴシップを不意に思い出す。
「リアン、――オレは」
「行くがいい。お前を待つ人間がいるのだろう」
 それだけを言うと男は背を向けて、その飾り立てられたビロード越しの心臓に刃を打ち付けられて滲んだ血の跡が残る、放り出された人形のように玉座にだらんとうずもれたままの王の遺骸の脇を駆け抜け、テラスへと続く階段から古城の闇に溶け込んで消えた。生き残った兵士の誰も恐怖に凍ったまま、追うものはいなかった。

004:ツォイクニスと獣人

 俺は夢をみない。いつだったか昔、この現実こそは何より悪夢に近いと言っていたやつがいたが、そうやって目の前にある日々から逃れるだけの感傷を俺は持ち合わせていない。だからいつか命が終わるということは、死は俺にとって救いではないし、およそこの世で救いと呼ばれるあらゆるものは俺にとって救いではない。
 国とは何であるのか。それは土地ではない。土地ではあるが、土地ではない。国とは人であり、彼らの祖先が形成した道、橋、水路、建物、通信拠点網、それらの仕事を運用する法制度と運用し必要なら整備できる人間を育てるシステム、つまりはすべての資産であり、つまりは彼らを十分に養っていけるだけの領土だ。ならば、守るべきものを失った騎士は何であるのか。彼の誓いは何の為にあり、彼の剣は誰の為にあるのか。民を失った領主ほど、この世で無意味なものはない。
 いまだ燃え残りの火がくすぶる焦土と、煤けた瓦礫の原。かつては夏になれば、見渡す限りが美しい緑に覆われ、花を咲かせ、道々は人々の活気で賑わっていたというのに、骨肉相食む権力闘争に敗れ、守るべき騎士たちのことごとくが地に塗れ、領民が苦力として連れ去られた今や、すべてが枯れ果ててしまったかのように見る影もない。いつかこの場所であるいは敵であった誰かが再び人の守りと営みを築くのだとしても、もはや何の感慨もない俺の中では、確かに何かが死んだのだ。
 既に決定的なものが死んでしまった後で、それでも生きている人間がいるとすれば、それを亡霊といわずに何といおう。失われたものに対して俺が何の感慨も抱かないのは、俺という存在がもはやただの肉身を覆う殻にすぎないからだ。そこに悲しみはなく、喜びはない。今の俺は魂の核を失った獣人にすぎない。
 そして――世の中の風が変わったとして、人はその中で生き延びねばならない以上、常に何かを切り捨てることによって何かを選び、振り返ることの許されない隘路へ進まざるをえないが、その業に対する報いは必ずしも一定・等価であるとは限らない。
 少しばかり支払いが多いからといって理不尽を憤ってみても、底意地の悪いディーラーがそれで賭け金を返してくれるわけではない。だから自然と“そういうもの”なのだと思うようになっていた。明日の食い扶持を得るための賭け金が生命だとして、嘆かわしいと説教を垂れるのは僧籍にある人間の仕事であって、人の命がパンひと切れほどの価値もない戦場の中では、冷静さだけがあればいい。
 その意味では俺の生業に高尚な誇りなど必要ない。大局を操る者からすれば消耗品に過ぎないのだから、飼い慣らされない意志さえあれば、いいように使い潰されて切り捨てられることもなく生きてゆける。もはや落としどころの見えなくなった乱世の泥沼の中で(だからこそそれを生業にして生きているわけだが)、誰がどんな大義を掲げようと、渦の中にあるのは善悪ではなく生死のみである。欲望、野心、憐憫……情の揺らぎを見せたものから真っ先に裏切られる。自分はそれをしない。誰の側にもつかない。だから、トーナは冷酷と呼ばれた。

 すべての調度品が同じ色合いに統一された部屋。整いすぎてむしろ味気ないと感じるその部屋に、二人の男が立っていた。書きかけの書簡と、双頭の獅子の記章が彫られた印形、インク瓶と羽ペン入れの立った執務机を挟んで、一人は窓際に、もう一人は入り口の扉に背を持たせかけて。
「何故あいつを行かせた?」
「彼女が、君を死なせるべきではない、とそう言ったからだ」
 君では何もできずに殺されるだけだろう。無謀な賭けは君らしくないし、するべきではない。そう、彼はただ事実だけを述べた。
「だからといって、」
「トーナ」
 低く、静かな、落ち着いた声。それは、この空間にこれ以上ふさわしいものは存在しないというような。
「この街を守るのが、私の役目だ。私はそのために存在する」
 窓越しに一望できる景色は、石の街。その窓を背にした男は、見た者の瞳を捉えて離さぬような存在感を放つ冷厳な瞳は、扉を背にした男と向かい合う。どちらも互いの視線を受け止めたまま、逸らすこともせず、空気が張り詰める。
「なら、俺は俺で、いつものように勝手に動く。それでいいんだろう?」
 そう吐き捨てて、扉を背にした男は扉を開けて出ていった。わずかに置かれた沈黙の後、残された男は、留め金を外して窓を開け放つ。ばたばた、と勢いよく吹き込んできた風に、合わせた襟元があばれ、薄い色合いの金の髪を翻弄する。そのまま彼は空を仰ぐと、天頂に昇った太陽をまぶしげに見つめ、深い紅の双眸を細めた。
「そう……幸いにもまだ、時間は残されている」

     *

 どこまでも広がるステップを見下ろす台地の上を、どこまでも吹き抜けていく短い夏の風の中に、彼はたたずんでいた。神獣の紋の岩戸を守るが如く、抜き身の剣を下げたまま、静かな覇気を湛える彼に、
「あんたは戦いに来たんじゃないだろう? なら、オレに戦う理由はない」
 そう告げるアーティに、遠い時代をも見透すようなまなざしの男――ハインリヒは、ふ、と笑んで剣を収める。
「では、行こう、炎の御手よ」
 ――世界の覇権をめぐる継承の儀式へ。と彼は静かに言った。

005:決闘

 俺は、幾つもの間違いを犯しながら光の中を進む。影となって重ねられた死霊たちを引きずりながら……俺は俺の足跡を夜に染める。暗く、遠く冷たい星ばかりが導き手であった、あの頃の自分を闇の中に呼び起こす。
 俺はこの世に必要とされない人間ではなく、存在してはならない人間だった。この身が滅ぶべきであったというなら、それが正しいというなら、最も正しい選択は俺が始めから存在しないことだった。
 ……だが、それがなんだというのだ? それでも俺は生きているんだ――今、ここに。
 誰を殺しても許されるというのか? 何を壊しても許されるというのか?
 そんなはずはない、そんなはずはないさ。
 冷酷な人殺しは、いつか自分が殺してきた相手の類縁に殺される。俺の罪は、罰を以て裁かれねばならない。自分が自分の信じるものの為に戦うなら、その結末もまた受け容れねばならない。
 ――いつか俺の聖戦が、神の手によって粛清されるときがくるのだろうか?
 俺は孤独を恐れない。戦場跡に残された、無数の屍の一体になることは怖れても。もはや永遠に癒えることのない渇きを抱き、ひとり夜道を進む。

     *

 ――この魂の奥つ城では相対する両者の最も深く記憶に焼きついている風景が表れるのだと、ハインリヒが別れ際に言っていたことを思い出す。
「……ようやく来たな、アーティ」
 そこには、少年の目の前で既に二度死んだはずのリアンの姿があった。懐かしさや郷愁にふける暇すらなく、ただ晴れ渡る空、明るい陽差しの降り注ぐ下で、鮮烈な風の吹き抜ける草原だけが二人の前に広がっていた。
「リアン……どうして?」
「ここで待っていれば、そのうちお前に会えると思った。俺はもう疲れた……お前の手で葬られるなら、俺は安らかに逝ける」
「……殺されたかったから、殺した?」
 唐突に喉元まで浮かびあがる答えを愕然と呟く。男は、頷きもしないが否定もしない。鈍い刃先で臓腑をえぐられるような重苦しい冷たさが、奥底から広がっていくような気がした。
「そんな――なんで、リアン、そんな」
「お前でなければ終わらせることができなかったからさ。この星が存在する限り、死の瞬間に力をそそぎ込まれ、俺は何度でも蘇る。永久に巡る不死の地獄を断ち切れるのはお前の炎だけだった」
 ――俺は最初からすべてを知っていたんだ、アーティ。
 淡々と語る男の表情には、狂気の欠片も見当たらない。まるで懺悔をするように自分はお前を利用するために近づいたのだと告白する彼の姿から、眼を逸らすことができなかった。
「最初に出会ったとき、お前は暗い水晶の中で眠っていた。誰も訪れるもののない地下深く、幾重にも機械によって封じられた筒の中で、結晶となってな。俺は、思ったよ。そんなふうにずっと一人で、こんな暗い場所で、何千年も眠りつづけるってのはどんな気分なんだ、ってな」
「…………」
「……おたがい、少しばかり愛しすぎた。俺も、お前も。愚かな賢者が定めた未来も、筋書きも、俺はどうだっていい。随分と長いこと生きてきたが……結局、お前のいた数年が俺には一番良かったのかもな」
「……なら、もう一度やり直せばいいじゃないか。今からだって遅くはないだろ?」
 縋るような願いに、しかし彼は首を振る。
「そいつは駄目だ、アーティ。お前の兄貴でいつづけるには俺の手はあまりに汚れすぎた。世界の秩序が俺たちを許さない」
 そんなの、と右足から一歩前に進み出て距離を縮めようとするが、静かな制止の瞳を受ける。
「最後のわがままだ。お前は生きろ。もしもお前が、俺をまだ兄貴と思ってくれているなら。お前が俺を殺さなければ、今度は俺が殺した奴らがお前を殺しにくるだろう。――血で血を贖ってはならない。お前は、俺と同じ道に堕ちるな」

     *

 リアン、オレは、と言い淀む少年。
 ――どこまでも素直で、真っすぐで、お人好しのアーティ。どうせあいつには、無抵抗の人間を殺すことなんざできやしない。
 俺は右半身を引き、左足を一歩前に出して構え、何もない宙空から電離させた刀身を成して蒼くきらめく雷霆の剣を振り上げた。ぶん、と力を誇示するように切っ先を払い、そのまま斜め上方へ、遠い喉元に向かいぴたりと突きつける。
「さあ――命を賭けた決闘といこうじゃないか。今度は本気で来い。でないと、俺はお前を殺す」

     *

 悲しませるなよ、と男が一歩目を踏み込んだ。明緑色を芯とした青白い炎の輝きが鼻先まで迫る。さっと身を引き、袈裟がけの一閃をかわし、自分も腕に炎の輪をまといながら、逆袈裟、払いとつづく男の激しい連撃を防いで後方に大きく跳びすさる。
「いい動きだな。だが――甘いっ!」

 ――燃えあがる紅蓮を刃となせ。

 大上段に振りかぶる男が跳躍し一息に間合いを詰めてくる。振り下ろされた剣を、しかし膝を地に落としながらも間一髪で成された合わせ十字の刃で受け止めた。ばぢばぢ、と凄まじい熱量の火花が撒き散らされ、やがて力のかぎり徐々に男を押し上げて、そうして反発しながら膨れあがる質量に二人は互いの刃を中心として吹き飛ばされ、再び遠く対峙する形で向かい合う。
 体勢を立て直しながら、息がわずかに荒くなったのを感じる。急速に日が暮れて、星は落ち、世界は暗転する。燃えあがる野辺は暗く、夜空は深く、淡い緑の幻光が羽虫のように立ちのぼり、宙を舞い、そして消えていく。照り返すオレンジの光が地獄の底を包むように二人の姿を闇より離し、描き出す。
 少年が静かに呟いた。
「オレは、あんたが大好きだったよ。今でもな」
 二振りの、つがいの双剣。その刃先に、描くべき軌道に意識を集中する。――覚悟を決めろ、アーティ。
 腕を振るって放った炎弾が堅い地を掘り起こして火柱を上げ、熱波と共に大気を薙ぐ。その一瞬前に舞い上がり、闘いの合図をかわした男は、そのまま高みへとおどり出て足場のない虚空に歩をとりつつ朗々と呼びかけてくる。
「さあ、決着をつけよう、アーティ。ここなら誰を巻き込むこともない。お前も存分に本来の力で戦える。俺が勝つか、お前が勝つか、答えは二つに一つだ」
 その男の言が終わらぬうちに少年は彼の後を追い、地を蹴った。煌めく火の粉とともに、燃えさかる翼を背に負って。

     *

「――待て! 君ではその先には進めない!」
 宿から忽然と姿を消したアーティを追って、迷宮のように入り組んだ地下遺跡を駆け抜けたトーナは、タキシードの猫の姿をした亜人の制止を振り切って果敢に暗がりの奥へと飛び込んだ。周囲の壁から沈む深い闇が黒い獣人を呑み込んでふるえる。ちろちろと幽かにゆらめく不気味な虹の世界をくぐり抜け、魔と人との意識が混ざりあう境界面を越えた。途端に、痛みもなく全身が引き裂かれえるような得体の知れない怖気をおぼえる。
 おおおぉん、と嘆きとも呻きともつかない無数の声が傍らをすり抜けてゆく。それはもはや言葉ですらない。すべての季節を失った世界……たとえわずかでも意識の軸がぶれれば細胞ごとほどけて消えて、自分が《彼ら》になってしまう。そうなればもう二度と自分が生きていた世界に戻ることはできないことを察する。
(一番強い光を――一番強い光を、探せばいい)
 風哭きのような幽鬼たちの存在をかい潜り、残されたわずかな本能を頼りに薄闇の奥の暗闇へ、ともすれば今にも途切れてしまいそうな生命の気配を辿った。
 遠くから、ぼんやりと青白く光る何かが近づいてくる。細い糸のように見えていた姿が次第に鮮明になるより前に、それが何か恐ろしいものだということだけはわかった。肉体を失った巨大な骸骨の龍が、トーナの頭上すれすれをかすめて通り過ぎた。心臓が早鐘のように鳴っている。青白い炎に覆われた巨躯は、ゆるやかな波のようにうねりながら辺りを回遊し、やがて去っていく。
 無数の星が、虚空の海に瞬いては消えていく。誰のものとも知れない感情、痛み、思考、イメージ――そんなものが全身に流れ込んできて天地を奪おうとする。一瞬、方向感覚を掻き乱され、息に詰まる。
(ぐっ――どこにいる、アーティ)
 記憶の海と混ざり合った虚空の景色が、トーナの心を解いて導く……彼が捨てたもの、失わざるをえなかったもの、戦士の誓い、騎士の誇り。かつて生きていた場所、まだ守れるものがあった頃の自分、家族、仲間、友人――。
今ではもう取り戻せないすべての先に、炎使いの姿があった。

     *

 闇を吹き払い、あかあかと閃く炎の星が、真っすぐに尾を棚引かせながら男に迫る。銀の髪の雷帝は荒々しくさえずり猛る電圧を手のひらにまとい、投擲の体勢から解き放たれた雷柱が矢のごとくに走り、かすめゆく大気を震わせる。ゆるい曲線を描きながらそれを避け、さらに追撃として浴びせられたすれ違いざまの一刀を辛くも受け止めた少年は、すぐさま空中で後ろ回りに重心をとってブレーキをかけ、炎の羽を漆黒の夜に散らして飛び出す。
 打ち合うたびに凄まじい衝撃で腕ごともっていかれそうになるが、剣を失うことは即座に死につながる。瞬きひとつで確実に頭を割られ、肩を落とされる。そして力押しは無理でも下手に間合いをとればリーチで劣るこちらは一方的に切り刻まれるだろう。意を決する。男の斬撃の隙をついて、その懐に飛び込んで斬りつけた。脇腹からた走る鮮血を意に介さぬ激しい撃剣にタイミングを合わせ、打ち返す。するどい刃の一閃が目前をかすめる――。

 二つの星が衝突するたびに、空は激しくまたたき、無辺の闇を一瞬の光が照らす。
 あおあおと生い繁っていた緑はあたり一面焼きつくされて不毛の荒野と化し、すでにこの夢幻世界が戯れに産み出す魔物たちでさえ彼らのそばに近づこうとするものはなくなっていた。
 火花が、無数の火花が大地に降り注ぐ。
 戦いの嵐がすべてを薙ぎ払い、そうして二人は血みどろになりながら互いに不器用な言葉を交わす。すべての動作に、一撃一撃に、想いを込めて。
「あんたは自分のすべてをかけて、人間と、この世界と戦ってきたんだ。ならオレも、オレのすべてをかけてあんたの前に立たなくちゃならない――そうだろう? リアン!」
 時の経過とともに少年の気迫が増してゆく。洗練されすぎた連撃に慣れ、傷を負いながらも隙をつくタイミングを徐々につかみはじめていた少年に男のペースが譲られていき、突きを繰り出す一瞬をすり抜けて浴びせた両の抜き打ちに勝敗は決した。
 リアンは敗れ、朱く軌跡を残しながら地に落ちてゆく。強かに打ちつけられ、剣の炎が消え去ったあとも、ごろりと仰向けのまま大の字に倒れて荒い呼吸を繰り返す彼のまわりで残り火のようにぱちり、ぱちりと青い雷電がはじけている。
「本気で闘ったのに、負けちまった――」
 割れた額から流れ出した血が、水銀と同じ色合いの彼の髪を赤く染めていた。そして彼は、足元から淡い蛍火となって消えていく彼は……笑っていた。
 リアン、と降り立ったアーティは、駆け寄ろうとして躊躇って、途中で立ち止まる。そして片膝をついて、彼の前にかがむ。
「まったく、大したもんだな。さすがは俺の妹だ――でもな、お前はもうちょっと、女の子らしくしたほうがいい」
 軽口を叩くリアンに、涙が溢れ出しそうになるのをおさえながらアーティは答えた。
「……それは、兄ちゃんのせいだろ?」
「ははは、ちがいない。そうだな、悪かったよ。……だが、さすがに今度ばかりは疲れたな」
 苦しげな素振りも見せず、しかし掠れた声で応じるリアンは、ふう、と長く深い息をついた。
「アーティ、俺は少し、眠る――」
 そう言って目を閉じる彼の身体は、抱きしめようと伸ばされたアーティの手をすり抜け、完全に飛散して、やがて虚空の闇へと消えた。

006:面影

「あの人は……何が正しくて何が間違っているのかをオレに教えてくれた人なんだ。今でもオレには、あの頃のリアンが間違っていたなんて思えない」
 ぼんやりとした、夢の中の風景にも似た場所。トーナは、酒場の壁に背を凭せて腕組みをしたまま、他に誰もいない薄暗い照明のカウンター席の隅に肘をつく少年の話を黙って聞いている。
「風吹く草原を駆け抜けたあの人の剣に、人の心がこめられていなかったなんてどうしても思えない。どうして、リアンの悲しみが本物じゃないって言えるんだ? 時おり見せる寂しそうな横顔を、オレは忘れたことなんか一度もなかった」

     *

 商業都市ガレリアから東のイェルムンレクに渡る貿易商人の編隊を、列の中腹から襲ってきた火の粉たちを払ったとき、殺さなかった敵に向かってリアンは大声で呼ばわった。
「その気があるならまた来い! いつでも相手をしてやる」
 並みの盗賊であれば、二度とそれで彼のそばには寄りつかなくなった。
「しかし、どうして逃がしてやるんです? 所詮あいつらは、生計を立てるためなら何でもやる連中だ。生かしておいてもロクなことをせんでしょうに」
 路銀を稼ぐためにリアンが護衛としてついていた隊商のリーダー格が、不審に思い、そう訊ねた。はじめのうちこそ馬車の横でその成り行きを戦々兢々と見守るだけだった彼らであるが、徒党を組んだ盗賊団を散り散りにさせる圧倒的な実力差を目の当たりにして今は少々興奮気味だ。
「なに、やつらはどうせ、絶対に俺には勝てないんだ。たとえどんな手を使っても、な。なにせ俺は強い。そいつを思い知らせるには、四、五人叩っ斬りゃあ十分なのさ」
 とん、とんと剣の背で肩を叩きながら乾いた顔で自負心を披露する男に、しかし人々は嫌悪どころか頼もしさすら抱いた。治安の悪い時世が続けば用心棒というものに対してそういった態度をとる者も珍しくなくなる。彼らは、自分の命がなくなっても商売が続けられるなどという夢はみていない。街道の端に倒れる者を横目に誰もが明日は我が身であると痛感しているからこそ、強く力ある者を必要とし、その強者に憧憬のまなざしを向けるのである。
「……これでやつらも少しは懲りただろ。ま、そんなに早く諦められても、こっちはやることなくて退屈なんだがな」
 リアンは戦いを楽しんでいるが、血を流すことに良い意味でも悪い意味でもこだわりを持っていない。その点は、潔いほどに無欲であった。まるで傍らの少年に自分の戦いを見せることで生き抜くことの意味を教えようとするかのように。

     *

「誰も彼もがあんたをののしる……あの男こそが人間の敵だ、って。だけど、今でもオレには信じられないよ。あんたが本当に、何の理由もなく、こんなひどい事をするなんて。何故オレのそばを離れた? これが、こんなものが、あんたの言う力の掟なのか?」
 目の前にいるリアンは、あの頃といささかも変わりがないように思える。たとえ彼が人間とは違う異質な何かだと知ったあとでも、その想いには変わりがなかったのに。
「子供たちは、あんたを慕っていた。なぜ殺した? あの村は、あんたのおかげで立ち直ったんだ。何故壊した?! 答えろよっ、リアン……!」
 アーティはリアンに馬乗りになったままナイフを振りかぶり、悲痛に叫んだ。彼の襟元をつかんで握りしめた指先がぶるぶると震えている。そのナイフもこの男からもらったものだった。
 ――戦いの刃をどう使うべきか知っているか。
 少年はかつて兄と呼んでいた男に、生きる為の術を教わった。生きる為のすべてを。
 燃えあがる炎のはぜる音と悲鳴がこだまする中で、二人の時間だけが静止している。少年の心は、判断を下すことをためらっていた。振り下ろせないままの刃は、あかあかと映り火に照らし出されているというのに。
「それでもお前は俺を殺せない、か」
 男が皮肉っぽく笑う。
「……なあ、知ってるか? 悪魔ってのは、契約の代価としてその人間の最も貴重な宝を欲しがるんだそうだ。だが生憎と……お前には俺しかいなかった」
 猛りも興奮もまったく感じられない、哀れみを含んだ穏やかさでリアンが言う。そして唐突に上に乗っていた少年を真横に払いのけ、そのままの動作で少年もろとも彼を斬ろうとしていた男の心臓を一突きにした。
 街の衛士らしいその男は、両刃の剣を振りかぶったままの姿勢で、前のめりにどうと倒れた。リアンがそれを払いのける一瞬、恐怖に歪んだままの虚ろな瞳が、少年の目に入る。
「相手が俺じゃなかったら、今のでお前は死んでいた。教えたはずだがな……死を招くものが油断だと」
 ただ事実を述べる冷淡な言葉が、かっと熱くなるだけだった胸に刺さる。突き放したような宣告にいつかの面影はない。そしていつの間にか周りを囲まれていたことに気づいて、アーティは起き上がろうとする。
「ボウズ、早くその男から離れろ!」
 顔見知りの衛士だった。
 親切な人で、この街に来たときにいろいろと世話を焼いてくれて、今は――鋭く剣を構えたまま自分を助けようと顔を真っ赤にさせて叫んでいる。
「たしかに俺は強い。だが、お前は……その気になればいつだって、俺を殺すことができるんだぜ」
 動けずにいたアーティを差し置いて、何かを言うより早くリアンが動いた。一人、二人、三人。すっ、と影のように近づいて、目にもとまらぬ速さで刃を振るう。鉄の鎧に固められた包囲網がまるで細い糸の断ち切られるように次々と崩れていく。即座にあがる悲鳴と混乱。しかしリアンは攻撃の手を休めない。
「くそっ、滅茶苦茶だ!」
「誰か、早く援護の要請を――うわっ!」
「ちいっ、狂ってやがる」
 あっという間に仲間の大半を叩っ斬られた衛士の一人が、リアンに向かって毒づいた。負け惜しみともとれるが、その額には脂汗が浮いている。肩からだらりと垂れ下がった右腕は、四肢の根元とほとんどつながっていない。
「狂っている、か。本当にそうなら良かったんだろうがな。俺はいつだって正気だよ……いつだって、な」
 気のない素振りで応じるリアンは、言いながら、ちらりと少年の方に視線を流した。立ち直れずにいたまま、うっ、と言葉に詰まる。
「この、化け物め!」
 隙ができたと踏んだのか、それを見て背後から斬りかかった相手の剣を、しかし男はひらりとかわし、そのまま体をひねった勢いに任せて胴を横殴りに払った。吹き飛ばされた衛士は、脇腹から胸骨にかけて開いた裂傷で、倒れ伏したまま息も絶え絶えにあえいでいる。
「ぐっ、うう……」
 ぽつり、ぽつりと雨が降りはじめた。
 雲行きの怪しかった空は太陽を完全に覆い隠して、やがて本降りへと変わるだろう。埃っぽい路地裏の空気と、濃い血の臭いが、次第に混じり合っていく。煙だか雲だかわからない燃え残りのきな臭い風が、いやな冷たさを帯びはじめた。
 ああ、あの人はもう助からない……少年の心はそう思っても、身じろぎひとつできない。やめてくれ、と叫ぶ。しかし声が出ない。
 ぶ厚い鎧の裂け目から流れ出した血が、地面に赤い吹き溜まりとなって広がっていく。男の剣が、その苦しげな呻きを断ち切った。
「…………」
 残された最後の一人が、彼を激しい怒りの形相で睨み据えている。装束はボロボロで、髪は乱れ、傷もけして浅くはない。だが、死を前にしても衰えない戦意と、敵への怒りだけが衛士の足を支え、脅威に立ち向かわせていた。
「人間というのは所詮、自分のテーブルでものを考える以外に能のない連中だ。理解できないことは、どんなに重要なことだろうと切り落としてしまって見向きもしない。まるで、そんなものは始めからそこにはなかったかのように、な」
 リアンの戯言を無視して、衛士は構えをとり直した。
「お前……いったいこれまで、何人殺した? 俺は大概の悪人の面を見てきたが、こうも怖気立つような奴に出会ったのは初めてだ」
「そう思うんなら退け。どのみちお前に勝ち目はない。こんなところでわざわざ死に急ぐこともあるまい」
「いいや、そういう訳にはいかないな。お前のような奴を逃がしたら、ロクなことにならないのは目に見えてる。命に代えても、ここは通さん」
 衛士の言葉に、ふ、と静かに目を閉じて彼は微笑む。そして、敬意を表するように剣を差し向けた。
「そうだな……戦士はことごとく、みなお前のようであるべきだ」
 ――勝負は一瞬で決まった。衛士は倒れ、リアンは腰に得物を収めた。
「口を閉じて黙っていろ……誰に聞かれても、何も言うな。お前の命と引き換えにすべき時でないのなら」
 俺の心など、お前は知らなくてもいい。そう言い残し、ざあざあと地を叩く雨のうちけぶる中を彼は少年の前から去った。

007:シックザールの影

 かつて硬直しきった日本の医療界に失望し、国境なき医師団としてシリア、イラク、レバノン、スーダン、リビア、中近東や北アフリカといった激戦地を渡り歩いていた。本国の人々からはもっと安全な国に行けばいいのにと言われてきたが、私は医者だから、ただ救うべき命がそこにあるから、誰かが行かなくちゃならない場所だから私が行くんですとそういつも返していた。
 帰国するといつも穏やか過ぎる空気の中で困惑するのは、緊張感がほどけていってしまうことにだったろうか、そのことに危うさを覚える自分にだったろうか――懐かしく遠くもある故郷の人々の顔が脳裏をよぎった。

 病院代わりに借りているモスクを出ると、埃っぽい乾いた風に日差しが降り注いでいる。空爆で二階部分の鉄骨がむき出しになったビルの横を通り、カフェへ入る。
「アッサラーム・アライコム」
 街になじむために過激派のメンバーと昼食を取る。
 人手も予算も限られている中でできることをする――信頼関係とはいかずとも、不信感を抱かれては仕事ができなくなるからだ。不慣れなペルシア語を交えて簡単なコミュニケーションを、油断のならない相手だとは思いながら、彼らも生身の人間であることを感じる。
 ――ふいにフラッシュバックする最前線の復讐劇。
「仲間を戦車でひき潰したから我々はお前を同じようにする」
 砂埃で汚れたベストの肩口を両サイドからつかまれ、乱暴に引き立てられていく戦車兵によって、繰り返されるアラー・アクバルの聖句。地に投げ出され、キャタピラの進路上に頭を押し付けられた彼は――
 殺す側も殺される側も同じように同じ神に祈る。その矛盾と無力を強く感じているから私はここにいるのか。

     *

 それはどこにでもあり、そしてどこにもない。あの愚かな賢者は、この魂の奥つ城のことをそう呼んでいた。見えざる届かざる世界、と。あの男は扉を開いたにすぎぬ。それははじめから人の中に、いや、この世に存在するあらゆる生命の中に予め在ったものなのだ。ただ、誰もがそうとは気付かなかっただけで、な。
 君は、この宇宙ですら一つの生命であると考えたことはあるかな? 目覚めて生まれ、死して眠る、永久の季節をたゆたう萌芽。この地は、まさしくその生命としての宇宙を体現する鏡なのだ。神聖なる領域、数学世界、決して触れ得ざるもの、水面の向こう側――どんな名前で呼ぼうと、人がその本質までを知ることは決してない。たとえどれほど多くを手に入れ、多くを知ろうともな。あの男が足を踏み入れたのは、そういう場所だった。

 ――そして、《鍵》を手に入れたのだと彼は言う。自らをシックザールと名乗る、全身を黒ずくめのマントとフードで覆っていたその男は、静かに目を細め、鋭い眼光をさらに厳しく虚空の闇へと向けた。するとその先にかつて少年が見たこともない風変わりな、しかし高度な文明が発達していることを思わせる街並みが視界いっぱいに広がって、暗幕の空にとって代わった。
「直接には、前の時代が滅びたのはあの男が原因ではない。だが、にもかかわらず、《鍵》を手に入れてしまったからという理由だけで、すべてを自分一人だけで背負って死んだ。血は争えないということだな……あれは愚かだ。その父と同じく、研究対象に情を移して死んだのだ」
 救えない、とシックザールは苦い嘲笑を浮かべて首を振った。
「だけど、そうやって笑うあんただって今じゃこっちの世界の住人だろ? どうして?」
 少年は訊ねた。それこそ、彼の言う《研究対象》に取り込まれた証拠ではないのか。彼がこうして、人間の意識と生命をバラバラに砕いて溶かしてしまうというネットワークの中で、実体を保っていられるということが。
「その通りだよ。だから救えない。あれは死ぬ間際、とんでもないものをあちらとこちら、両岸の世界に残していったんだ。それこそ、言葉通りの冥土の土産をな」
 ――そのひとつが君だ、アーティ。シックザールは淡々と言葉をつなぐ。そこにはいかなる責めも存在せず、したがっていかなる赦しも存在しない。ただ冷厳に事実を述べる、そんな調子だった。
「あの男がどうやってそこまで辿り着いたかは知らぬ。私ですら、この世界のことを知り尽くしてはいないのだ。暗い魂の深淵から、この地で最も遠いその場所から、君という一つ星を連れ去って再び人の世界で眠りにつかせた……崩壊をまぬかれぬ歴史の混沌が終わり、目覚めるべき日が訪れるその時までな」
 ――そして世界は確実に変容した。
「あの愚かな賢者が何をしたのか、本当のところは誰も知らぬ。何を望み、何を見たのか……だが、そのために私は、御覧のとおり人間ではない何者かになってしまった。いったい、何が起こったのかもわからぬままに、な」
 少年が、何かを思いついたかのように顔を上げた。
「じゃあ、あんたもこの世界に囚われたまま死ぬことができない存在なのか?」
「いや、私は死ねないわけではない。死なないだけだ。私は、この世界の行く末を見届けなければならないからな……だから死なずにいる」
 それは自分の意志だ、とシックザールは言った。
「自分で選んだからこそ、たしかにこの世界に囚われていると言えるのかもしれんが、私はそこまで皮肉屋ではない。われら三柱、シックザール、エルベ、ツォイクニスと特別な役目を課された者たちは、宿る肉体が滅びれば、その魂も記憶も溶けてなくなる。そして、やがて現れる新たな者たちが我らを引き継ぐ。新たな我々、柱人となってな。私以外の二人もそうやって何度も代替わりを重ねてきた。――リアンは特別なのだ」
 黒マントの男は、少年が最も聞きたかったであろうことを口にした。精悍な雰囲気を漂わせるシックザールの横顔はフードの陰になってよく見えない。
「特別?」
「リアンは、星の守護者に選ばれてしまったからな。あの愚かな賢者によって……そしておそらくは、君を目覚めさせるという、その目的の為に」
 少年は沈黙した。
「自然な生命のサイクルから外れ、ただ一人彼だけは崩壊と死を経るたびにもとの魂と記憶を持って甦りつづけ、やがて歪みを免れなくなった。私も、随分と長いこと彼を見てきたが――あの男に残された最後の友人として、私は君に感謝している」
「でも……だけど、結局リアンが苦しんだのはオレのせいなんだろ? オレがいたから、そんな守護者なんかに選ばれて、だから」
 だからあんな、と少年は苦い罪悪感をにじませながら言った。しかし男は首を振る。
「君がいたから、リアンは幸せだった。あの男が生きた長い時間の中で、私が見てきた彼の中で、君が隣にいた時のリアンが最も幸福そうで、人間らしい人間だったよ。それに、苦しんだのは彼ばかりではなく、君だって同じだろう?」
「……オレのは、そんなんじゃない」
 戦乱と、とりつかれた人間から生まれる魔物たち。つかの間に訪れる平和な時代。変転してゆく世界を虚空の闇に見ながら、少年は呟いた。何も知らなかったから、理解できなかったから、苦しめただけだ。
「なるほどな。ならばせめて、あの男の最後の願いを叶えてやってくれないか」
「生きろ、と?」
「そればかりではない。彼の友人を、助けてやってくれ。私が憎みつづけた愚かな賢者を、彼は助けたがっていた……今もこの世界の牢獄に囚われている、クレアの魂を」
 ――あの愚かな賢者は自分の存在を媒介として、人の世とこの夢幻世界とを繋げたのだ。シックザールは言う。リアンは、クレアがもうこの世界のどこにもいないと思っていたよ、と。
 アーティは、はっと顔を上げて振り向く。しかしもうそこに黒マントの男の姿はなかった。八方をとりかこむ人の街の幻影も、次第にもとの虚空の闇に、天と地との区別がない、夜空の風景に戻ってゆく。
「待ってくれ! あんたは何を知っていたんだ!?」
 シックザール、とその名を呼ぶが、もはや返事はない。三柱の一人としてこの世界のネットワークを自在に操れる彼は、すでにそこを通って何処か別の場所へと移動してしまった。

008:獣と鳥

「――歩くしかないか」
 とりあえず進む。後の事はそれから考えよう。一人取り残されて途方に暮れていたアーティは、決心して足を踏み出した。何処へ行けばいいのかわからなくても、この場所でじっとしているよりはましだろう。心に空いた空虚な穴が、こんなわけの分からない目的によって埋まるわけではない。だが、今ここで立ち止まってしまうと、多分もう歩けなくなる。
 この広大な夢幻世界のどこかにいる、クレアを見つけ出す。シックザールがどうしてそのことをリアンに教えてやらなかったのか、あるいは彼自身がどうにかしようとしなかったのか、そんなことはどうだっていい。
 オレは、こんなところで倒れるわけにはいかない。リアンとの約束を、無駄にするわけには。
 オレはあがく。どれほど醜く、無様だろうと、あがいて闘う。
 気休めでもいい。今は、生きてやるんだ。

     *

「……アーティ!」
 どこからか自分を呼ぶ声に、少女が振り返った。明るい、陽の光のような髪の色と、黒に近い深紅の双眸。その瞳が映した先には、初めて見る、しかしよく見知った顔があった。
 かすかな驚きとともに、トーナ、と少女が青年の名を口にする。ややあって、青年が言った。
「行くのか?」
 少女は答えない。すべてを振り切ってしまったような、振り切れないでいるような。懐かしくて、ひどく遠い。青年は、この場で次々と浮かんでは消える言葉を、何ひとつ口にすることができなかった。
 その横顔が、どこか届かない遠い場所へ行ってしまうような気がして、叫んだ。
「俺を、置いていくな!」
 それは紛れもなく人の姿をしていた青年に、少女は優しく微笑んだ。大丈夫、オレはどこへも行ったりしないよ、と。
「生きていればまた会えるからさ……だから、そのときまで、さよならだ」
 そして少女は、闇の奥へと歩み去った。

     すべての地獄と楽園の終わりに、我らはふたたび出会うだろう
     全てがはじまった、あの緑の風吹く地平の丘で
     我は知る、汝が汝であることを
     我は紡ぐ、汝が夢の跡より、新たなるたましいの器を
     時至りて、訪れしは目醒め
     残酷な美しさに涙せよ、我らが夢の器
     お前が何より愛し、お前を何より愛したものを悼み
     別れを告げるために、お前は来たのだから


古王国/旅路の果てに

001:サンクトブルクの王国騎士

 その日の午後、群議というほどの規模ではないが、サンクトブルク城の会議室に錚々たる顔ぶれが集められていた。議題は、一通の書簡をめぐるものである。

「譲歩ですと!? 私は断固反対します! このような無茶な要求、まともに相手にする道理はありません!」
 ここぞとばかりに吠えたのは、第二師団の長であり、王国の第三王位継承権者であるドミトリー・スヴァルニコフ・シンフィエトリ。
「大体、我らはルプス族どもに坑道採掘の資金も提供しているのですよ? それを、一方的な通告のみで法外な値をつけるなど……こちらが下手に出れば、やつらを増長させるだけです!」
 無茶な要求、というのもあながち間違いではない。このたびグラン・バレーの長から書面にて通達された交易品の価格は、平均して五割弱の引き上げ。鉱石、貴金属類が主だが、中には毛皮や羊毛、干し肉、乳製品など厳冬のサンクトブルクでの生活必需品も含まれる。ドミトリーの目には亜人たちが暴利をむさぼろうとしているように映るのだろう。
「ふむ……そこまで言うからには、そなたには別の考えがあるのだな。まさか、取引の中止などというつもりはないだろうな?」
 わずかに顔をしかめながら、シンフィエトリの遠戚にあたるニーズズ家から財務大臣として出向したマルコフが問う。そこには事を荒立てたくないという言下の意思がにじみ出ていた。いくらサンクトブルクが(都市連邦のように貨幣発行権を持つ中央銀行がない金本位制であるせいで)“商人ギルドへの債務不履行”に――すなわち財政破綻に陥りかねないとはいえ、結局今の人間と亜人は経済的に依存しあっているのだ。両国間の物流が滞れば、こちらにも大きな痛手となる。
「いえ、もちろんそうではありません。私と第二師団に出撃をお命じください!」
 意気軒高と言い放ったドミトリーに鼻白むマルコフ。
「出撃だと? グラン・バレーを火の海にするつもりか?!」
「そうではなく、牽制の為にです。こちらの圧倒的武力を見せつければ、ルプス族との交渉を今よりはるかに優位に進めることができましょう」
 しかし、と第一師団の長であるアクラ・バーンズが口を開いた。騎士然とした雰囲気の、彫りの深い顔立ちの男である。
「時期が悪すぎるのではないか? ただでさえ都市連邦との情勢が不安定な今、師団を動かすのには問題があると思うが――別の意図を疑われかねん」
「いえ、この時期だからなのです。ここでルプス族に甘い顔をしようものならば、他の亜人どもにまで付け入る隙を与え、ひいては王国の不安定化につながります。その時に都市連邦が漁夫の利を得んと動かぬでしょうか?――我らは今こそ、断固たる姿勢を示すべきです!」
 ふむ、と黙るバーンズ。功名心からであるにせよ、動機がいずれのものであろうと一応は彼の言うことも正論だと思ったようだ。
「しかし、私はやはり、下手に威圧するのは賛成できませんな。話し合いの余地が残されているなら、それを優先すべきでしょう」
 と、兵部省の代表――つまりは全師団の最高責任者である将軍のライオネルが言うのだが、これがドミトリーの癇にさわった。
「手ぬるいっ!」
 と、思い切りにテーブルに拳を叩きつける。
「将軍まで……何を弱腰になっているのです! 現に彼らは、こうして呑めるはずもない条件を吹っかけてきたではありませんか!」
 まあ、たしかに何の前置きもなしに急といえば急だ。そもそも相手側の信頼を得られていないのに、融和もなにもあったものではあるまいが。
「話し合う価値などないとこちらを見くびっておるのですよ。何としてもルプス族を交渉のテーブルに引きずり出さねば、王国の威信にかかわりますぞ!」
「う、うむ……そなたの言い分ももっともであるが……」
 マルコフは言葉に詰まる。
「ですが、ここで武力を持ち出しても無意味だと思います」
 と、そこで姫君――第一王位継承権者であるユーリ・クルツコワ・シンフィエトリが初めて意見を口にした。やや緊張してはいるが、良くとおる、凛とした声。
「鉱脈の枯渇、物資自体の不足――たとえグラン・バレーを制圧したとしても、根本の問題は解決しません。ただ、ルプス族やほかの亜人たちの信用を失うだけです」
 するとドミトリーが彼女の言葉を訂正して、
「制圧ではなく、抑止です。姉上。貴女もシンフィエトリを預かる身となったばかりで気負うのは分かりますが……要は、亜人側が折れれば済む話なのですから」
 まるで無知な子供を諭すような口調と、どこか気取った、優越者の立場からの笑み。先刻までの勢いとは一変し、これだけで彼の彼女に対する態度が知れようというものだ。
「…………」
 ユーリはわずかに俯き、目を閉じて口の中で小さく何かをつぶやくと再び顔を上げ、
「交渉が目的だというなら、他にも手段は残されているでしょう。なのに何故、武力を引き合いに出す必要があるのです?」
 慎重に言葉を選んではいるが、その口調に淀みはない。彼女は真っすぐに相手を見据えている。
「第一これは、力だけでどうにかできる問題ではないはずです。今そのような手段を取れば、他の道が閉ざされてしまうのではありませんか?」
 ――物怖じしない娘だな、とレザンは思った。父上が病の床に伏せり、王位継承がほぼ正式に決まったために初めて参加した軍議であるのに、狂犬ドミトリーを相手に理路を失わず整然と語るか。
(……しかし、それだけでは)
「ユーリ・クルツコワ……我々は今、それでどうすべきか話し合っているのですよ。理想論ではなく、現実にどうすべきかをね」
 ドミトリーは冷淡に言った。しかし、と食い下がる彼女を手で遮って、
「これは、国益の問題なのです。貴女にはまだ、政治向きの話はお分かりにならないのかもしれませんが……」
「私は――!」
 ついには椅子から立ち上がりかけたユーリ姫の横で、
「なるほど、確かにその通りだ」
 唐突に、イスマーイール家から逓信副大臣および第四師団長として出向していたレザン・パラミティ・イスマーイール――つまりは自分だ――が口を開いた。
「たしかに、政治の場では常に現実的であるべきだ――我らは人間なのだから。そうですな? スヴァルニコフ・シンフィエトリ卿」
 と、水を向けてやる。しかしこちらの意図がわからないので怪訝な顔をする。そして訝しみながらも彼は、そうだ、とそぞろに頷いた。ドミトリーのこんな表情は随分と珍しいに違いない。それほど面識のある相手ではないが。
「となると、ここで騎士団を動かす必要はありませんな」
 これまた唐突な発言に、一同は面食らった。
「なっ……何を言うのです! 根拠もなしに、そんないい加減な……!」
 明らかな動揺を見せるドミトリー。
「別に、根拠がないわけではない。必要ないから必要ないというのです」
 これではまるで禅問答のようである。すると、
「ではレザン。あなたには何か、策があると?」
 宰相であるイヴァン・ウラジーミル・シンフィエトリ――ユーリの腹違いの長兄である第二王位継承権者――が静かな声で意見を求めるので、レザンはうなずいた。
「ええ。要するに彼らは自分たちの生活が苦しくなるから、取引の上で優遇してくれと言っているのでしょう? 根本的な問題は、ユーリ様が指摘した通り鉱脈資源の枯渇にあります。モノが減れば、何も対策をしなければ、いずれ物価は上がる。これは避けようがない」
「いや、しかし……」
 バーンズが疑義を呈する。
「なにも今日明日に資源が尽きるという話ではないだろう。それにしてはルプス族の要求、いささか苛烈に過ぎやしないか?」
「ですからこれは、交渉のカードと見るべきです」
 意を認めると頷いて、レザンは言った。
「そもそも向こうには、我々と本気で事を構えるつもりも、それだけの力もないのです。ならばこちらも、あくまで商売上の取引として話を進めればよろしい」
 我ながら呆れた。商売上の取引とは、とても騎士とは思えないセリフだ。皆もそういう顔をしているが、この際、他に言いようがなかったのだから仕方がない。
「ふむ……それで、そなたはどうすべきと考えるのだ?」
「はい。採掘資金の援助、および以後の取引を全面的に停止する、と伝えればよいのです」
「な、何を馬鹿な! そんなことをすれば――」
 本末転倒ではないか、とマルコフが憤激する。
「……ですから、これが交渉のカードなのですよ」
 何のリスクも負わずに実を得ることは難い。たしかにこの家老はすでに与えられた型の中での執政者としては有能な部類に入るのだが、国益の肝心な部分が絡むと途端に目が曇る、というか判断が鈍る傾向がある。ここが彼の弱点で、そのせいで問題がいろいろとややこしくなっているのだが、まあそんなことはどうでもよろしい。
「ルプス族の側にしても、このまま一次産業中心の体制を続けていくのには無理があるでしょう。しかし方策を転じようにも、そのための資金が不足している。何より我々が彼らに今の仕事と関係を求め続ける限り、不可能です」
 ――となればこちらから条件を提示し、新たな環境と体制が整うまで我々の指揮下に入ってもらう。まあそんなところでしょうか。
 ふむ、とバーンズが手の甲で頬杖をついて、
「君の言うこともわかるがね……だが、亜人の言がすべて信用できるとは思えんな。彼らがその商売とやらで融通を利かせようとして、わざわざ大げさに言い立てているだけではないのか?」
 その言葉には、わずかに亜人種への侮蔑が込められている。するとライオネル将軍が、
「たしかに、そういう側面もなきにしもあらずですが……」
 再度、とグラン・バレーの調査結果を告げる。
「二十年前の全盛期に比べて、原鉱石自体の産出量は六割程度に低下しておりますな。報告だけでは信用ならぬので、先日、私みずから当の鉱床を見に参り“帳簿”もすべて確認いたしましたが……これは掛け値のない数字でありましょう」
「ふむ……」
 頃合いはよい。レザンは皆の顔を見渡した。
「まあ、一朝一夕にどうにかできる問題ではありませんが……当面は、グラン・バレーへ優先的な穀物の援助を申し付けるべきかと」
「……馬鹿げている!」
 興奮のあまり椅子を蹴って立ち上がったドミトリー。拳を強く握りしめ、怒りに震えている。
「なぜ我々がそのような事をせねばならんのです! レザン殿、あなたはこのサンクトブルクを亜人どもの王国にするおつもりか!」
 その答えに一息間をおいて、
「いえ、そのつもりはありません。ここはサンクトブルク――人間の王国ですから。冬を越せるだけの食糧がなければそれだけでルプス族たちの間に不満が広がります。交渉を有利、かつ遅滞なく進めるには必要なことです」
「しかし、迂遠です! このような回りくどい方法をとらずとも、やつらを従わせることはできる!」
「ドミトリー・スヴァルニコフ!」
 今の言葉は騎士団として聞き捨てならないと、目に余る矯激ぶりにライオネル将軍が一喝した。ですが、と反論しかけたドミトリーの声に、隷属は、とレザンの声が重なった。
「隷属は、己の意志ひとつを表明するにも命をかけねばならない。信頼関係が断たれれば、積極的な協力などありえない。討たれる謂われ無き者が討たれれば、我々はその大義を失うでしょう。ここで不用意に軍を動かしても、亜人たちに反乱の口実を与えるだけです」
 レザンをにらみつけるドミトリーの表情が、いよいよ鬼相を帯びはじめた。
「だが……それで、一時の利益の為にそのような甘い処遇をとれば、やつらはかならず、それも際限なくつけ上がりますぞ! 我らが相手にするのはルプス族ばかりではない。いずれ他の亜人種までもが同じように要求してくるに違いない――その時貴方はどうされるというのか?」
 憎悪に満ちた瞳。ここが会議の場でなければ、抜き身で打ちかかってきてもおかしくない。
「次から次へと無理難題を受け入れていれば、それこそ我らの威信は地に落ちる! そのような寛容、過ぎれば王国そのものが瓦解しかねないというのに……いったいどうして、それを認めることができるというのです!!」
「――、」
 レザンが口を開きかけたそのとき、静かに目を閉じてそれぞれの意見に耳を傾けていたイヴァンが沈黙を破った。
「――わかりました。あくまで牽制を目的として、師団を派遣しましょう」
「そんな!」
「おお、それでは……!」
 ユーリが席を立つのと、憑きものが落ちたようにドミトリーが感嘆するのは同時だった。マルコフが動揺する。彼は先ほどまでの流れから、融和政策に話が傾くと思っていたらしい。
「い、いや……イヴァン・ウラジーミル! それは……」
「御心配には及びません、ニーズズ卿。この派遣はあくまで牽制の為であって、戦争目的ではないのですから」
 迷いを感じさせないイヴァンの口調が、反駁を許さない。ユーリは憮然として立ち尽くしている。なぜそういう結論に達するのか全く理解できないといった面持ちで、咄嗟に言葉を探すがみつからず、レザンの方を見る。しかし腕組みをして口をへの字に曲げているレザンは、黙ったままで何も言わない。
「ではライオネル将軍、出撃編成をお願いします」
「……は!」
 席を立ち、一礼する将軍。そこでユーリは我に返った。
「お待ちください、イヴァン様!……どうか今一度の熟慮を! 私にはレザン様のおっしゃられる事の方に理があると思われます。たとえどのような名で呼ぼうと、ルプス族は師団の派遣を侵略としてしか受け取りません!」
「ユーリ姫。全てを考慮したうえで、これが論決です。……あなたも、そしてレザンも、シンフィエトリの名に恥じぬよう、騎士の本分に従うよう、行動してください」
「…………」
「それが、イヴァン・ウラジーミルの判断であるならば」
 レザンは感情のない声で言いながら席を立つ。そして去り際に一礼すると、
「誰が為の騎士団であるのか、――そのことはお忘れなきよう」
 とだけ言い残して、真っ先に議場を出ていった。ユーリは少し躊躇ったのち、同じようにイヴァン――この腹違いの長兄に礼をすると、すぐさまマントを翻してあとを追った。

002:騎士団長と第一王位継承権者

 ユーリにはいったい自分が何をしようとしているのか、何をしたいと思っているのか、よく分からなかった。ただ、あのままあの場所に留まっていたくなかった。
 会議室から飛び出して、早足は自然、駆け足になる。重苦しいほど厳かな空気の満ちる静寂の中、先々に視線をさまよわせてその人の姿を探し求め、自分の足音だけが廊下の壁に反響する。ほどなくして下の階へと続く広い踊り場に出ると、ユーリは思わず息をのんだ。
 ……夕暮れの窓辺に、その人は立っていた。大きくて背の高い透明なグラスの向こうに濃いオレンジの陽射しに染まるサンクトブルクの街並があって、まるで大きな一枚の絵のように、昼と夜の入り混じる時間がその窓枠の中に切り取られている。そんな風に思う心を、どこか自分のものではないかのように見ていた。

 その場所へ降りる正面の大階段まで来て、しかし私はいったい何を言うつもりなのか? と思い直した。考えてみれば、この日初めて顔を合わせたばかりの人間なのである。少し、どうかしている。ふう、と息を吐いて呼吸をととのえた。
 レザン様、と呼びかけると、振り向いたその人は段上から降りてくる私の姿を認めて軽く微笑んだ。
「どうなされました?」
「いえ――」
 話さなければならない、話すべきことがあったはずなのに、不意に方角を見失ってしまったときのような感覚が喉元の言葉をかき乱す。そうして私が言い淀んでいると、彼は唐突に言った。
「詭弁だ、と思われますか?」
「……え?」
 意味もなく、心臓が跳ね上がる。
「いや、失礼。なんだか不服そうだなあ、と思ったもので」
「……不服です」
 嘘をついても仕方がないので正直に答える。
「レザン様は違うのですか?」
「……ははははは! なるほど、そう見えますか。いえ、不服です。この上なくね」
 全くそうとは思えない調子で言いきって、彼は、
「ですがこれが厄介なことに、理解できない訳でもない」
 視線を窓の外、夜が迫る空へと移した。
「……姫様。シンフィエトリの名は、重いですか?」
「いえ、私は」
 聞かれて即答できる問いである。が、言いかけて詰まってしまった。“私は”……何だというのか。以前なら、迷うことなく答えられたはずだ。私を縛る鉄鎖として、私を支える柱として、古王国の血を継ぐ者の責務と掟が全ての理由を与えてくれていたのだから。だが、今は?
「そうではない、そうでは、なくて」
 しばしの間があって、ふむ、とレザン様がひとつ息をついた。言葉が見つからずにいる私の沈黙を待っていてくれた。
「まあ、なんと言うべきなのか――我ら人には、おそらく宿命というか決して逃れることのできない何かがあって、我らはそれとともに生かされているのでしょうな。大なり小なり程度の差はあれ、そしてたいていの場合それに気づくことはなくとも、皆何かしらの形で関わらざるをえない」
 ――少々、意地悪な質問でしたね。申し訳ない。
 言いながら彼は、軽いお辞儀程度に頭を下げた。
「……えっ!? あ、いや、レザン様」
 えらく抽象的な前置きから入って、まさか謝られるとは思っていなかったので、私はつい反応に困り狼狽えてしまった。
「そうではないのです。シンフィエトリの継承者としての生は、そうあるべきこととして私が望んだものでもありますから――ただ、今回のイヴァン様の決定はどう考えてもおかしい」
 最初から、言質取りのようにこの会議に私が呼ばれたという時点で結びの方向性は決まっていたようなものだった。特に今のサンクトブルクが差し迫った状況にあるとも思えない。他に方策がないならいざ知らず、何故わざわざ道理に背くような真似をせねばならないのか。何故イヴァン様は、弟ドミトリーの言を受け容れたのか。まるで自ら災禍を招こうとするかのように。
「先ほど、理解できない訳でもない、とおっしゃっておられましたが……それは騎士団に属するものだからということですか? 命令である以上従わねばならない、と」
 すると彼は首を振って、逆に訊ねてきた。
「従順の為の従順、反抗の為の反抗……おそらく、どちらも無意味です。寄る辺となるものがあればこそ、是か非か、正か邪か、我らは判断を下せるのですから。姫様、騎士の本分とは何であると思います?」
「民を守り、国を守る……でしょうか?」
 自分で口にして紋切り型の答えかもしれないと思ったが、その人は鷹揚に頷いた。
「そう、守るための盾ですな。まずはそれがひとつ。そして、今ひとつの役割は、剣――活路を見出し、道を切り開くための」
「盾と、剣……」
「誇りと忠誠、と言い換えることもできますが、しかしそれも一つの要因にすぎぬのかもしれません。人の立場が、世界の半分ですらないのと同じように」

「どういう……ことです?」
 ユーリは一瞬、聞き間違えたのかと思ったのか、ぽかんと虚を突かれたような顔をした。レザンはこう言ったのだ。あの場でイヴァンが自分の言を受け入れていたとすれば、シンフィエトリという一族は滅んでいただろう、と。
「それも亜人という種の為にではなく、我ら自らの苦悩と分裂によって。果てしない対立と盲目的な追従……それは古王国の全てを巻き込んで、緩やかな、しかし確実な滅びへと向かわせるでしょう」
 大げさな身振り手振りも、ふざけた様子もない。よくある終末論者のように熱っぽい口調でもなく、彼はただ淡々と、古王国の終わりについて話した。
「人々も、我らの文化も、亜人たちを受け入れるにはあまりに未熟なのです。己と異質なものに生活の基盤を掘り崩されながらその相手を認められるほど、人の心は強くもなければ堅固でもない。違う文化と在りながら進み続けられるほどに、我らの国は巧く立ち行けるわけではない。姫様、貴女ならばお分かりになられるはずだ」
 うつむいて、ただ沈黙するユーリ。その表情にはわずかな揺らぎが見える。けして少なからぬ人々の意見を代表している弟ドミトリーの振る舞いを見ていれば分かる。イヴァンは全てを理解したうえで拒絶した、だから彼に掛け合っても無駄なのだ、と。
「でも! だからといって、こんな……」
 姫様、と呼ばれる第一王位継承者の少女は、くしゃっ、と額ごと前髪をつかむと、呻くように哭いた。もう一方の手は、血の気が失せるほど強く握りしめられて、行き場をなくしている。
「……姫様」
「はい」
「王道ばかりが、道ではないと思います」
「……はい」

003:古木の虚

 レザンが邸宅に戻ると、すでにそこには従者のマールが待っていた。
「あ、団長」
 がちゃり、とドアが開くのに気付いた彼女は、ソファから顔を上げると、レザンの姿を認めて立ち上がる。セピアに近い仄明かりに満たされた、どこか古ぼけた感のある室内。この家は玄関からすぐが応接間になっているが、奥の自室以外すべて鍵はかけずに開けっ放しにしてある。
「会議はどうでした?」
 既に他の人間から詳細な報告が入ってきているはずだが、マールはそう尋ねてきた。
「……疲れた」
 後ろ手にドアを閉めながら、レザンは自嘲気味に皮肉っぽく笑う。正直、群議というものだけはいまだに好きになれない。おそらく一生、好きになることもないのではないか。
「そうですか。でも、クラウスも、団長らしいですね、って言ってましたよ」
 レザンは革張りの、あちこちくたびれて年季の入ったソファにどっかりと腰を下ろして、いつになく饒舌になっているマールの言葉に耳を傾けていた。
 ――雰囲気が変わったな、と思う。クラウスというのはもう入団して一年にはなるが若い見習い騎士で、マールよりも三つ年下だから弟のような感覚なのかもしれない。それでも以前の彼女なら、事務的に報告することはあっても、こんなふうに熱心に他人の話をすることはなかっただろう。
 寡黙で、誰に対しても素っ気なく、人を寄せ付けないわけではないが近づけばその分丁寧な拒絶をもって押し返される。本質的には変わらないのかもしれないが、レザンと出会って間もないころのマールはマイナスの熱量というか冷たい覇気のようなものを身に纏っていた。触れると、その冷たさでこちらの手を切ってしまいそうな。青白い、全てを凍てつかせるような炎を胸に灯した少女。硬く、強く、そして脆い。青いラピスのように。
「あの頃のクラウスったら素直じゃなかったですよね。あの人本当に騎士か? なんて言って」
 騎士団の任務にあたるときは常に行動開始の十五分前に集合しているのが原則だ。しかしレザンはこの男の流儀にでもなっているのか、いつも必ず指定された刻限通りに寸分たがわずやってくるので有名だった。悪名、と言えなくもないが、クラウスは初めて陛下から仰せつかった調査任務の時、自分を推薦した騎士団長がいつまで経っても公儀に現れないので、まさか恥をかかせるために呼ばれたのか、と疑心暗鬼になってしまたらしい。
 それを聞いたレザンは「初耳だ」と言って大仰にわざとらしく腕を広げる身振りをして、
「そうか、いや、それは悪いことをしたな」
 と口では言いながら、くつくつと腹を抱えて笑っている。
「……ダメですよ、団長。あの子けっこう、神経質なんですから」
 レザンが笑ったりしたら、クラウスは顔を真っ赤にして怒り出すというのである。反省するならきちんと反省してください、と涼しい顔をしてマールはちくりと諫言した。
「……肝に銘じておこう」

 それから半時と経たないうちに、警邏組の騎士たちが館に戻ってきた。勢いよく押し開けられたドアの向こうからどやどやと人が入ってくると、その先頭にいたコートの男がレザンの顔を見るなり言う。
「おっ、大将。今日は早いお帰りで」
 がっちりとした中背で、暗色の髪を短く刈り込んだ三十代半ばの男。腰の獲物は城下の刀工の汎用品ではあるが、その大きな肉厚の刃は使うものが使えばなまじっかな剣を両断するほどの威力を誇る。砂色のコートの上から長刀を履き、博徒の親分とでも間違われそうな強面の容貌に人懐っこい笑みを乗せ、男は景気よく床板を軋ませながら歩いてくる。彼はエッダ。逓信省諜報局のグリ・カナール発足当初からのメンバーで、王国騎士としてもベテランの部類に入る。
「委細は?」
 前置きを省略してレザンは尋ねた。
「特に何も。『水の魔物』が一件出ましたが、ガセでしたね。本日は他に逮捕・連行者もなし。不気味なくらい、平和なもんです」
 まるで、嵐の前触れのようだと感じているのか。エッダは報告を続ける。
「ただ、都市連邦の方で言えば、……これもガセかわからんのですが、治安維持局の最高責任者が行方不明になったとかで、大分きな臭い感じですね」
「何?」
 ……古参の者は慣れているから、新参の者は先輩たちがそうしているから、ただ黙って彼が思考の世界より戻るのを待つ。その様子は、ある種の儀式めいた雰囲気を漂わせていた。誰もが言葉を発することなく口をつぐみ、茶色のモノトーンで統一された部屋はまるで古木の虚に立つような錯覚すらも引き起こした。時間にしておよそ二分あまり、話を中座させていた男は静かに言った。
「……俺もそろそろ、覚悟を決めねばならん時に来たらしい」
 そうして細く開かれた彼の瞳は、どこか奥の方に爛々たる光を秘めていて、まるで暗い夜の底を見透そうとしているかのようだった。
「覚悟ですか?」
 騎士の一人が訊ねる。
「そうだ。これからサンクトブルクは荒れるぞ――古王国もな。おまえらも、心の準備をしておけ。何があっても、困ることのないようにな」
 部隊に号令をかけるときと同じ部屋全体によくとおる声で言いながら、レザンはソファを離れて立ち上がった。
「大将、どちらへ?」
 出口に向かってすたすたとエッダの傍らを通り過ぎてゆくレザンは、まともに行き先を答える代わりに詩句のようなものをつぶやいた。
「――太陽の外に夜がある。太陽の中に夜がなければ、それはいかなる夜も照らさない」
「は?……なんですか、そりゃ」
「昔生きてた、さえない詩人の言葉だよ。すべて暗がりの中に棲む者は、意味の光を欲している、ってな。水の魔物なんていう訳の分からないものを相手にしている俺たちは、さしずめ、太陽の中で夜を探しているようなものだろ」
 エッダは一瞬、考えるような仕草をした。
「ふーむ……ま、無茶もほどほどにお願いしますよ」

004:グラン・バレーへの書簡

「――俺は、良いリーダーにはなれないかもしれないな」
 サンクトブルクの城を出る前、戦を前にした喧騒に沸き立つ騎士たちの間で、あの人はぽつりとそう言った。それは諦念とも絶望ともとれる言葉だったかもしれないが、わたしはそれを決意だと思った。もう、決めてしまったのだ、と。
 わたしは今、貴族の子弟や高級将校の保養地として名高いティヴォリの街から馬車の定期便を飛ばして二時間のところにあるグラン・バレーに来ている。任務を帯びた騎士としてではなく、一介の旅行者の身分で。騎士団より先に出発して昼も夜もなく走り続け、馬を潰しながらこの地方で最大のレアメタル鉱山を擁する亜人の集落にやってきたのは、もちろん観光の為ではない。
「マールさん、ちょっとよろしいですか」
「はい」
 亜人方に潜り込ませていた密偵だ。この町では夜間はわたしが歩くと変に目立ってしまうので、彼にレザンからの手紙を届けてくれるよう使いを頼んでいたのだ。
「皆が少しあなたと話をしたいと言っています――どうされますか」
「わかりました。大丈夫です、すぐに行きます」
 来た、と思った。とにかく普段通りにしていればいい。わずかに心臓に乗った動揺を鎮め、努めて表情に出さないようにして、急いで戸口から部屋の中にとって返すと、ベッドわきにかけてあった上着をひっつかみ、わたしはその亜人――ヴントさんの後を追った。先導する彼の案内で、断崖に寄り添うようにして築かれた集落の谷底へ向かって降りていく。神経を張り詰めながら歩く岩棚の淵から見下ろす闇は深い。腰のベルトに吊り下げられた剣を意識すると、しょせん気休めに過ぎないがほんの少しだけ落ち着く気がした。
「着きましたよ、こちらです」
 そう言って彼は、指し示した扉を開いた。平均的な他のルプス系亜人よりもやや繊細な、宝飾細工を生業とするというのもわかるような脂肪が少なく筋肉がわずかに乗った均整の取れた手である。――ぱっと見だがこの建物は、小さな近代工業集落といった風情のグラン・バレーで、ほぼ最下層に位置しているのではないか。渓谷の宙《そら》に張り出した床板が幾重もの庇となって月明かりをさえぎり、簡素な電灯だけがわずかな範囲の暗がりを照らす。しかしおそらく、庇がなかったとしても谷の底であるから陽が差す時間は限られているだろう。わたしが立っているこのあたりだと入射角度が30度から40度、つまり平地が180度とするとこの季節の平均日照時間が大体10時間程度だから、その二割強……太陽が真上を通過する二、三時間というところだろうか?
「マールさん?」
「あ、はい。すみません」

「さて……お嬢さん、あんたもシンフィエトリに仕える騎士であるということだが、覚悟はできておるのか? ここに書かれていることが偽りではないとすれば、あんたはこれから重大な裏切りに手を貸さねばならんことになる」
 それで本当によいのか、と怪しむというよりは念を押すような調子で白いひげをたくわえた亜人の長老がわたしに言った。――裏切り、か。いっそそんな話だったらもっと単純で済むのに。そう皮肉な思いはしたが、わたしは言葉を選びながらゆっくりと話しはじめた。
「私は、私のしていることが間違いだとは思っていませんし、レザンに従うのも彼が騎士団長だからではなく私が信頼に足ると思う人物だからです。そうでなければ私はここに来ませんでした」

 ――我らが古王国が欲するのはグラン・バレーの領土ではなく、あなた方ルプス族の精緻極まる技術力だ。あなた方は我らの内輪もめに等しいこの馬鹿げた争いに巻き込まれてはならず、また本来我らこそ、このような不名誉を歴史の汚辱とすべきではないのだと思う。しかし我が騎士団には、この決定を覆すだけの権限がないのだ。恥を承知でお願いする。どうか今は我らに降伏してほしい。今はグラン・バレーが正式な属領ではないためにこのような暴挙を許しているが、法の眼が実効支配するシンフィエトリの領土となれば野心に燃える皇太子も迂闊には手を出せない。そしてまた、私がそれを許さない。もしもの時に備え、この書簡とともに従者を一人送る。この提案が受け入れられない場合、彼女とともにイェルムンレクへ向かい、しかるべき案内人とともに現在ティヴォリに布陣する皇太子ドミトリーを拘束すべきことを進言する。

 ――要するに、正式な属領になるか、主君押し込めの手伝いをしろという話だ。
「それで……この計画には、住民のどれくらいが賛同しているのですか?」
「ここにいるわしらも含めて、ざっと二割じゃの。さすがにこれほど大事になるやもしれんとなると、みな及び腰でな。確実に協力するという意思を持つのはその二割の半数にも満たん」
「なるほど……」
 わたしは顎をひねった。長老は無勢だと感じているようだが、決してそうではない。まだ戦いが始まってもいないうちから二割?――上等ではないか。今は大半が様子見の状態だが、このままならばいずれこの少数ではあるが明確な意思が大勢を占めることになるだろう。そう、つとめて冷静に判断を下した。彼らがどんな答えを出すのか本当にはその時にならなければわからないが、レザンがどのような犠牲を払っても確実に遂行するつもりである以上、それをまざまざと見せつけられることになればその道筋に結束していくのは間違いないだろう。いずれにせよ、どんな時でもわたしはわたしの仕事をするだけだ。そう――どんな時でも。
 しばらくの間、皆それぞれの考えを巡らせているのか、場の静寂には炎のはぜる音だけが重なっていた。沈黙を破ったのは、それまで一切口を開かず、ただ部屋の隅からこちらを観察していた亜人だった。
「マールさん、といったね。君は、迷わないことが美徳だと思うかい?」
「……どういう意味でしょう?」
「いや、もしかすると、場合によっては僕らも君も、もう王国の友人には戻れないかもしれないと思ってね。騎士というのは、自分が所属する集団と主君に誓いを立てるものだと聞く。君という人は、それほど簡単に約束を反故にできる人間なのかい?」
「……よさんか。エーリッヒ」
「そうですね……確かに私は王国騎士団の人間ですが、しかし私が忠誠を誓うのはこの世でただ一人、レザン以外にはありません」
「では君は、彼に命令されれば僕たちとも戦う?」
「あの人がそんなことを命じる理由はありませんね」
「そう。でもこれは、明白な謀反だろう? たとえ直接自分の手を汚すのではないにしても、皇太子を蟄居にしたり弑したりすれば、その人は、自分が王にならない限り王国にはいられなくなってしまうだろうね」
「そうですね。彼は自分が王になるか、謀反人として流されるかのどちらかです。だから、あなたたちと戦う理由はありませんよ」
「なるほど……」
 わたしはきっと、あなたを守るためならどんなことでもできると思うんです。それでわたしの全てが失われてしまうとしても、かまわない。
 わたしはそう、誰にも届かない胸の内でつぶやいた。

005:星降る夜に/アーティとトーナ

 ――汝ら、天の主に剣を捧げ、地の民を守る盾とならば、王国の御名によりて恩寵と加護のあたえられんことを。
 そんな、どこで勲を叙されたかもぼんやりとしか思い出せない誓いの聖句が古い記憶から引きずり出されたのは、出奔してからついぞ足を踏み入れることのなかった故郷に近づき、古巣の人々と剣を交えることになるかもしれないという念からだろうか。夏の短い、そしてひとたび雪に覆われれば容易に往来もままならなくなる石造りの街並みをまぶたの裏に起こしてみる。しかしすべては今の自分にはひどく遠いということがわかるだけだった。

 本国での長老議会の決定は、都市連邦領内でシンフィエトリの皇太子が斬殺された事件をきっかけとして燃え上がった古王国側との小競り合いに何らの終着点を示さず、いたずらに戦線を拡大させていくだけのものになるだろう。敵方の物量と残余兵力を考えるなら三月も経たずに終わるという見通しは甘く、そうして両者が消耗する間に領土的野心を秘めたイェルムンレク市に脇腹を突かれて二正面作戦をやらねばならなくなる可能性が高い、という危機感は彼らの頭の中にはないのかもしれなかった。
 古王国から独立した諸侯たちが都市連邦を形成する以前から、法王庁の影響力が強い議会派と王室騎士団を擁するコヨーテ派は折り合いが悪く、特に両者の橋渡しをしていたハインリヒが行方をくらませた二年前からはもともと一枚岩ではなかった意思決定プロセスにさらに深い亀裂が走るようになった。それも大きな遠因だ。
 ふう、と両手を組んだ枕から営舎の天井を見上げたまま、ため息をつく。人間に加えて得体の知れない怪異を相手にしなければならなくなった今、国家戦略上のことに身内のプライドの争いを優先させている余裕があるのだろうか、と思う。

 深更を過ぎた頃にどうしても寝つけず、従者にも知らせずただ得物だけを携えて一人営舎を抜け出し、門を守る歩哨にわずかばかりの酒代を握らせて離れの小高い丘へと登った。それは都市連邦と古王国のちょうど境にあり、明日に出向かう街が一望できる。夏の終わりの冷たい夜気にさらされながら、岩の目立ってきた道の半ばまでを行くと、外れのほう、ふいに視界の端に捉えた人影に足をとめた。
 雲はないが、細い三日月の心もとない明かりの中、ようやく暗がりに慣れた目で正体を判じると、ああ、と息をもらす。
 闇に溶けてしまいそうな黒ずくめと対照的な光に映える金砂の髪を風にあそばせたまま、星降る夜に佇む、茫とした横顔。天を見つめてその向こうを透かそうとしているかのような、無数の瞬きのもとにざわめく草の音に立ちつくしているかのような。
 近づく気配を察したのだろう、彼女は振り返ると、

 「起きてたのか。今夜は風が気持ちいいな」

 連日連夜の詰めで溜まっているはずの疲れを見せないまま穏やかに笑んだ。
 ――表情が深くなった、と思う。その心の動きが読みとれないほど。俺は何か、それが無性に胸を締めつけられることであるような気がして、それでもその瞳が見ている世界を全て背負えないと嘆くことに意味などなくて、ただ夜露に濡れた葉を踏み分けながら「ああ」と頷いた。

 「隣、いいか」返事を待たずに彼女に並んで、浅い草地に腰をうずめる。立てた右膝に腕を預けてかがみ、墨色の天蓋につぎつぎと尾を引いては消え入るか細い光の群れを見上げた。

「お供もなしとは、不用心だな」
「おまえこそ、人のこと言えない」
「俺のお供はこいつで十分さ」
 と、軽口を叩き腰の得物を差し上げて示すと、彼女は肩をすくめながら口の端を上げて返した。

「――どうにも、寝つけなくてな」
「そうか。オレは、わりといつもかな」
 いつも? そんなことをしていたら倒れる、と思わず眉を寄せて見やると、はじめはきょとんとした顔で、しかしすぐにやりとりのズレに気づいたのであろうひらひら手を振って「ああ、違う。そうじゃなくて、生活時間帯が違うから」と少し苦笑混じりに訂正した。俺は、そういえばそうだったな、と星を追うふりをして視線を流し、ぼけた頭をごまかした。
「今は、おまえたちに合わせているけど」
 やつらは夜に動くから、と彼女の言う。

 やつら。命ある者を取り込んで、彼らが恐れ、または敵としてきた像へと実体を結ぶゴースト。ただ古い伝承やおとぎ話の中にのみ姿をとどめていた魔物が、書物の山から這い出して都市連邦と古王国とを問わず人の営む現実を荒らしまわっている。
「混沌の種子、か」
 斬りつけても打ち抜いても水のようにまとわりついて手応えがなく、ただ厳密に築かれた術式をもってのみ消滅させうる化体物。何度か対峙した今となってもやはり正体がないとしか思えないものを鎮める終わりの見えない旅路を、以前より大人びたとはいえいまだ顔立ちにあどけなさの残るこの少女が辿っている。
 俺は、自分が仕えるものと、剣の誓いのことを思う。流れ者であった自分を今の身分にまで引きあげてくれた連隊長と、同僚や部下たちの顔を浮かべる。そして今の戦いに見切りがついたら暇を乞おうかとぼんやり考えて、しかし剣の道しか取り柄がない自分では足手まといになるだけだな、と打ち消した。
 そんなことをつらつらと算じている間、彼女は何を思っていたのであろうか、またあの茫とした表情に戻っていて、
「魔物を、水に還すとき」
「ああ」
「核っていうのか。そいつになっていたものの一部が、オレの中に残るんだ」
「――人間の、魂?」
「かもしれないし、そうじゃないかも」
 一瞬目を伏せて上着のポケットに手を突っ込み、またすぐに顔を上げて靴の先でとんとんと地面を叩くと、一層淡々とした調子でつづける。
「とにかく、死ぬ間際に彼らの残すものが――だから、オレはオレが手にかけた人間のことを覚えている」
 省略された言葉を、その行き先を思った。
「前に、シックザールが言っていた。それはこの世にかけられた祝福で、呪いだって。……あの人と同じ場所に立って、同じものを見て、けれどもオレは今、あの人と同じ道を歩いているんだろうか?」
 ほんの少しだけ、声の表情に寂しさが混じった気がした。あの人。遠回りな、しかしただ一人のみを指す、外形の省かれた固有名詞。ふいに、俺は、この頭上に広がる果ての知れない星の海こそが目の前に立つ少女の胸に湛えられているものなのかもしれないと思った。
「もし同じであったとしても、道は人しだいで変わる」
 それが良きにしろ悪しきにしろ。胸の奥に吹き込むように静かに呟いて、彼女の兄のことを口にする代わりにいまだ彼女の心を縛るもののことを思い、それを解けないばかりかさらに重い荷を背負わせてしまっている己の未熟さをなじる。目を閉じて、そしてすっくと立ち上がり、
「向こうまで登らないか」
 と、国境の街を見はるかす眺望へと誘う。彼女は一瞬何かを考えるような仕草をした後、そうだな、と頷いてむき出しになった岩場の向こうを指す俺に続いた。
「でもさ」
「うん?」
「後ろ、濡れてるよ?」
 だからオレ座らなかったのに、と今さらどうでもいいことでくすりと笑われるが、振り返るとさらに何かを言われそうなのでそのまま先を歩く。
「俺は気にしない」

006:世界の果て/アーティとレザン

 壁も黄味がかってくすんだ色合いの、しかし手入れは行き届いた古城の廊下に人の背丈ほどの大きな窓が立ち並んで、ぬるくもなく冷たくもない穏やかな昼前の空気を運びこむ。
 見渡すかぎりの彼方に続く樹海のはるか上空には陽の光が陣取って、屋内の影を斜めに傾いだ窓の形に切り取っている。何の気なしに見上げると、日差しがもろに目に入ってしまい、私はうっ、と呻いて右手で顔に庇をつくった。
 そのまま立ち止まってぼんやり遠くを見ていると、長い眠りの間にすっかり伸びてしまった髪が吹き込む風にあおられて、ぱたぱたと軽い音を立てる。
 いっこう私が動こうとしないので、私に街を案内するはずだった男は行き過ぎそうになりながら戻って隣に立ち、視線を一度外にやってからその横顔に移して訊ねる。
「今日はよく晴れているな。君はこういう眺めが好きなのかい?」
「いや、なんか――すごい遠いところに来たんだな、って思って――」
「だがここに君の敵はいない。君を追うものも、殺そうとする者も」

 ――敵、か。敵とは何だろう。いつかの会話を思い出し、ふとつぶやいた。私にとって相対したそれは、確かにかつて生活していたものの痕跡を感じさせる、融けてしまった人格のようなエネルギーの奔流。その一部を我がものとして、得られた解をもとに術式を築き、接触面から展開させて己もろとも破壊する。
 慣れるとは何だろう。一連の流れで神経回路にかかる負担も、自我の中に自分でないものが混ざりこんでくる感覚も、場数を重ねるうちに人間という種一般を規定するネットワーク構造の見取り図をイメージできるようになってくると、以前ほどの疲労を残さなくなった。
 それでも、すべてが終わってから顧みればいつも、私はその一つ一つの行いのうちに遺言を渡されているような気がして、それはただ交えた刃を通すよりももっと直接的な感触であるように思えて、やはり慣れないものは慣れない。

「だが……誰が知るだろう? 柱人の掟もまた、人が知るひとつの秩序にすぎぬということを」
 氷砂の嵐の中で、激情を静かにひそめ、怒れる瞳は淡々と語る。巨大な体躯に闇の色を混ぜた深緑の龍を背後に従えながら、鋭く強い光を失わぬ血のような真紅の瞳の男は、ただ人を守らんがために運命の前に立ちはだかる。
「秩序の光が昼と夜とを分かつ前、すべての龍は暗く重い泥の底に眠っていた。砂と水とが分かれ、大地が生まれ、生命が芽吹き……やがて監視者の眼が世界を回りはじめたとき、人は初めて己のうちに眠る光に気付いたのだ。光が目覚めてから対立と復讐の嵐が大地をのみ込み、厳しい冬の時代が訪れるまで、時間はかからなかった。家のうち五人は二人と三人に分かれて争い、神秘の薬は劇毒となり、正しき王が悪鬼に堕ちる。いつまでも昼はつづかぬ……やがて夜が来る。その運命に抗うためにどれだけの者が命を賭して神の前に立っただろう? 彼らは戦いによって育まれ、平和によって欺かれた。私もそうだ。おそらくはお前もそうだろう……千年の綻びを紡がんとする者よ。お前は戦う者たちを救うために、戦う者たちを殺すのか? 戦いを終わらせるために、人の世を滅ぼすのか? 残酷なる目覚めを求める夢の器よ」
 少女の前に、男は忘れられた神話を語る。それは重圧と呼ぶのも生易しい、立ちはだかる者の心臓をじかに握りつぶすような覇気であった。誰も彼自身に許されるのでなければ、息をすることさえままならないような。剣の樹が少女の前に最後の障害として立ちはだかる。王城へと至る荒野の道に対峙する心が交わるとき、戦いはすでに始まっている。
「私に刃を向けるということが何を意味するのか……それでも信じるから来たのだろう。選べ、お前に守る重さがあるならば」
「願いと祈りの果てに何を失うとしても……この道を行くことに変わりはない。あなたはあなたの役目を果たすがいいさ。オレの前に立ちはだかるというなら」
 ふ、と男が短く息を吐いたのが聞こえたような気がした。ぴん、と張り詰めた殺意が大気に満ちていく。男の背後に立つ龍の鱗がその皮下の熱を覚ますかのようにみるみる赤黒く、鮮血のような紅へと変色していき――
 天に向かってほえたける声が大気をびりびりと震わせる。
「来たれ、龍殺しにならんとする者よ! 戦場に言葉は無用ぞ!」
 赤熱した火花を走らせながら額の上に掲げた閃光を宙空より真一文字に抜き払い、刃を一閃ひらめかせ、腰を落として駆けてゆく。頭蓋を咬み砕かんと迫る顎をななめ前方に飛んで躱し、すれ違いざまに一刀をあびせる。しかし、浅い。狙った首筋の硬い手応えのなか、なまじ勢いがあったために中途半端に刄が食い込んでしまい、反射的に利き手の逆に持ちかえて刃先を流し、引き切った。人の体液に似た色の鮮血がほとばしり、その隙を狙わんと打ち込んできた男の横薙ぎの一閃を後ろ飛びに避け、着地も何も、バネ仕掛けのように息つく間もなく跳躍し、男の肩を踏み台に、龍の上顎を踏み越えて大上段に振りかぶる。袈裟がけに打ち下ろされた一撃はとさかをそいで額からくぼんだ眼窩にまで達し、龍の左目を潰した。

「――――――!!」

 耳をつんざく叫びに意識が飛びそうになりながら、残響が消え去らぬうちに、十分な距離をとるために、空中で一回転して重心を取り戻し、自ら凍土に下りて片膝をつく。のたうち、荒れ狂い、従者であるはずの巨龍がさながら不快な羽虫を払うようにその首で主君をなぎ倒すのを見据えながら、絶好の機会を逃さず真っすぐに跳躍し、懐に潜り込んで斬り上げる。致命的な深さだ、と感じた――焼き尽くされた傷からひといきに素粒子として明白緑の燐光を発しながら分かち解かれていく赤黒い影は霧散し、電子の励起状態にある刃の高周波音と共に大気を裂いた跡が、袈裟がけの残像として投げられ腰元に引き寄される。
 しんしんと風に舞っては地に積もりゆく影。まだ暗く明けきらぬ、弱まった氷砂の嵐とともに息もすぐに凍りついて霜と落ちるのではないかと思われる中、現世に固着した光の刀身を携えたまま降りしきる銀世界を踏みしめて、少女は王城の守護者に向き直る。――

 氷を水面に封じて耳を澄ますに波は無く、雪が点々とする林頭に目をこらせば蕾がある。暮れかかる紫紺の雲は燃えるように地平の境を流れ、暗い大空に白くいづる月は寒く、遥か彼方を夜行性の木菟≪ずく≫のような、しかし名を知らぬ鳥が過ぎゆきる。
 枝が頭上高くにもつれ合い、容易には光の差さない緑の回廊を、足元に忍び出た根や石くれにけつまづかないようその固く割れた樹皮を手のひらで伝い探りながら進む。
 ふと背後から首筋に冷たさが滑りこむのにびくりと身体を強張らせ振り返り見上げると、どうやら葉先に溜まった露のひとしずくであった。いつの間にかあの重い鈍色の雲は途切れ、葉の隙間からわずかにのぞく上弦の月がただよいゆくおぼろ雲をすかして薄明かりを降らせている。言葉も忘れ果てたかと思うほど、ただただ鼓動と息遣いだけが耳の奥に張りついて繰り返される中で、ひそやかな風が梢を払うゆきずりのささやきが渡りそして去る。

 ――幻を愛と呼んだところで、君の置かれた境遇は変わらんと思うがね。

 そうかもしれません。ですが、一般論として、愛が真実であるかとその愛が賢明であるかは別物でしょう。

 君は一指しですべての会話を終わらせることを好むな。議論が嫌いなのかね?

 本当に嫌いなら話もしませんよ。ただ、私は……。スマートな手を好むんです。それに私はあなたが、いちいち間のすべてを説明しなければ理解できない人間だとも思っていない。

 あのとき私は嘘をついた。誰にも理解してほしくないから、あの人の記憶は誰とも分け合いたくないから、たとえ私が同じ道を辿るとしても……ただの使命だけで私と接してほしかったのだ。そこに士卒関係・戦友関係以上の感情が入り込んでいたことを私がどう受け取るにせよ。私自身が、けしてそのような使命感という動機だけで動くことはないにせよ。
 私は境界を歩く。どこまでも広がる虚無の荒野と、天を逆さに映した星の海の。振り仰げば、夜をのぞく瞳に今も宿る埋み火は、満ちた月の影を赤々とはね返す。
 世界がそういう形をしているから繰り返されるものを、運命と呼ぶのだ、と誰かが言った。ならば、きっとすべてを背負う覚悟だけが、歯車のかみ合う先を少しずつ変えていくのだと。あの人ではない、もう思い出せない誰かが言っていた。
 いつかすり抜けてきた雑踏の陰にこごる人の世の汚泥。わき立つ憤りと憐れみ。そして、何もかもを土に帰していく戦いの嵐。何もかもが、今は亡き人の面影を思い起こさせる。
 ――彼が、その命の軌跡に残したすべての意味を。悲しみも、怒りも、人の心も、すべてを捧げながらけして救われることのなかった彼に返せる、たったひとつの答えを探すために。
 ああ。空があんなに遠い。けれども私は地を這う人間だから、人の間で生きることを望まれたのだから、今は。寄せては返す潮騒に引いては追って、やがて透明な波にさらわれ消える足跡を砂に刻みながら、歩きつづければいつかは辿りつく場所への境目を探す。
 ――それでも、この世の果てにも答えがないだろうことを感じている私は、行く人は、どこまで行くべきなのだろうか?

007:アーティとマール

 彼女は、その先を見てみたいという理由だけで、主よ、あなたに叛き、あなたを殺したのだ。精霊の加護を世界から奪った者が受けるべき神罰は、その喜びとするところと相を異にする同じもの。彼は、自らの無能を知り、地に塗れ、倒れ伏す。
 わたしは、氷の刃を己が心臓に突き立てる。幻影の翼手を葬り去ることができるのは、主よ、あなたがわたしのどこを砕けば壊れるのかを教えてくれたから。わたしは、わたしの剣がいつか私自身を滅ぼしてしまうとしても戦いつづけるでしょう。結局、わたしのすべては、あの人を中心に回っている。その想いも、心も、守るべき道義も、剣の使い方も、人の愛し方も、すべてを教えてくれた。ただ一人の……
「あなたはすべてを奪った……レザンも、レザンが守ろうとしたものも、すべてっ!」
〈やめろ……マール。これ以上は、お前の体がもたない。〉御厳霊《ミカヅチ》の主となった少女は剣の王の忠告も聞かず、限界を超えてさらに力を引き出した。
 ――それが水であれば、真なるものは容易く炎に転じるであろう。
 少女の怒りは、彼女の心を覆いつくそうとしていた。愛していたなら、何故殺した。愛していたのに、どうしてあなたは――あの人だって、あなたを守ろうとしていたのに! 少女の心は引き裂かれ、ただただ怒りと失望に燃え上がる。あの人が愛していたのは、わたしではなく、目の前にいるもう一人の……御厳霊、と契約の名を少女は呼ぶ。骨が軋み、体のあちらこちらから血が流れ出して千切れそうになるのを感じる。
「あの子を殺せるなら、わたしは……!」

 殺意に満ちた嵐が暗雲を呼ぶ。ばちばち、と激しくさえずり猛る電圧を纏い飛来せんと身構える少女。それを遮るために前衛に立った守り人の剣を、今や星龍の化身たる少女は忸怩たる思いで差し止めた。「いい、トーナ。オレはあの子の刃を受けるべきなんだ」気づかなかった。ここに至るまで、何もできなかった。だから、その代償は払うつもりだ。「お、おい!」「オレを信じろ、トーナ」
 待てよ、と引き止める青年を無理矢理押しのけて、少女は暗い風と向かい合う。……泣いている。そう思った瞬間、ずん、と重い衝撃が腹のあたりに突き立ってたたらを踏む。二、三歩後じさりながら、それでも倒れずに踏みとどまる。
「ア……アーティ!」
 死にはしない――痛いだけだ、今の私には。目が合うと、もう一人の少女は絶望の色をさらに深めて、「何故……」と言葉にならない、問いにならない問いを発した。さっ、と刃を引き抜き、跳びすさる。だが、再度の攻めの構えは捨てない。青年は今度こそ二人の間に割って入り、脅威とすべき相手の前に立ちはだかった。
 刺し貫かれたばかりの傷が、みるみるうちに塞がってゆく。しかし、淡い金の燐光は、残された鈍い疼きまでは運び去ってくれない。今しがた自分の血を吸ったばかりの冷たい銀月に似た刃は、ぽたり、ぽたりと雫を滴らせながら、赤く濡れた輝きを放っている。これが星龍の定めなのか、と少女は密かに思いを強くした。
「大丈夫か?」
「平気だ、オレは。多分な。……それより、気を付けろ」
 私はまだ、ここで潰える訳にはいかない。生きてあの人との約束を果たせなければ、本当に全てが無駄になってしまう。私が犠牲にしてきたすべての人々の死を、なかったことにする訳にはいかないのだ。星の記憶と大地の秩序を守り、世界を蘇らせるために……龍の生命の中に残された人間を、彼らの国を、残らず滅ぼしてしまわないために。たとえ私が、私のすべてを失ってしまうことになるとしても、人間ですらなくなってしまうとしても、悲しむ心すら失ってしまうとしても、私はこの世界から逃れるわけにはいかない。

「やっぱり、そうだったんだ……あなたも、レザンのことが好きだったんだ。でなきゃ、こんなことできるわけないもんね」
 何の表情もなく刺し貫かれたあの眼を見たとき、少女にはわかってしまった。きっと自分は今、この子と同じ眼をしている――絶望が、他のすべての感情を押しやって、だからそこには何の感情もないように見える。ずたずたに引き裂かれて、きっと、心が死んでしまったのと同じ。でも、と少女は絞り出すように声を上げた。
「だったらどうして、そうなる前に止めようとしなかったの? 自分が何もできないからって、そんなの、誰かを見殺しにしていい理由になると思う? 哀れで、弱くて、無力な子供。そんな言い訳許さない……そうやって、自分一人で全てを背負い込むフリをして、あなたは結局逃げてるだけじゃない!」
 大地の秩序、星龍としての運命……そんなの、知ったことじゃない。今度こそ明るい未来を、と願い、世界を新しく生まれ変わらせる。救いようがないと判断した、今の世界を見限って。だけど、レザンのような人を犠牲にして、一体どんな未来を作ろうというんだ? 人の世界を守ろうとした、レザンを救わない世界……わたしは、そんなものの為に剣を振るうつもりはない。
「――御厳霊!」
 大切なものを、守らなければならないものを振り払って生き延びる世界などに、どれほどの価値があるものか。青白く燃えさかる炎が、雷電のように脊髄から神経を伝って指先へと、刀身から切っ先へと流れ込む。この身がどうなろうと、彼女はここで倒さなければならない。

     *

 あなたの亡骸を抱いて海沿いの道を歩くわたしは、暗い夜のこだまと遠鳴りで潮《うしお》の果てに引きずられそうになりながら、悲しみと嘆きをともがらに、いつかあなたが来た路を、逆戻りの夢のままに辿る。街は死体であふれ、かりそめの命に束の間の喜びを得る生ける屍たちが、無数の手を伸ばしてその血肉を欲している……彼らを打ち払い、あなたを魂の奥つ城まで届けるのがわたしの仕事だ。
 陰鬱な森の奥にそびえたつ屋根のガーゴイル。その異相の主君は、天上を統べる者より冥府の王がふさわしい。
 ……罪深く、汚れなき彼の魂を、どうか安らかなる地へ送りたまえ。そして願わくは、いつか再び彼の者に、目覚めの日が訪れんことを。
 すべての魔を統べる王の前に跪き、わたしは彼の亡骸を台座に横たえる。赤と黒で統一された調度の、果てが闇に沈んで見えないカテドラルの広間で、ゆらゆらと揺らめく灯火にうつしだされた彼に最後の別れを告げる。さようなら、と愛しい頬に口づけを――やがて炎が闇にくすぶる音を残して、その姿は灰と崩れ落ちた。
「彼の者は去った。お前の役目は果たされ、縛めは解かれた。このまま冥府に留まるつもりなら好きにするが良い、もはやこの地にお前を逐う者はおらぬ。冷厳なる巫女よ……もうそれ以上、その手を血に染めるでない。胸に抱く銀月の剣が、哀れと案じて泣いておる」
 冥府の王は言った、しかしわたしは首を振る。
「剣の王に立てた誓いを、取り消すことなどできません。古よりの盟約に従い、境界荒地の彷徨者として、人ならざる人の宿命を受けいれましょう。行き場のない魂がわたしを必要とする限り……刃を振るう腕として、あらゆる戦場に存りつづける。人間の守護者、安からしむる者。それは、あの人の望んだただひとつの未来でした。アルファズル、死都より暗い地上の国へ、今再び赴くことをどうかお許しください。そして願わくは、わたしに死地への道を示されんことを」
「……悲しみの子よ、今は眠るがよい。誰が人も、お前に死は望まぬ。石英の瞳とただ一人歩みを共にするお前がいなくなれば、もはや生者も死者も等しく、誰が為にあるとて世の光を臨むことはできないだろう……智恵と分別の娘よ」
「すべてを見透すあなたの千里眼も、わたしの心まではわからないようだ……アルファズルよ、愚かにして狭隘なる、永遠ならざる人の子に、あまり多くを望まないでください。智恵も、分別も、すべてはわたしの力ではなく、彼の者と共にあればこそ。失われたものが帰らないと知る者は、ただ、残された記憶と遺志を糧として生きるほかないのです。さようなら――そしてありがとう、あの人があなたの手で送られたことは、最後の幸運だったと思います。人ならざる者の、父よ」
 そうしてわたしは、墓守の社《やしろ》を去った。暗雲遥かに遠ざかる、抜けるような青い空が、残酷すぎるほどの清新さで広がっていた。相変わらず陰鬱な森は、しかし朝露を迎えて、冷たい空気と穏やかな静寂に満たされている。
 一度だけ、ガーゴイルを振り返った。
 それはもはや奇怪な死の彫像ではなく、ただのふるびた城である。行く道を知らないわたしは、薄くけぶる視界の中を歩きながら、どこへ行こうか、と思った。かつての記憶を、もう一度辿るのも悪くはない。わたしの知らない、新しい土地を旅するのも悪くはない。どこであろうと、わたしはわたしのすべきことを知っている。からっぽな胸が満たされることはなくても、今度こそあなたを失わずに生きてゆける。その痛みも、悲しみも、わたしが生きる限り、決して誰にも奪われることはない。
 ……あなたは、幸せでしたか? わたしは多分、幸せだったんだと思います。だって、こんなに。

  焼けつく波間遠くで泣いてる 誰かの涙とざして揺れてる
  消えない夢の跡から聴こえる 幼さにまどろむ愛の面影
  夕べに繋がれた まぼろしのように
  さまよい歌うのは 昔語りの
  遠い海に託したあなたの優しい声を聴くから

 叫びだしたくなる喉を鎮めるように、いつの間にか唄が流れ出していた。葬式には似つかわしくない、ただただきれいな悲しみを歌った曲だ、とそれはいつか誰かに言われたのだった。いつか、思い出せないくらい昔、誰かに教えてもらった――
 静寂の森に、歌が響く。どこか悲しげに、晴れ渡る空の青と同じく澄んだメロディは、昔人を思い起こすためか、それとも忘れ去るためか。草葉の陰に、古木の虚《うろ》に、姿を見せない住人たちは、ただひそやかに、異国の人を見送った。

     *

 愛の記憶よりも悲しみが深いことに当惑する。
 何故、私は記憶を書き留めているのか……それは誰かのためではない、私が私の心の囚われ人だからだ。
 上手に言えないさよならで君とお別れをしたまま、君の心の欠片だけが残って、君は二度と戻らないことを知っている。それはありふれた話のようで、深層には誰の理解も拒む何かが横たわっている。
 祈りを織り重ねては深い海の底に沈めた過去の自分を、長い長い眠りにつかせたまま旅をするかのように、私は私を綴る。
 終わったと告げるのは言葉ではなく、ただ……

 いつの頃からだったろうか。
 幼い怒りと悲しみを凍りつかせ、何故と問うのをやめてただ歩き続けた道が、冷たい星と不毛の荒れ野しか広がらない世界が、誰かの理想のように語られるようになってしまったのは。
 君には君が歩むべきだった道があったはずだと、それすらも忘れるほどにさまよい続けてきたわけではないだろうに。
 私は、さまよえる、さまよえるたましいの……

 傷跡の美しさなんて、当人にはいっこうどうでもいいことさ。
 心炉に灯りつづける火が暗い風にあおられ燃えさかる、俺が何に怒りを抱き、何をくべたのかなんてわかるわけがないんだ……心を重ねた誰か以外には。
 俺は狂人とみられることを恐れない、なぜなら俺はいつだって正気だからだが、この世界で誰よりも正気であり続けることは誰よりも狂っていることと同じなのだと君が聞き入れるかは知らない。
 だが、だからこそ霜の降る荒れ野にさまよいつづけ、ゆえにこそ出会えた君の正しさを信じていたのだと伝えることくらいは許してくれないか。
 愛よりも深く、深く、落ちるためらいの吐息に、ただ凛とするはかなさに、惹き寄せられていくことを許してくれないか。

 私の中に残っている君の魂の欠片が、……呼び起こすその記憶に、今でも痛みを感じるのは何故なのか。
「オレは……」

008:冷厳なる巫女と炎の御手

 「私」が冷酷な人間になることを選んだのは、「私」の大切な人からすべてを奪ってしまわないためだ。マールの凍てついた炎は、凍てつかせねばならなかったのだ。
「それであの人を守れるというなら、レザンが守りたいものすべてを奪ってでも、私は……」
 その冷たさが時間すら止めるのは何ゆえか。青白い月の輝きが刃の鋭さを支え、マールは誰一人として容赦することなく敵であるものすべてを滅ぼしてゆく。熱いはずの返り血は、けして彼女の心を溶かしはしない。息のあるものことごとくが、その白刃を受け入れれば、たちまち死して已む。しかし彼女は振り返らない、彼らの死を顧みない。そのためにいつか、彼女が本当に守りたかったものをも失わせてしまうことになるとしても……

「……そんな方法で本当にあの人を守れると思うほど、私は気楽じゃありませんよ」
 たしかにマールの愛は、胸の奥底に凍りつかせねばならなかった。誰も触れることのできない深淵に、決して目覚めることのない眠りにつかせて。
「だが、それをあいつはいともたやすく破り去った――そうだろう?」
 少女は沈黙する。目の前にいる、禍々しいほどの存在感を放つ、血の流れそのものであるような真紅の身体……光を感知する眼を持たないそいつは、いつもレザンの傍らにいた龍だった。少女はしばしうつむいたのち、それに向かって語り始める。彼らをつなぐレザンは今はなく、暗い深淵の世界に二人だけがある。ぴちゃん、と水面が揺れて、波紋が広がる音。
「私――気づいてましたよ、多分、最初から。伊達に長く、あの人の傍にいるわけじゃないんです」
「だろうな。おれが見えるってのは、そういうことだ」
 誰よりも深く理解に近づいていたからこそ、その人が何を見ているのか、何と関わっているのか、その口から発せられる言葉以上に感じとってしまう。赤い龍も、少女の方も、今さら特別に心を動かされる様子もなく、さりとて張りつめた空気を弛めることもせずに、静かな会話を続けた。
「……だけど、それでもいいと思っていました。私以外の誰かの為であったとしても、それであの人が生きられるなら。笑っていてくれるなら」
 レザンの傍にいることが彼女の幸せで、レザンにとっての喜びが彼女にとっての喜びだった。たとえその想いの大部分が自分に向けられたものではないとしても、それがどれほど辛い事実であったとしても、自分の気持ちがそう動いたということだけは偽りではなかった。しかし、それがすべてではない。それ以上に強い沈黙の動機を、マールはここに来てはっきりと自覚していた。
「失わせてしまうから。自分の居場所を失う以上に、お前は」
 自分の手でレザンの生命を失わせてしまうことを恐れていた。報われることのない愛が行きつく先は、他にない。だからいつでも一歩身を引いて、彼の傍らに立っていた。それが彼女の望みうる、最高の日常であり、最高の愛であった。古王国の伯爵位としては落ち目であったニーズズ家に忠誠を誓い、グリ・カナールという組織の為にあれほど多くの仕事をこなし、肥え太った王国のさらなる保身と繁栄に恐らくは人の何倍かは貢献したのも、その望みと無縁ではない。すべては、レザンの居場所のために。
「自分の指定席を取られて、面白くないんだな」
「あの人が、わたしのことを信頼してくれていた、っていうのはわかりますよ。あれで結構、わたしのことを大切に思ってくれていたんだってことも。でもね、違うんです。レザンの望みとわたしの望みが本当の意味で重なることは、絶対にない」
 マールのきっぱりとした口調は、まるで自身に死刑宣告を下しているようでもあり、この少女の線の細さも相俟って、凛とした儚さを漂わせていた。
「……それで、お前はどうする? 追いかけたって届かないって分かっているなら今さら何をしても無駄だろう? あの馬鹿はもう、行っちまったんだから」
 意地悪く言うレザンの龍に、少女は追い縋ることをしなかった。なぜなら、自分がとる行動はもう、一つしかないと決まっていたから。――誰の為に剣を振るうというのは、私がレザンと出会った時点で決まっていたんです。銀月の剣を抜き放ったマールは、どこか悲しげな表情で龍の最後の言葉を振り払った。好きにしなよ、と彼の言う。どうせ結末まで立ち会えるのは、お前だけなのだから、と。

     *

「すまない……もう少しだけ、このままで」
 少女は青年の肩に額をつけて、寄りかかったままで息を吐く。目を閉じて、深く、静かに、その様子には少しばかりの疲れがあるように思われる。ふと、トーナが少女の白い襟元からのぞく首筋に目をやると、その肩口から背中にかけて見えるか見えないかというところで、何か切れ味の鈍いもので付けられたような、大きな傷跡が走っているのに気付いた。
「これは……」
 どうした、と訊ねると、少女はあまり感情を乗せない冷静な声で、淡々と、
「ちゃんと決着がついたものから、順に消していく――でないと、オレはすべてを忘れてしまうだろうから」
 浅いものから深いもの、大から小まで背中のあちらこちらに(それは普通は逃走か「裏切り」の痕跡だ)残された傷跡を見せながら、再び上着を羽織る。不意に襲われた胸苦しいような気分に、トーナは顔をしかめる。彼女の治癒能力ならば、この程度の傷は簡単に修復してしまえるはずだった。親指の先でそっと肩の傷跡をなぞるその横顔に、以前会ったときよりも大人びた、戦士と戦士でないものが入り混じる表情に、どこか胸に迫る痛みを感じた。
 そんな顔をするなよ、と少女が言う。振り返って、トーナに向き直る。……自分にできることは何もない。はっきりとそう思い知らされた気がした。無性に、その小さな肩を抱きかかえて腕の中に留めておきたい想いに駆られる。しかし、迷いを振り払えない。
「……それじゃあ、そろそろ行くよ。大将がいつまでも本陣を放っぽっとくわけにもいかないだろ?」
 おまえに会えてうれしかった、と先に沈黙を破った少女は青年に背を向けかける。と、天幕を出ようとしたところで立ち止まり、
「なあ、生きろよ、トーナ。オレがオレでない何かになってしまったとしても、おまえだけはオレを覚えていてくれ。おまえが忘れずにいてくれたら、きっとオレは戻ってこられるんだ。いつでも、オレが帰るべき場所へ」
 その願いはどこか縋るようでもあり、独り言を呟くようでもある。どうして、その腕をつかんで引き留めておけなかったのか――どうして、俺がすべてからお前を守ると、無茶な誓いを立てることができなかったのか。少女を見送ったトーナの後悔は、戦いの中で清算される以外にないように思われた。
「サー・ライアス、部隊に集合をかけろ。俺達も出るぞ」
 トーナは指揮所である天幕を出ると、その言葉にわずかに驚いた様子を見せる部下に、急げ、と指示を出して、役に立つかどうかわからない武器を求めに掘っ建ての兵舎に向かった。陣営の中を歩くトーナの表情は厳しい。汝ら、天の主に剣を捧げ、地の民を守る盾とならば、王国の御名によりて祝福と恩寵の与えられんことを。騎士の誓いなど、彼はとうの昔に忘れた。しかし、ここで自分を動かそうとしているものは、そんな皮相な言葉などではない。彼の魂に刻まれているとしか思えない何かが、行けと命じている。
 あの、つかみどころのない水そのもののような得体の知れない相手に、一体どこまで人間の戦術が通用するものか……どれほど武装を固めようと無意味なように思われるが、彼はだからこその待機命令を、本国からの指示を無視して破ることになる。
 たしかに、このまま黙って見ている方が得策なのかもしれない。相手はただの化け物だけではなく、もともとは周辺に居住していて戦いに巻き込まれただけの人間であったものが彼らに取り込まれて変化したものでもあるのだ。下手にそれを討って事情を知りえない者たちからごうごうたる非難を浴び、威信を失墜させるくらいなら、化物同士を戦わせて滅びるのを待つ。その方がずっと利口なやり方だ。まったく、反吐が出るくらいに。
「世界の命運を決める戦いが、いつでも傍観者に都合の良い結果に転がるとは限らない――行くぞ、勝ちの目がなくなってから動くんじゃ、王室騎士団の名折れだ」
 青と白のツートーンで彩られた軍服を纏った青年は、風の流れを確かめるように暗い空の向こうを指さして、古式にのっとった動作で剣をすらりと鞘から抜き放ち、「進めェェェ」と野に響く大音声で鬨を上げ、一団を率いて進撃を開始した。
 本来やられる一方だった自分たちの戦いに、魔物の軍勢を引き連れたあいつが飛び込んできて、ようやく差し引きゼロでもっているようなものなのだ。上で指示を出している連中は、その現実を正面から見据えていない。二つの勢力のうちどちらもが敵で倒すべき脅威だというなら、どちらが生き残ろうとただの人間に勝てる見込みなどあるはずがないではないか。
「分かっていながらそれを見過ごすほど、俺は無責任な人間にはなれないね」
 ガレリアの上層部に向かって投げつけるような調子を含めて言うトーナに、
「隊長は、あの娘が恐ろしくはないのですか?」
 爵位を持つ付き添い将校であるライアスが訊ねた。まだ若い、人懐っこそうな顔つきの、深い闇もない、至極まっとうな環境で育ってきた青年である。
「少しでもあいつを知る機会があるなら、その考えはひどく的外れなものだと分かるだろうさ。あいつは昔の俺を恐れなかった。俺にはそれで十分だ」

009:たましいの還る場所/アーティとトーナ2

 ――はね上げた剣尖が光の弧を描き、その腕が軌道を引き戻さんとするより早くに、懐に飛び込んで一撃を叩き込んだ。宙に払い散らされる飛沫に、たたらを踏んで上段の構えを崩す男。零距離から返す刃とともにその脇をすり抜けて右の踵を軸に反転し背後をとる。
「この……!」
 低い罵りと間を置かず乱雑に真横に薙がれる白刃を飛び越して、胸まで抱え溜めた膝から喉元に蹴りを入れて息を潰して足場にし、そのまま背宙の勢いで間合いの外に立つ。赤い唾混じりに咳きこみながらも一息にそれを吐き、睨めつけてくる眼光に、あなどっていたはずの相手を思うように捉えきれない苛立ちとわずかな焦りを滲ませて、男は寄せる眉根に深い皺を刻む。
「まだ油断があるな。だからおまえはここで死ぬ。オレの趣味じゃないが、おまえは自分が積み重ねてきたものを清算しなきゃならない」
 ぴくりとも表情を動かさず淡々と告げる私に何を感じたのか、男は肩でしていた息をおさめてすっと顔から苦痛の色さえ消し、これ以上ないというほど冷たい声音でつぶやいた。
「俺は救われるために生きているわけではないからな。アズラーイールよ、おまえが俺の運命であるというならば、この大地に広がる血と嘆きに目を向けよ」

 ――冷たい火が、深淵に燃ゆる。失われることがなかったならば、おそらく私は愛することもなかった。打ち捨てられることがなかったならば、我が主よ、深くあなたを赦すこともなかったろう。私の真夜中に散りばめられた星の座は、奪いつづけた命の癒えぬ傷跡の残響は、選べと私に迫るのだ。
 懐かしき最愛なる友よ、心の窓辺にあなたを定め、拭い去ることのできない罪を羽織って、私は独り月影のみが過ぎゆく時のしるべたる荒れ野に種を撒きつづける。目を覚ました瞬間から逃れることのできない寂しさに一歩一歩が蝕まれても、ただ私のみがあなたと生きた忘らるる都を瞼の裏に焼き付けているのだとしても、重ねてきた死の瞬間が、ふと胸の内に滑りこむ凍りついた風が、私が辿り着くであろう先に届けねばならないものの所在を思い起こさせる。
 主よ、あなたは私に神罰を与えたもうたのだ。救いなき者を救えと、生まれ落ちたその時から死罪の定められた世界のために闘えと、人の世の罪を飲み干して生命を燃やせと、神罰を与えたもうた。ガイストの利剣によってグレート・ゲームに明け暮れる龍を引き裂き、地に打ちつけたが故に、あなたは私に果てなき道の果てまでも代償を払いつづけよと求めるのか。そうであるとしても、この胸から愛した人々の記憶を、面影を、涙を、最後の一滴まで奪いたもうな。な乾きそ、な乾きそ、彼らへ捧げし愛のいづる胸の泉よ。

「……なあ、俺と一緒に生きる道を選んでみないか、って、本当はそう言いたいんだ。けれども俺はお前に何を与えられる? いつか見ていたはずの希望を? わからない。けれども、俺なら、きっとお前の心を守れる。お前の手を引いて進んで行ける」
 だから、と言いかけた彼の唇を少女はさえぎった。長い沈黙、そして息を離す。困惑する青年を前に、そっと目を伏せて上着をはだける。
「――なあ、オレの傷が見えるか。どれほどの致命傷を負っても、血を流しても、何もなかったかのようにすぐにふさがってしまう。けれど痛むんだ。オレの傷が見えるか。もし見えるなら」
 背負った運命の重さなど無縁であるかのように軽やかな笑みを乗せながら「生きてることを感じさせてほしい」と少女が青年の肩に手を回すと、彼は探るような瞳の中に一瞬沈鬱の色をのぞかせたのち、顔を傾けて唇を寄せてきた。漏れる吐息。深く深く口蓋の奥まで熱を絡ませて、激しく抱かれる肩に背中に一層の力が込められていく。
 脇腹から圧力を這わせながら、胸の上へ、背筋へと辿る指先。痛みに混じって反応する甘い疼きに喘ぐと、押し止めていたかのような彼の息遣いは俄かに荒くなり、むさぼるように首筋に、鎖骨から胸元に口づけ、彼はまさぐりながら自分のベルトに手をかける。かちゃかちゃという金属音と、衣擦れの音に続く、一瞬の間。少女には、理性の飛びかけている頭でも、彼の逡巡を感じとれた。
「――やめないで、つづけてよ」

 乱暴になりすぎないよう、それでも時折抑えきれなくなったかのように分け入っては、激しく上下動を繰り返す彼に合わせて腰を揺らす。彼の胸の下でただ抱かれる幸せに満たされながら、触れる肌の痛みと、荒い呼吸音が静寂の中に熱を加速させていく。
 始めの裂かれるような異物感がしだいになじんで甘く脈打つ痛みに変わってくると、かろうじて頭の中に残っている意識のヒューズが飛んで、絞られる息に高い音が混ざった。白濁する思考の中で、は、と、両胸を強くまさぐりながら支点としていた彼の手がびくりと震え、放たれた熱を持った異物が体内に残される感触。
 快楽の残響から心地よい気だるさに移っていく中で、少女はぺたぺたと汗の滲む彼の肌に触れ、筋張った背中に手を回してその愛おしさを抱き寄せる。離れないで、とキスをする。二人一体となったまま、次第に押し寄せてくる静かな眠りに身をゆだねる。

 ――穏やかになっていく互いの呼吸音。耳元の、ひげの薄い彼の顎が何かをささやいたような気がする。それは、行かないでくれ、という泣き言だったのかもしれないし、あるいは、私にはもう分からなくなってしまった何か。私にわかるのはただあなたがここにいてくれるということだけで、ただそれだけで必要十分の、それ以上の証明を必要としないこと。
 ――帰りなさい、日常へ。築きなさい、日常を。
 私を生んだ、あの人のいつかの言葉を胸の内に反芻する。深い、海のような心のあの人のまなざしが、何より深い愛に満ちていたことを今さらながらに知る。これはオリジナルの人間の記憶だ。オレじゃない。けれども、冷たいと思っていたあの人の愛が、あるいは自分の中に生きているのかもしれないと深い確信のようなものを抱いたのはたしかで、だから、少しづつ、少しづつ、道の果ては近付いているのかもしれないと思った。すべてを遠い夢にしないでくれ、と、自分の中の誰かが涙を流した気がした。

010:続・機械の王/エスタの決意

 ――ヘッドセットを外して静かに息を吐き「そう……そう、だから、あの子は」と繰り返しながらやりきれないというように首を振る。いつの間にか、頬を、誰のものとも知れぬ涙が伝っていた。
「私……すべての想い出が素晴らしいなんて、言うつもりないわ。でも、忘れてしまいたくないの。全部、無かったことにしたくない」
 決然と言い切る少女の瞳を、機械の王が見ていた。機械仕掛けの神にいざなわれた少女は、今やその前に立ちはだかる者となっていた。誰よりも近く、共に歩み、生きてきた人間。――我らとともに来い。おまえならば、我らとともに歩み、誰もが望んで成し得なかった新たな未来を築くことができる。
 しかし少女は首を振る。たしかに、それは正しいことなのだろう。永い時の中を生き、数えきれない柱人たちの生とその時代を見てきた彼らの言葉には何一つ偽りなく、選べるものならば、進めるものならば、人が行くべき道を今この時に指し示している。疑いえないほどに明瞭な、世界の輝く黄金の夜明けが立ち昇る、遥か真っすぐな道の手を。
「でもね、時代があなたを必要としていないの。誰も辿りつけない所に辿りついたとき、私はきっとひとりぼっちだわ。それでもいいとは思うけれど、その為にみんなを切り捨てるのは嫌。ひとりぼっちの王様……まだもう少しだけ、私の中に眠っていて。誰もが気付かなかったとしても、私だけはあなたのことを憶えているから」
 ――私は人間だから、人間の中で生きるように定められているのだろう。少女は彼にそう言った。誰もいない世界に玉座がひとつあったって、誰もあなたのことを見てはくれない。あなたは人の中で生きるべきなのだ、と。

011:

 ――私は、滅びかけた故郷への道を行く。あの人が待つ場所へと帰るために。

 飄然としてつむじを巻きし烈波、つぶやき交わす若葉の髪を薙げば、遥か頭上より立ち騒げる者どもの声来たりて、一鴉月影をさえぎり闇に溶けん。
 さやぐ梢にかかる月は折り重なる庇へ零露と銀を注ぐるに、春の夜の黒衣に抱かれし星どもぬるく霞みては息を返す。苔むす巌に依りて天に冠せる広葉に詩句を誦すれども、我はいかで交わされるさんざめきに山つ神の心を聞き分けんや?
 背に預けし鼓動の血の熱を散らしゆくに胸中の治まるを知れども、残される消息に山つ神の縁を伝いたどること能わずに、ただしんしんと落ちかかる葉ずれの沈黙へと身を溶かさば、肌に寒き湿りを含む呼気まつわりて暗中に我を受け止めん。
 ぬるく襟を過ぎ撫でゆくは現身《うつせみ》に流れこむ深夜の風。凍える星々は空を軋ませて瞬き、砕かれた欠片を指先に探る私は答えのない問いを繰り返す。
 月影、その面《おも》、我が命のさざめきに崩れようとも群雲《むらくも》には去らず、霞と散る罪の証しを鉄鎖に等しき不砕の掟に塗りこめる。
 虚飾に彩られゆく敬虔が胸の底にくろぐろと虚無を注げども、その果てしなさに通りを渡る群衆と交わす言葉を失うも、重ねられた咎にいまだ罰は訪れない。逆さの影はゆれる、鏡合わせの瞳に困惑を残してなおこの手は君へと歌を綴る――。
 暮るるままに暮れゆく時に鍵をかけ、仙源いずこと果ての名残を石に刻む。忘れがたきは朔ににじめる更夜の月、荒れ野をさまよいなんなんと満ちる水際《みぎわ》に映らぬ友が心。悔いは生の証しにして憂いは希望の裏返し、暗雲の前に立つ虹なると。砂と水とがはじまりなるも、いずれの日にか世は落花と残鶯《ざんおう》とに別れんと。
 ゆえに、偽りの栄華に背を向けて、手のひらに伝わる鼓動を頼りとし、時を刻む針が折れるとも、吾は割れたる盤面を拾い集め、ただ、雨あがりにたどる足跡に仙源いずこと果ての名残を路に刻む。
 降りる霜に六色は消え失せ、しずもりかえる夜半の舟。去ぬる日へといざなう波の音に、冷たいさだめの星をなぞる。
 はためく旌旗に向かいては民安かれと念じ、落ちたる灯がままにしるべなき道を進み、猛き心は幽愁に閉ざさるるか。君が世にいくばくかの種を撒くも水引く術を知らず、清く山河を渡る風もこれをさらに虚しうすと。
 なれど滅びゆく煌めきがままに、尽き果てんとする星も塵となりて天に地に注がんと、指先を伝う雨を掻き抱き、心に沈む影を謡わば、深淵《ふち》の奥に花咲き乱れる野辺を見る。

 君嘆きて曰く「太陽は真昼の月を許さないはずなのに」と。吾応え申さく「ならば闇しか愛せない私は倒錯しているんだ」と。

     *

 涙は無価値だと君が言う。それで救えるものは何もないと。その世界の遠さを思いながら私は、心を分け合うだけだね、と呟く。
 ――刹那に落ちる影。
 知っている、と真っすぐに向かう寂しい眼差しが、だから自分が救えるものは何もないんだよ、と穏やかな笑顔に変わるのに胸を締めつけられる。私は、君は砂漠に種を撒いているんじゃないんだよ、と返すことしかできない。
 長くのびた影法師を追う私はふいに響く声に振り返った。昔日が手招きをするような気がして立ち止まる木枯らしの中、十重二十重に織られた記憶の糸がみちびく哀惜の綾目をそっと遠ざけて、あかねに暮れた街角に意識をもどし再び影の道を踏み歩く。
 情理を焼き払った者がいずれ虚無の柱へ磔にされるように、深淵から染め具をとる私もまた罪の杭を打たれるのだろう――。

 かひなに傷をいだいたままで やみをしるべに探り入る
   からくれなゐとあとちりぬれど いたみは吾をとどめたり
 みぎはなき わたつみがはらに身をひたしては
   むすべども すくへぬこの手のあはれをぞおもふ

 山つ神、はるかに深きかむなびのみもろに朽ちていたむ巨木も、小さきものどもの胎となり、いずれの地にてか新たな子種を芽吹かせむ。あな現せ身よ、時節に暇を乞はむとすれば、君が情けに袖引かれ、狭きふしどに月眺むれば、世の常ならざるが偲ばるる。
 散りぬれど、木の葉めぐらす辻風に、物思ひそと余人は吾をいさむれど、吾は人なり案山子にあらずとこれを笑ひてしりぞけむ。あな現せ身よ、あくがる心を捨て得ぬままに、果たせぬ契りに袖引かれ、行き交ふ道にたたずまひては世の常ならざるに物ぞ思ふ。

     *

 さよならはいつでもそこにある――いつか散りゆく花の移り気を信じるなんて、と誰かに言われなくてもわかっているけれど、
「あなたがいなくなってしまったら私はどうしたらいい?」
 そういって、彼女が爪を立てた背中が痛む。
 人々の喧騒の中にあるようで離れたこの場所に、線路を走る遠鳴りがかすかに混じる閉ざされたラジオノイズの波に、そっと呼吸を潜ませて、二人ぼっちに暮れなずんでいく部屋に分かち合う体温は永遠の証なんかじゃないけれど生きていることの証明にはなるでしょう。その胸の奥にある埋まらない何かを埋めているこの時を、誰にも奪わせたくないと願うのは私のエゴだろうか?

「愛の証明なんて、あなたがいれば何もいらないのに」

 流れに逆らい取り合った手とやるせなさのすべてを掻き抱く言葉のない言葉は私たちを傷つけるけれど二人を結ぶ何かを与えている。胸に走る痛みを私の愛が血を流すたびに分け合ってしまうのはあなたの心が真実であるからで、だから私は有限の今をあなたに預けることを選んだ。誓いなどなくても、固く抱きしめているだけで、二つの体が心と一緒に溶けあっていくようだと感じる。
 相変わらずの果ての見えない旅だけれど、私のきしんだ胸の奥底に触れたあなたを愛することは少なくとも私にとっての救いなのだと、指先から伝わる鼓動と呼吸に、ただ、あなたの瞳の中に私の火が映るかぎりは、あなたにとってもそれが救いであることを祈るんだ。それが私だけのエゴではないことを。

 ――人々のざわめきにぬるくかすんだ風の中で痛みの失せた指先は砕かれた空をさぐる。止水はその深きに星々の夜を湛え、昔日の香はその朽ち葉を波の随意《まにま》に踊らせ、そうしてまたひとり群衆へとまぎれては理想郷の迷路をさまよう。人間を救えるのはただ人間だけと知りながら、凍りついた心のままで。善悪の彼岸に背を向けた私に太陽の夜はどこまでも暗く、祈りより確かなものなど何ひとつ見いだせないとしても、この身は賽の目でもなければ天の摂理でもないのだと――とりどりの灯をともす街路に遠く足音だけを置き去りにして。
 人の流れにあてを任せて履き潰してきた靴の数を思う。色を失う信号機とノイズにかすむ客寄せのメロディ。いつか分け合えた心も忘れて夜の中へと落ちるのか? それで誰かが救えるならばと乾いた現実を求めるほどに方々の店の明かりは足元の影の濃さすら見えなくさせる。盲いた目を開く光がこの中のどこにもないとしても、試みの中でもがくことに今は価値を認めるべきなのか。天が罪ある者も罪なき者も共に等しく滅ぼしたもうと、悪魔がどれほど意味深い星々の計図を持っていようと、私はただ友の死を悼む人の子にすぎないのだと。
 行き交い絶えぬ夜の雑踏に世界の果てを重ねては中庸を惑わす因果の綾に未来を問うなと繰り返し、かきくらす胸の奥の埋み火に命の意味を導くか。ああ手すさびの言の葉合わせよ、砕けた欠片の帰るべきも知らざるままに!

 ――麻痺した心のどこかが軋みをあげて遠い痛みに目を覚ます。引き寄せた幻が触れた心音、想いのすべてはそんなものだと心を閉ざして鍵をかけ、分け合う安堵を置き去って明日が誘うに身を任せた――誰にも本当の事など分からないように。
 想い傷から溶けだす涙、心に流れる川の深さに動けずに、吹きすさぶ夏の嵐の緑葉がきらめく水面に色づき落ちる。絶え間なく巡る季節の理に鎖した私の声はただ、苦くはかない悔いを残して触れ得ぬ笑顔に胸が軋むばかりで。
 煉獄の火から生まれた輝石の欠片は天を滑った星の一滴、いつの日か心を繋いだはずのものを捨てられないまま集めた軌跡、茜さす燃え立つような野の空に言葉の倉を再び開けば、踏み越えた掟が示した罪と罰は夜露に澄んだ花のあわいに。
 どこまでも未来の希望を願い、戻れぬ愛とこぼした涙。私の心が引き裂かれたのはどちらも真実と知っていたから。旋律の還る夜明けの静けさよ、二人交わした歌をしるべに現身に求めたあなたの影はただ、風は去るとも月の白きに。ああ手すさびの言の葉合わせよ、砕けた欠片の帰るべきも知らざるままに!

     *

 信じる心にともる思慕は今もまだ冷たい月の光に照らされて、きらきら、願いと祈りのかけらが風のない夜空を落ちていく。胸の中はまだ晴れないのね――そっと抱き寄せて、耳をあてて、その澄んだ情熱をそそいだものに動き出す鼓動を感じているのに後悔の影を重ねてしまうから。
 誰のために、なんて、その両手からこぼれ落ちたものを数えてしまうから悲しくなるの。慰めにもならないそんな言葉であなたの祈りに触れてはいけないのに。触れて傷つけるばかりの指なのに、まぼろしの面影をなぞるように夢から覚めるような恐れと孤独は、甘くさびた音色を奏でたまま、静かに星の涙を焼きつくす。
 自分の足跡は汚れているのだとあなたは言った。憎悪が胸を焼き尽くした日々と、求めて得られなかった愛を、心に火をつけるように傷跡の美しさを語るけれど、私は深淵をのぞく瞳に映る炎のきらめきに魅せられている。海の底で酸素を求めるように、呼吸するように触れる。
 息をすることを許してほしい、見つめたまま――これが私たちの流儀なのね、どこまでいっても。さあ目を閉じて、さかもどる夢に最後の祈りを。この愛が正気じゃないなら、なぜ私たちは……
 そう、私たちは時計の針を止めなかった。長い旅と栄華の果てに何も残らないとしても、夏の炎に惹かれて集ったかがり火よ、命の音を聴かせて。今が終わりを迎える前に。先を競うように無数の蛍が夜空へ放たれる。月明かりのない星降る夜に手をとって、澄みわたる風に選んだはずの道を歩いていく。すべての地獄と楽園の果てに、私たちは……

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