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原子心理学実験レポート002:ツァラトゥストラ

 国家安全保障局のサーバに侵入してから15分、ファイアウォールの迷路の先の二重防壁を解くのに思うより時間がかかってしまった。すでにアクセス地点は割れているかもしれないが、お目当てのファイルが見つけられたのは幸いだ。インターポールが部屋になだれ込んでくる前にけりをつけよう――


 

001:blank

 ――そのどこか表情の薄い、冷徹な顔は、私と同じ形をしていた。
 鈍色の雲が低く垂れこめる曇天。あちらこちらから黒い煙が上り、金属の打ち合う音と野蛮な喧騒が響く中に、私は戦争をするためにやって来たのか。
 石敷きの広場にまだ数人の子供たちが残っていたのを横目で流し、私は彼らを庇うように動いて陣をとる。意識を集中してそれを呼び出すと、右の手の内にどこからともなく鈍く光を返す刀身が成された。そして、目の前の彼女が刀を手にするのも同時であった。
 右足から踏み込んで一息に間合いを詰め、正対称の同じ構えで、同じ動作で、一撃目を繰り出し刃を打ち合う。鍔を迫れば、ただ感情の覗けない黒い瞳が私を見返してくる。押し返して後ろ跳びに距離をとる際、相手の内腕を斬りつけるが、しかしそこからは何か黒い塵のようなものが昇るだけで手応えがない。それで、正体を判じた。
 向こうは疲れも痛みも知らないファントム。けれども私のほうは、時間が経てば経つほど体力を消耗する。
 実力的にはほぼ互角で、反応速度ではこちらがやや上だろうか。彼女が様子を探りつつ斜めに下げた構えを直すのをまばたきもせずに追いながら、私は策を求めて記憶の糸を手繰った。相手の心が読めなくとも、自分の心が読めるなら。彼女が私の考えている通りのものだとするなら、私の弱点は彼女の弱点であるはずだ、と。
 ――月夜のテラス、白いドレス、背中の小さな青い翼の紋章。
 通り過ぎる幻視の中に示される明確なイメージ。それをずっと昔、私の父を名乗る誰かに刻んでもらった記憶。

 ――これを突かれると、お前は死ぬ。

 ふいに蘇る声に、ぞくりとする。彼女は、知らない。
 ふっ、と迷いを払って突進し、打ち下ろされる刃を逸らして真っすぐに手首をとると、私はその腕と平行にステップを踏みながら押し込むように背後へ回り込んでその場所を貫く。
 ――やはり、あった。黒い服の下、脊椎に沿って下りた腰のあたりに、私のものと同じ青い紋章が。傷を視認した瞬間、自分と同じ顔をした亡霊は、血の跡も残さず断末魔の絶叫を上げて掻き消えた。それを見届けてわずかに乱れた呼吸を整えると、刀を鞘に収め、そこへちょうど追い付いてきていた部下に子供たちを任せて先を急いだ。
 橋の欄干から見える海べりの街並み。息を弾ませ、ジグザグに丘を登る道を段飛ばしに駆け上がると、城の正面、それは翼をもった獅子であろうか、凝った西洋細工の入った黒檀の大扉の前に立った。両腕をあずけて力任せに扉を開け放つと、視界の先に、空気を含んだようにふわりと裾の広がった白いドレスの影と、その姫を守るように肩を抱えて進む兵士の姿を捉える。
 ――気配を察して振り返る、見知った横顔。そうだ。私は彼女を助けるためにここに来たのだ、とふいに思い出す。
 高く並び立つ柱の間を姿勢を落として駆けてゆき、鞘から一閃抜き払い、彼らの後衛を務める兵士たちが返り見るより先に、内の一人を無造作に肩を掴んで背後から刺し貫く。その呻く声の終わらないうちに鋭く引いて半ばから胴を斬り払えば、骨を断つ感触とともに、たたたっ、と刃の先から鮮血がた走り、大理石の床にまだらの曲線をつくった。
 力なく崩れ落ちる兵士を退けて、残りの、姫を庇うように隊形を組みじりじりと奥へ下がる二人へと距離を詰めていく。今は不意討ちで倒したが、まともに戦えば隊長格であるのは違いない彼らのほうが実力は上だろう。それでも、後続の部隊が助けに来るのを期待する余裕はない、と腹を括る。

 ――白絹の手袋に包まれた彼女の手をとったとき、私は、この国を束ねる諸侯たちが集まる大広間に足を踏み入れていた。テラスの向こうに遠く海に浮かぶ群島を臨む、何かの儀式を執るための間。
 これだけの数を相手にするのはさすがに無理か、と覚悟を決めたとき、詰め寄ろうとする衛兵たちを制止して老王が玉座から進み出てきた。血まみれの私の姿を認め、話を聞け、という。厳しく見据える正気の眼差しの中に姫と同じ面影を見いだして、一人でも多くを道連れにするつもりでいた私は、はじめて隣に立つ彼女の素性を知り、王の真意を疑いながらも切っ先をおろす。
 以前、私が死に瀕するほどの怪我を負ったとき、その命を救うために多くの血を分けてくれたのは彼女であった。だから今でも同じ血の流れる私の半分はこの国の人間で、姫をもらいうける資格があるのだ、と目の前に立つ敵国の父は言う。
「もしも望むならば、――」

     *

 ――夢の印象が次第にぼやけて背景に退いたあとで、見慣れぬ天井が自分の部屋であることを思い出す。
 のそのそとベッドから上半身を起こし、軽く額を押さえて頭を振った。見やれば、時計の針は6時半と少しを指している。ちょっとだけ寝すぎてしまったらしい。
 妙に鮮明でおかしな夢だった、とは思いながらもとりあえずはストレッチで眠気を払う。日課となっている朝のトレーニングメニューをこなし、手早くジャージに着替えると、いつものように河べりのコースに走りに出る。陽が昇りきったばかりで、まだ土埃も眠りについたままの澄んだ早朝の空気が、心地よく肺にしみる。
 途中、土手で簡単に声の調子を整えてから部屋に戻って汗を拭うと、買い置いていたパンを2枚トースターに放り込んで、それが焼けるのを待つ間に制服に着替えてしまう。牛乳を注いで、味わうという要素をほとんど無視して朝食を済ませ、皿とコップを軽く流してから鞄を肩に引っかけ、玄関で靴の先を叩きながら出がけにちらりと腕時計を見る。7時半。早足にせず駅に向かったとしても、十分に間に合う時間だ。
 部屋の前の階段を降りがてら、イヤホンで左耳だけをふさいでプレイリストを再生する。秋の入口に立って暑さの和らいだ並木道を歩き、犬を散歩させる中年男性や、はしゃぎながら駆けていく近所の小学生の列とすれ違いながら、これほど平和な朝の風景なのに自分はどうしてまたあんな物騒な夢を見たのだろうか、と苦笑がもれた。環境としては大差ない(むしろ以前より良くなった)と思うのだけれど、やはりまだ完全に一人の生活に慣れていないせいもあるのか。

 駅の改札を抜けて、背広姿の会社員たちに混じって列車が来るのを待つ間、もう一方のイヤホンで完全に耳をふさぐ。ここから先の雑音は注意を払う必要のないものだから。

 両親の離婚が決まり、私が今の住居に移ってから、半月が経とうとしている。
 一人暮らしをするにしてもせめて高校は辞めないでほしいという彼らの頼みもあって、私は、ここから六駅離れた以前と同じ公立校に通っている。歌を勉強する時間は減ってもどちらかと同居する――つまり今さら一方を選んでもう一方を切り捨てるようなことをする――よりマシだろう、と説得を受け入れたのだ。
 それに事情を話して、間借りの保証人になってほしいと社長に頼んだとき、付き添ってくれたプロデューサーに「桜は歌と決めたら歌、ひとつのことにのめり込みすぎるきらいがあるからそのほうがいい」と言われたので、そういうものかもしれない、と思った部分もあった。
 ただ、たしかに両親の許にいた時より人と関わるのは楽になった気がするけれども、かといってその閉じた小社会から広がる世界があるかといえば、どうにも何かが決定的にずれてしまっているらしい私はそこまで積極的な意味は見いだせずにいる。行く以上は、その時間をなおざりにするつもりはないけれども。
 今は活動が軌道に乗り始めてプロダクションから多少の給金を得られるようになっているから、切り詰めさえすれば、別に両親に頼らずとも生活に困ることはない。彼らから物理的に距離を置いたおかげで、週に一度か二度くるメールにも大して反感も感傷も覚えず報告を返すことに慣れてきたが、それもいずれは減っていくだろうか。

 ――決まっていることは、考えても仕方がない、と思う。

     *

 午後の授業が終わって向かったレッスンの休憩中、待合室の自販機で買った水を喉に流し込んでいると、脇でその手元をじっと見つめる玲菜と視線が合った。
「そういえば桜ちゃんって、いつも何食べてるの?」
 ん? と私は首をかしげる。質問の意図がいまいちつかめなかったが、ペットボトルのキャップを閉めながら答える。
「何って……朝がパンと牛乳、昼がチキンサンドとかツナサンドとかのサンドイッチ系、帰ってからはカロリーメイト」
「ひょっとして、毎日そんな感じなの?」
「ええ。多少の変動はあるけど」
「それって――」
 玲菜は一瞬何か、ものすごく何かを言いたそうな顔をして、しかしそれを飲みこんだように見えた。
「ねえ桜ちゃん。私今度、いつもお世話になってるプロデューサーさんに手料理を作ってあげたいなって思ってるんだ。でも、まだちゃんとレシピの内容覚えてなくて。だからさ、桜ちゃんの家で練習してもいいかな?」
「え? ええ――それはかまわないけれど」
「本当? じゃあ、今日、レッスンが終わった後! 寄っていってもいい?」
「どうぞ。でも知ってのとおり、道具はあまり揃ってないから」
 ずいぶんと急だな、と苦笑しながら私は特に深く考えることもなく頷いた。

 今日は、次の週末にスタジオを借りて新曲をレコーディングする予定があるので、その仮合わせといったところで来ている。大事じゃない時期なんて一日たりともないと思うけれど、このシングルの結果次第で、浮くか沈むか、今後の活動の方向性がある程度決められてしまうのも事実だ。
 ――転機。
 どうしてだろうか、自然と、玲菜と初めて顔を合わせたボーカルレッスンの日が思い出される。どうも二人でユニットを組むことになるらしいという話を聞かされて、ただ私たちがどの程度のものかを見たいということで、担当するプロデューサーと対面する前にちょっとしたテストを受けたのだが。
 正直、あの時の玲菜は散々だった。

 ピアノの音階に合わせた発声練習まではそこまで酷くなかったのだけれど、じゃあ軽く歌ってみようか、と譜面を渡されたとたん、歌が可哀相だ、とか本当にこの子とやっていけるんだろうか、と私は激しい不安に駆られた。急に気合を入れすぎだったのだと思うのだけれど――転調の瞬間とか、大きくメロディが上下するたびにいっそ気持ちがいいくらい音を外していて、とてもではないが見ていられなくなってしまったのだ。
 それで、先生の面子を潰さないよう、レッスン終わりに思い切って彼女に声をかけてみた。
「あの……神坂さん?」
「なあに、桜ちゃん?」
 タオルを手にしながら振り返る屈託のない笑顔。彼女は自己紹介が終わった瞬間から、私のことをちゃん付けで呼び始めていた。
「子音は無視して、母音だけで歌ってみるといいと思うわ」
「え?」
 単語の意味をつかみ損ねたのか、彼女は大きな瞳をぱちくりさせてきょとんとした顔をする。私は、説明するために頭の中を整理した。
「だから、歌詞をあいうえおの音だけで歌うの。声帯って結局筋肉だから――まずは余分な動作を省いて、正しい音程のとり方を覚えさせたほうがいいと思う」
 空気量が大きくなればその分調整が難しくなるし、発声練習と普通に歌うときとでは、それぞれの瞬間の声帯の位相は同じでも変位の仕方が全然違うから――と自分の喉元の空間をつまむように上下させて示す。
 それでちゃんと伝わったのかどうかわからないし、「あなたは下手だ」とはっきり言いすぎてしまったかな、と思ったけど、彼女はこめかみに人差し指を当てて何か考えるような仕草をした後、
「えっと……歌を全部さっきの発声練習みたいにすればいいってこと?」
「え? ええ――そうね」
 私の長々とした説明がすっきりした言葉に変換されて出てきたので、虚を突かれた。そうして頷く私に、彼女はぽん、と手を合わせて顔をほころばせる。
「わかった、やってみるね! ありがとう桜ちゃん!」

 そこから順調に上手くなっていったとは言い難いけれど、もともと声質のきれいな子だったから、一度音程が合ってしまえばすぐに、けして売り物として出しても恥ずかしくないものになっていた。
 それに、玲菜の歌は――
 楽しそう、というのは少しずれるかもしれない。ただ、それを聴いている人に、本当に歌が好きなんだなという気持ちが真っすぐ流れ込んでくるのだ。
 それは多分、玲菜の歌にだけあって、私の歌にはないもの。
 譜面台の前に立って、意識を集中させる。ピアノの出だし。そして玲菜の高音に自分の声を重ねる。出会ったころの不協和音が嘘みたいに、曇天の空のあとで不意に虹をかける雨のように、透明なまま混ざり合うメロディが胸の奥底へと心地良く響いていく。
 そうか、と思う。
 どうしても反りが合わなくて辞めてしまった合唱部も、その原因はきっと音楽性の違いとかじゃなくて、もっと根本的な私の態度にあった。

 ――それに気づけたなら、私はもっとうまくやれただろうか?

002:heart

「あ、もしもしお母さん? もうお夕飯の支度しちゃったよね? 私、今日は桜ちゃんのお家で済ませてくから明日のお弁当に――うん、そう。そう。はい、それじゃあ、よろしくね」
 よし、と携帯電話のふたを閉じてバッグにしまう。今日はこのままレッスン場から直帰だ。けどそういえばプロデューサーさんへの連絡を忘れてたな、と再び携帯を取り出そうとして、でもどうせ事務所は桜ちゃんの家への通り道にあるんだしいいか、と思い直した。
 ちらり、と出しかけた外時計を見る。六時半ちょい。うーん、まあ、十分に余裕はあるよね、とスニーカーの紐をきゅっと結び直して立ちあがった。
「ごめん、お待たせ!」
 私は先に着替え終わって入口で待っていた桜ちゃんの姿を認めて、手を振る。しかし勢い込んで駆けだした瞬間、足首を向ける先を間違えたらしく、一歩一歩を抜き差すうちに風景が傾いでいって、派手に転びかけたところを咄嗟に横から伸びてきた桜ちゃんの腕に受けとめられた。その肩から落ちる長い髪が、ふわり、とカモミールだろうか、ほのかに香る風とともに私の頬にかかってくすぐる。
「気を付けないと危ないわよ、玲菜」
「う、うん、そのはずなんだけどね、あはは」
 ひやりとした感覚は杞憂のまま。寄りかかって立ち直らせてもらいながら、毎度のことだけれどまた格好悪いところを見せてしまったなあ、と落ち込む。こういうところが運動神経の差なのか。則子や桜ちゃんのようにキレのあるステップを、とまでは言わないけど、せめて何もないところで転ぶ癖くらいはどうにかしたい。
 汗がひいたばかりの襟元を正す。九月も半ばになるというのに、袖から入り込む宵口の風はまだ夏の湿気をにじませている。そうして点々とともる街灯に沿って雑居ビルとショーウィンドウの並ぶ通りを事務所の方角へ向けて歩き出した。

「おう、お疲れ」
 きい、と扉の開く音にデスクの陰からひょっこり顔をのぞかせたのは広瀬靖俊プロデューサー。五か月前から私と桜ちゃんのユニットを担当してくれている人だ。なんでも母方のおじいちゃんがドイツ人にあたるクォーターだそうで、背はあまり高くなくて髪も肌も日本人の色だけれども、見れば虹彩がきれいに青みがかっているからすぐわかる。小さい頃はそれでよくからかわれて苦労したのだとか。
 端正な顔立ちで、たしかにどこか向こうの人のような雰囲気があるのだけれど、今は伸び伸びになった無精ひげがかなり台無しにしている。それとバブル期に流行ったきり滅多に往来でも見かけない黒のダブルスーツとが相まって、ちょっと出るところを間違えると“その筋の人”に思われてしまうかもしれない。
 事務員の佳乃さんが淹れてくれたお茶を口にしながら簡単な報告を済ませ、次のレコーディングは手応えがありそうだ、と桜ちゃんと一緒に意気込んでいると、彼の手元の書類がちらりと見えた。
 気付いた私の視線の先を追ってプロデューサーさんは相好を崩すと、つい、とそれを見やすい縁に寄せてくれる。
「次のシングル発表からのキャンペーンと、ライブの計画書だよ」
「ライブ、ですか?」
 それが魔法の言葉であったかのように、桜ちゃんの目に明らかに真剣な輝きが宿った。
「ああ。今回は冒険して、けっこう大きなところを押さえてる。といっても、人気グループとの抱き合わせ販売みたいな形になっちゃうんだけどな。これ以上はシングルの実績次第だと思って頑張ってくれ」
「――はい!」
「――全力で当たらせていただきます!」
 そうしてプロデューサーさんと佳乃さんに挨拶をして、自分たちが使ったカップを片付け、事務所を後にした。少し気分が浮ついているのが自分でわかる。鼻歌交じりに新曲の振り付けを階段を踏み外さない程度に再現しながら、たん、と外の歩道まで降り立つと、しかし私ははたと大事なことに思い当った。
「あっ、ちょっとごめん、忘れ物!」
 玲菜、と振り返る声に、すぐ戻るから待ってて、とだけ残して階段を駆け上がる。

「うーん、それは俺の三食カップ麺とどっこいだな」
「いえ、明らかにプロデューサーさんのほうがひどいです」
 ――何ってそれは、桜ちゃんの普段の食事のこと。プロデューサーさんなら何かいいアイデア出してくれないかな、と思って期待したのだけれども、よく考えたらこの人も食生活破綻者だったと肩を落とす。
「で、本当は料理を教えたいんですけど、どうやって引き込もうかなー、って。さすがに毎日は行けないから……」
 ふむ、とプロデューサーさんは顎をひねる。
「しかしな、玲菜、桜の性格だったら自分だけ座って待ってはいないだろ。手伝えることがないか聞いてきたときに普通に仕事をやればいいと思うんだが」
 言われて、ただちょこんと待っていてもまるで自分の部屋じゃないみたいに落ち着きなくそわそわしている千早ちゃんが簡単にイメージされた。
「だから玲菜は、桜にもできそうなことを用意してやって、それを少しずつ覚えさせていけばいいんじゃないか?」
「あ、はい――そうですね」
 そんな単純なことでいいのか。目から鱗が落ちるような返事にお礼を言って、あまり待たせちゃいけないと踵を返して駆けだそうとする私をしかし彼は手招きして呼び止め、
「あー、まてまて、ほれカンパ」
 とおもむろにズボンの尻ポケットに差した財布からしなびた野口さんを二枚抜いて渡してくれた。
「――わ、ありがとうございます! そのうちプロデューサーさんにもご馳走しちゃいますね!…あ、何なら一緒に来ます? 桜ちゃんち」
「いや、いつかを期待しないで待ってるよ。気にしなくていいから行っておいで、玲菜」

若干手持無沙汰になっていた桜ちゃんと合流して夜道を歩きながら、うーん、何か煮物系かなあ、と私は思案を巡らせる。とりあえずこの子はカロリーメイトで本当に補えると思いこんで野菜を摂らなすぎてる。ああでもたしかあのキッチンって材料切り分けておくスペースが足りなかったっけ。
「ねえ、ざるって置いてなかったよね?」
ざる? と彼女は一瞬単語の意味が分からなかったようで、しかしすぐにその示す形に思い当ったらしく、まばたきをしながら頷いた。
「え、ええ。そうね」
「近くに百均か雑貨コーナーの入ったスーパーってある?」
「それなら、たしか――」
と、顎に手を当てて記憶を探る仕草をする彼女を横目に見ながら、あとは全然使ってないっぽかったけど鍋と炊飯器はあったし、適当にご飯と味噌汁があればいいかな、と頭の中でぱぱっと工程を組み立ててみる。いきなり包丁を持たせると手を切っちゃいそうだから、煮具合を見ててもらうのがいいだろうか。

――無事に終電を逃さずに帰宅したその日の夜、私はシベリアンハスキーみたいな真っ白い犬と、茶色い鳶と、一緒に宝物を探しに行く夢を見た。

     *

 ライブに向けて強化されたレッスンの終わりに近所のスーパーで食材を買い込んでは桜ちゃんの家に入り浸る、という生活が続いたある日の午後。
 その日、私たちの曲紹介をしてくれるラジオの収録だというのに、余裕をもって送り届けてもらえるはずだった電車が強風で遅れてしまって、駅から半分駆け足でやって来た私は事務所の階段をあわただしくのぼっていた。まだぎりぎり間に合う。プロデューサーさんに連絡は入れたけど、念のために一本早い便に乗っておいてよかった。
「すみません、プロデューサーさん!」
「おう玲菜。そろそろ桜を呼んできてやってくれないか?」
 ドアを開けるなり、お前が来るまで屋上に行くって言ってたから、と応接用のソファにかけていつでも出られる態勢になっていたプロデューサーさんが天井の先を指差した。

 ――屋上のドアへ近づくにつれて、壁越しにくぐもった、明るい曲調なのにどこかもの悲しい歌声が聞こえてくる。なんか日本語じゃないな、英語かな、と最後の踊り場を過ぎてガチャリと重たい手ごたえを押し開けると、そこにはビル群を臨むフェンスの前に髪をなびかせながら、沈む陽の茜と夜の紫紺を照り返して流れる雲に歌う彼女の姿があって、私はすぐに目を逸らせなくなった。
 かけようとした声を飲んだまま耳を傾けていると、やがて曲終わりに収束してゆくブレスは途切れて、ぱちぱちぱち、と私が送った拍手に彼女が振り返る。
「きれいだね。なんて曲?」
 夕方の少し強いビル風に髪を押さえながら彼女の隣まで歩いてゆく。
「スコットランド――イギリス民謡の『Loch Lomond』よ。別々の道を通って戦場へ向かう友人を想う歌」
「ああ、そういえば桜ちゃん、民謡の大会で優勝したって言ってたよね」
「ええ――でもこれは、その時とはまた別の曲よ」
「そうなんだ。ねえ、もっと歌ってよ、桜ちゃん」
「じゃあ、違うバージョンでいってみましょうか」
 私がねだると彼女はそう微笑んで、――すうっ、と息を吸い込んだ。

 By yon bonnie banks and by yon bonnie braes
 Where the sunshines bright on Loch Lomond;
 There me and my true love spent many happy days
 On the bonnie bonnie banks of Loch Lomond.

   O,ye'll tak' the high road and I'll tak' the low road
   And I'll be in Scotland before ye;
   But trouble,it is there and many hearts are sere
   By the bonnie bonnie banks of Loch Lomond.

 'Twas there that we parted in yon bonnie glen
 On the steep,steep side of Ben Lomond,
 Where in purple hue the Highland Hills we view
 And the moon glints out in the gloamin'.

   O,ye'll tak' the high road and I'll tak' the low road
   And I'll be in Scotland before ye;
   But trouble,it is there and many hearts are sere
   By the bonnie bonnie banks of Loch Lomond.

 There the wild flowers spring and the wee birdies sing
 And in sunshine the waters are sleepin';
 But the broken heart,it kens nae second spring
 Though resigned we may be while we're greetin'――

「おーい、何やってるんだ、玲菜、桜。収録遅れるぞー」
 これ以上は待てない、とプロデューサーさんがガチャリとドアを開けて呼びに来るまで、私は風に溶ける桜ちゃんのソプラノに静かなハミングを重ねていた。

     *

 シングル発売後のプロモーション活動も加わり日々は忙しなく過ぎていって、そして来たる十月の下旬、待てども待ちきれなかったライブ当日。
 昼から入ってつい今の今、次に自分たちの番を控えて舞台袖から今回のメインバンドのリハーサルを聴いていたのだけれど、なんというか、コード進行はいいのにどれもこれもいまいちパッとしないし、ボーカルが背景の演奏に食われてるなあ、という印象を抱いてしまった。これだったら私と桜ちゃんの方が――
 そんな不遜なことを特訓を重ねて徐々に付けてきていた自信から考えていると、隣で無表情のまま色とりどりに踊るライトを見つめていた桜ちゃんがぽつりと、歌が可哀相かも、と呟いた。

――じゃあ、食ってしまうか。

 するといつの間に後ろに立っていたのか、腕組みをして何か獲物を定めるように舞台の光景を眺めていたプロデューサーさんが、どこか不敵でいたずらっぽい笑みを浮かべた。お前ならそう言うと思ってた、と。でもそんなことをしたら次からうちの事務所は呼ばれなくなるんじゃ、と戸惑う私たちに、
「かまわんさ。責任は俺がとる。というか、仕事を持ってこれるかは俺次第だからな」
 とゴーサインを出す。
「遠慮はするな。それが礼儀だと思って全力でやれ。お前たちが目指したいのは、もうこんなところじゃないんだろう?」
 そう。ここで期待を引いてから後追い的に発売する作戦で、ライブ用にもう二曲録り下ろしていたものが、このバンドの――多分一番押し出したがっている――曲調ときっかり重なるのだ。私は彼らの作風を知らなかったし、プロデューサーさんがそれを見越していたのかどうかは分からないけど、なんとなく、底意地の悪いこの人ならやりそうだなあと思った。
 彼は静かに説く。
「歌で勝負するだけだと地味で華がない?――いいや違うな、そんなものは本物を知らないから言えることなのさ。お前たちの歌を聴くのはただ観客だ。今はそれ以外のことを考えるな」

 私たちの出番は、いくつかのグループが混ざったプログラム全体からすれば割合早くに回ってくる。
 転んでしまわないよう足元に注意しながら蛍光テープの位置につき、真っ暗なステージから三千人規模を収容する遥かな空間を見渡せば、黒山に埋め尽くされた中にぽつりぽつりと赤と青に蛍光を放つサイリウムが確認できる。今日この場所に居合わせたお客さんの多くは、別に私たちの歌を聴くために来たのではないかもしれないけれど。
 強く息を吐くと、先ほどまで重圧に笑っていた膝がすっと治まって、私に演者の仮面を与える。目を閉じる。心臓に早鐘を打たせる快い緊張感が、次第にざわめく周囲の大気を己の手足の先と捉えるほどに感覚を研ぎ澄ませていく。
 ――エレキの唸りが導く曲の入り。背後のドラムがスティックをかち合わせる音に合わせて1、2、3と全身でリズムをとり、照明が息を吹き返す歌い出しとともにステージを経巡った。
 ――届け、私たちの歌。

 用意していた五曲すべてをバンドメンバーとともに全力を尽くして歌いきり、楽屋に戻ると、私たちの名札のついた扉の正面に背を凭せかけていたプロデューサーさんがむくりと身を起して大股に歩み寄りながら、
「頑張ったな。いいステージだった」
 と満面の笑顔を広げて私たちの頭をわしわしなでたので、私は少し照れくさくなってしまう。
「それじゃあ、後は他のスタッフに任せて、お役御免の俺たちはさっさと撤収することにしよう」
 着替えを済ませ、スタイリストさんやメイクさんと挨拶を交わしてから、先導する彼の背中について会場の熱気を抜け、少し離れた駐車場まですっかり肌寒くなった夜風の中を歩いていく。まあどうせ未成年だからお酒を入れるわけにはいかないのだけど、私たちは打ち上げとか、他のグループの人たちへの挨拶とか、そういうものに参加しなくても大丈夫なのかな、と一瞬だけ建物の影を振り返って思った。
 プロデューサーさんの走らせる――いちおうは社用扱いの――車の後部座席に桜ちゃんと二人で収まって、遠くに流れゆく夜景を目で追いながら、レインボーブリッジを過ぎたあたりで、
「そういえば、どうしてプロデューサーさんは私たちをこういうアイドルにしようと思ったんですか?」
 とふと思いついて尋ねてみる。桜ちゃんは連日の疲れがたまっていたのか、振動に揺られるうちにこくりこくりと私の左腕に頭を寄せて、いつの間にか静かな寝息を立てていた。バックミラー越しに見える彼の顔は正面を向いたままで、
「真面目な答えと普通の答え、どっちがいい?」
 と、冗談とも本気ともつかない落ち着いた声音で問いを返してくる。対向車線から切り裂いてくるヘッドライトが、通りざまに車内を照らす。ちょっと思案して、
「じゃあ、両方で」
 と私が答えると、かすかに彼の笑う気配がした。
「――そんなの、俺が歌が好きだからに決まっているさ」

003:Re : blank

 私は境界線を歩いている。どこまでも広がる虚無の荒野と、天を逆さに映した星の海の。仰げば、夜をのぞく瞳に今も宿る埋み火は、満ちた月の影を皓々とはね返す。
 世界がそういう形をしているから繰り返されるものを運命と呼ぶのだ、と誰かが言った。ならば、きっとすべてを背負う覚悟だけが歯車のかみ合う先を少しずつ変えていくのだ、と、もう思い出せない人が言っていた。
 いつかすり抜けてきた雑踏の陰にこごる人の世の汚泥。わき立つ憤りと憐れみ。そして、何もかもを風砂に帰していく時間の嵐。何もかもが、今は亡き人の面影を思い起こさせる。
 ――彼が、その短い命の軌跡に残したすべての意味を。
 ああ。空があんなに遠い。けれども私は地を這う人間だから、人の間で生きることを望まれたのだから、今は。寄せては返す潮騒の只中に、やがて透明な波にさらわれ消える足跡を砂に刻みながら、歩きつづければいつかは辿りつく場所への境目を探している。

     *

 ――満たされていると、それを失ったときの虚しさが余計にひどくなる。彼女が私の生活に入り込むほどに、彼女を何も知らなかった時より、私は孤独になる。痛みも、悲しみも、どこかに凍りついて忘れていたはずの心が嘖んではただ通り過ぎて、私は一人その暗闇に取り残される。温かな光に触れてしまったから、そこがいかに暗く冷たい場所であるかに気づき、私はただ憮然と立ち尽くす。
 メディアへの露出が増え、私の虚像を映すレンズへとやはりあまりうまくできない笑顔を向けるたびに、私と世界との乖離はますます進んでいって、そして私はさらに深く深く歌と彼女の心に落ちてゆく。

 ――乗車口のそばに肩を寄せ、繁華街へ向かう電車に揺られながら、プロデューサーと出会ったばかりの頃の自分を思い出す。車内の中吊り広告に揺れるモデルが自分の顔をしているのを不思議な心持ちで眺めながら、しかし堂々としていれば誰もそれが私であるとは気付かないだろうし、気付いたとしても声をかけてくる者などあるまい、と視線をガラスの向こうに戻した。

「ええと……中野桜、で合ってる?」
 柔和そうな、けれども強い意志のにじんだ微笑で私に声をかけてきたその人は、カジノのディーラー、という第一印象を持たせた。
「今日から君のプロデュースをする広瀬だ。よろしくな」
「はい。厳しいご指導のほど、よろしくお願いします」
 私については扱いにくい人間だという認識が社内で広まってしまっていたから、奇特な人だとは思いながらも、せっかく掴めたチャンスであることに感謝して私は深く頭を下げた。
 それからしばらく二週間ほど、彼は基礎レッスンのとき以外は私と玲菜と別々に接触して様子を探り、距離感を測っているようであった。
「――何を読んでるんだ?」
 ある昼下がりの休憩時間、社ビル近くの公園で文庫本を読んでいると、ベンチの正面から広瀬プロデューサーが覗き込んできたので、私はちょっと躊躇ってから半ばまで進んだページにしおりを挟み、ブックカバーをずらして表紙を見せた。
「『ニーベルンゲンの歌』――ワーグナーの歌劇になったやつか」
「ご存知でしたか。ちょっと意外です」
「ああ。俺も、歴史ものとか騎士物語系は好きだからな」
「あの――ゲルマンの戦士は騎士ではありませんけれども」
「うん? でも、そういうゲルマン精神とか土着の宗教にキリスト教が入って来て、中世ヨーロッパの騎士の行動様式ができたっていわれてるんだが。スカンジナヴィア叙事詩の『ベーオウルフ』なんかはその原型だよな。それにほら、同じワーグナーが聖杯伝説から題材をとった『パルジファル』も、あれはもともと円卓の騎士の一員じゃないか」
 まさかすらすらとそういう軽そうな外見からは想像できないうんちくが返ってくるとは思わなかったので、私は意識せずに硬くなっていた表情をゆるめ、素直に驚いた。
「そうなんですか――すみません。私もオペラのCDから入って読みはじめたばかりなので、そこまで詳しくは知らないんです」
「ん?――そうか」
 彼はまるで、せっかく話相手をしてくれそうだったのに、とでもいうようにちょっと残念そうに眉尻を下げた。それからだ。私たちが時おり、音楽とともに本のやりとりをするようになったのは。

 人ごみを吐き出してはまた呑み込むドアから降り、中央改札から西口に構内を抜けると、すっかり冬支度を始めた街の寒気がマフラーの隙間から首筋をなでていく。スピーカー越しの抑揚のない説教と大量の車の行き交う音が混ざり込んだ雑踏。
 去年の今頃、高校一年の十二月であったか。ここで洋楽のCDショップをチェックしていたときに社長のスカウトを受けたのは。私はまた面倒そうなのに引っかかったな、と思いながら歩き去ろうとして、しかし容姿を褒めるでもなく誘導的な質問をするでもなく、ただ「君にはピンと来るものがあるのだ」と熱っぽく語るその怪しい中年男性に何の気まぐれかで耳を貸す気になり、渡された名刺とにらめっこして家に着くまで迷ったあげく、申し出を受けることにした。
 もしもあの名刺を受け取らなかったなら私は広瀬プロデューサーとも、……玲菜とも、出会うことはなかったわけだ。
「James Gilchristはない、か……」
 メモを片手に棚を回りながら、いつも購入しているグループの新譜をチェックして、試聴コーナーへ向かう。ヘッドフォンで外界を遮断して順々に番号を巡らせながら、次に玲菜が泊まりにきたときには何をかけよう、と頭の中で自然に彼女が好みそうな曲調を並べて探していることに気がついた。

     *

 私が授業を終えていつも通りの時間に事務所に出てくると、珍しく既に玲菜が来ていて、入り口そばの応接ソファに陣取って、何やら真剣な顔でギターを抱えその弦とにらめっこしている。彼女の向かいに座っているのは、たしか志保たちを担当しているプロデューサーではなかったか。いかにも業界人といった雰囲気のチャラチャラした出で立ちで、私はその韮崎という人があまり得意でない。
「えっ、と……」
 ピックを構えた玲菜がかなりぎこちない手つきでフレットを押さえながら弦を弾き下ろすと、ややひび割れた六連の和音がサウンドホールから反響して部屋に拡散していった。
「うん、そうそう。なかなかスジがいいね。どう玲菜ちゃん、俺にプロデュースさせてみない?」
「すみません、それはお断りします」
 軽いやりとりのうちにあえなく振られた彼は「おや、ま」とさして気にしたふうでもなく肩をすくめる。と、私に気づいた玲菜が顔を上げた。
「あっ、桜ちゃん。今ね、韮崎さんからギターを教えてもらってたんだ」
「どうだい、中野さんも?」
「いえ、私は用がありますので」
「えーっ、桜ちゃんもやろうよー」
「なんでもいいのだけれど、玲菜、期末試験は大丈夫なの?」
 通勤時間の都合でいつも私より後から来る玲菜がここにいるのは、先生が試験準備のためにかなり早めに授業を切り上げたからではないのか。私が指摘すると、彼女は明らかに目を泳がせて、「え、えーっと……多分?」と可愛らしく小首を傾げた。
「一応、信じてみるわ。じゃあ、後でね、玲菜」
「あ、うん」
 そのやりとりを苦笑しながら愉快そうに見つめていた韮崎氏にも一応の礼をして、私はプロデューサーのデスクへ向かった。
「おはようございます、プロデューサー」
「ああ、おはよう、桜。ほれ、頼まれ物」
 と、彼はデスクの上から「タイプ論」と緑字でタイトルの打たれた分厚い本を渡してくる。昨日、「人によって曲や詞の解釈が違うなら、同じようなメロディや言葉の並びであっても作る人によってそこに込める意味が全く違うこともあるのでは?」と訊ねたところ、そういうことになるだろうな、と首肯したプロデューサーが適当な本を見つくろってきてくれると約束したのだ。
「それの第一章が、心的タイプの違いから生じる対立と、対立から発展した哲学問答の簡単な講義になってるから。あと、タイプの一般的な説明と、用語の定義のところ。まあ、お前のぺ-スならひと月もかからないんじゃないか?」
 目次を開いてぱらぱらとめくり、プロデューサーの指示を頭に入れながらふと裏表紙を見ると、そこには高そうだなと思っていた予想を少しばかり上回った値段があって、ああこの人の給料はこういうところに消えていくんだろうな、と妙に納得してしまい口元がゆるんだ。
「しかし、お前も玲菜と同じで試験が近いんだろう? そっちは大丈夫なのか」
「あ、はい。それは問題ないかと」
 表情を締める。いつ玲菜たちに泣きつかれても困らないように、自分の範囲はきっちり終わらせている。
「そうか。まあ、こういう理論部を学ぶことの肝要は、先入見を自覚して修正が利くようにするところにあるから。実際に歌に向かうときには一度全部忘れたほうがいい。書物は財産目録にすぎず、心がその本文、心こそ即ち理なり、ってな」
「はい。あの、ところで、近いうちにパソコンを購入しようかと考えているのですが――」

     *

 ――どれほど自分の吐く空気が淀んでしまったときでも、ここに来ると居ずまいが正される。
 冬の薄い筋雲の下、時期外れで人気のない墓地の石段を昇る。白と黄の菊を混ぜた手向けの花。今日は彼の月命日だ。中野家、と刻まれた御影石の墓前に花束の足を切って献じる。駅前で買ってきた新聞紙を一枚はがし、丸めて火をつけ、燃え移らせた線香の束を風に振り、やがてくすぶるだけとなった足元の残り火を踏み消す。そして束を崩して供え、最初の気持ちを忘れないようにと手を合わせた。
「――お姉ちゃんの歌、あなたに届いてる?」

     *

 十二月二十五日。あまりに気の早いうちから街を彩るイルミネーションがようやく正当な意味を持ちうる日。
 スタッフが気を遣ったのか、それとも自分たちが早く帰りたかったのか、ラジオ番組の収録が予定よりも一時間ほど巻いて終わったので、帰りの車の中でプロデューサーが「事務所に戻ってクリスマスパーティをしよう」と言い出した。本当はあのスタジオで侘びしく食べるつもりだったんだけどな、と腕を伸ばした助手席から取っ手の付いた白い箱――多分ケーキの入った――を掲げて。
 ほどなくして到着すると、この時間では皆まっすぐ家に帰っているはずなのに、何故か事務所の入っている窓からは明かりが見えていて、佳乃さんまで残っていた。私たちの顔を認めるなり「冷えた体が温まるわよ」と熱い紅茶を淹れてくれる。
 応接のソファにかけ、口元にカップを運びながら、佳乃さんがフォークと皿の四セットとケーキを切り分けるためのナイフを円盆に載せてくるのを見ていると、
「桜ちゃん、はいこれ」
「え?」
 振り向く私の隣に座っていた玲菜が、水色の包装紙に白いリボンをかけた手の平に収まるほどの箱を渡してきた。「開けてみて」という指示のままに包みを解いていくと、
「あ――」
 中から出てきたのは、飴色の地金に翡翠をあしらったブローチだった。一瞬、後の言葉が続かなくなる。
 そうだった。私はクリスマスを単なるカレンダー上の記号のように思っていたが、世間ではこういう日なのだということをすっかり失念していた。
「ごめんなさい、玲菜。私、何も用意してなくて……」
 そう言ったきりどうしたらいいのか分からなくなってしまった私を見て玲菜はぱっと表情をゆるめ、
「じゃあ、一緒に歌おうよ、桜ちゃん」
 と立ち上がって手を差し出してきた。
「それじゃあいつもと変わらないわよ」
「いいのいいの。ささ、早く立って、立って」
 と、私は促されるままに玲菜の横に並んで、何故か頬が熱くなるのを感じながら、プロデューサーと佳乃さんが拍子をとる前で『ジングルベル』を歌った。玲菜と一緒に歌えるように、日本語で。

「――プロデューサー。私の歌は、逃げなのでしょうか?」
 つもりだけで、本当は身近な人を気遣うことすらしていなかった。談笑の花が咲き、あっという間に時が過ぎてパーティの片づけが終わるころ、私はデスクで雑務にあたっていた彼にそんなことを訊ねてしまった。彼は驚いたように目を見開いて、しかし口を閉ざしたまますぐには何も言わず、
「桜にしか答えられないことを俺に聞くのか?」
 と静かに問い返してきた。そして腰をかがめ、デスクの下の鞄から書店のカバーがついたままの文庫本を一冊取り出して、私に手渡す。
 ――中島敦・作。山月記・李陵他九篇。表紙をめくり、目次へ進む私に、
「それの『悟浄出世』ってところを読んでみろ。話はそれからな」
 ――桜、お前は今どこに立っている? と、彼はとても優しい、だけど少し寂しそうな表情を投げかけてきた。

 玲菜たちと別れ、部屋に戻ってから風呂を済ませ、髪の水気を軽くとったタオルを首にかけたままでテーブルの上に本を開く。
 それは内容的には西遊記を題材に、他の脚色ものでは目立たない役に回ることが多い沙悟浄を主役として、川底に棲む百万の魔物に見立てた哲人たちの間を思想遍歴する、という筋だった。漢文の香りが残る端正な文章を追い、物語を読み進めていくうちに、いくつかの警句が目に留まったのだが、彼が遍歴の果てに女偊という仙人に辿りついて教えを請う場面で、私はその語りかけが主人公を越えて自分に向けられたものであるような気がした。

 ――渓流が流れてきて断崖の近くまでくると、一度渦巻きをまき、それから瀑布となって落下する。渦にまき込まれてしまえば、奈落までは一息。その途中に思索や反省や彽徊の暇はない。

 私はその激動の生の渦巻きの、しかし一歩手前にはいない。玲菜と、プロデューサーと、共にその最中にいる。そうだ。私の歌はまだ辿り着く場所を知らなくとも、少なくとも傍観者の逃げではない。
「――プロデューサー。回りくどいです」
 ふと笑みがもれる。きり良く終わりまで読んだところで、そのページにしおりを挟んで閉じた。これからも一緒に進むなら、玲菜にもきちんと話しておかなければいけないことがある。

 ――運命の確率分布。無数に散らばる可能性の点からいつだって私はただ一つしか拾えないけれど、今この場所にあれることは大分の幸運なのではないか。

     *

 ――外気との温度差でわずかに結露するガラス戸の向こうに、冬の澄んだ空へ高く昇る銀月が見えた。
 正月の特番の都合で玲菜が乗り継ぎの終電を失うことは分かっていたから、今日は途中で買い物に行かなくてもいいように冷蔵庫の中身をあらかじめ揃えておいた。先に風呂を済ませてベッドの縁に背を凭せていた彼女の隣に腰を下ろし、話をする。たわいもない、本当にたわいもない。それだけで、私は自分の胸が満たされていくのを知った。
「――玲菜も、プロデューサーも、今の事務所の人たちは本当の家族みたいだな、って思ってる」
「え? でも桜ちゃん、お父さんとお母さんは……?」
 話してしまうべきだ、と思った。
「離婚したの。本当は。二学期が始まる前、私がここに引っ越す前に。黙ってて、今さらこんなことを言ってごめんなさい。だけど、終わってしまったことにほっとしている自分と、やっぱりまだ何かできたことがあったんじゃないかって思ってる自分がいて――」
「…………」
「私、弟がいたの。もう何年も前に亡くなってしまったけれど。それ以来、父と母はささいなことでいさかいばかり。共働きで、いつも疲れて帰って来てのことだったから、人を気遣う余裕がなかったのかも」
 そこまで一気に喋ってしまったところで、私は、返す言葉が見つからないというように探るような真剣な表情でのぞき込んできている玲菜に気づいた。
「でも、それは桜ちゃんが悩むようなことじゃないと思う――」
 そう言ったきり俯いてしまった彼女を見て、私はただ彼女を困らせてしまったのだということを知った。

     *

 一月も終わりに差しかかって、街の外気が身を切る寒さに満ちたころ。昼に収録した音楽番組で私の隣に座っていたタレントが風邪をひいていた――本番中は抑えていたが合間にくしゃみを繰り返していた――らしく、それをうつされてしまった。新曲のレコーディングに向けて睡眠時間を削ったのがたたって免疫力が落ちていたのか、宣伝スチルの撮影から帰宅した直後に39度の熱を出した。
 一度倒れ込んでしまうとベッドから起きて病院に行くのも億劫で、やけつく息の熱さと、気だるい神経の浮遊感、見上げる天井の歪みを覚えながら夜を越えた明け方、プロデューサーが起きただろう頃に「少し体調を崩しました。動けるようになり次第行きます」と連絡を入れた。
 出勤前に訪ねてきたプロデューサーから「無理はしなくていいからゆっくり休め」とみかんの差し入れをもらって、軽い昼のまどろみを過ごし、結局目が覚めたのは夕方に近い時刻であったが、熱は下がっていた。仕事に穴をあけてしまったな、とため息をつき、今日はまだ残りの収録があったはずだから本調子ではないながらも事務所に顔を出しておくべきだと思って寝巻きから着替え、部屋を出ようとする。と、不意に玄関チャイムが鳴った。
「あれ? 桜ちゃん……」
 ドアを開けると、そこには私を見て何故か驚いた顔の玲菜が立っていて、
「玲菜。ちょうど今事務所に――」
「だめだよ、まだ寝てなきゃ!」
 と、私が言うのを遮って今まで見たこともないような形相で大声を張った。
「ねえ、ちゃんとご飯食べた?」
「えっと……」
 まだ、と首を振ると、玲菜は無言で私を部屋に押し込んで、台所に倒したコンビニ袋からレトルトご飯のパックを取り出して鍋にかけ、しばし煮込んで、梅を潰して入れたおかゆを作ってくれた。
「ねえ、適当にCDかけていい?」
 それを口に運びながら、何故だろう――胸の奥がじくじくと痛んで、器の中に、ぽとり、と雫が落ちる。
「さ、桜ちゃん?」

 ――玲菜。どこまでもまっすぐで、優しくて、あなたに触れていると温かい。

004:Re : heart

 収録から別の収録に移動する車の中、私が桜ちゃんのお見舞いに行きたいとつぶやくと、プロデューサーさんは何も言わずに胸ポケットから携帯電話を取り出して私も体調を崩したことにしてしまった。片手ハンドルの運転は危ないんだけどなあ、と思いながら私は彼に感謝した。もしかしたらご飯も炊いてないかもしれなかったから途中コンビニに寄ってもらって、桜ちゃんのアパートの前で後始末に向かうテールライトを見送った。

 ――桜ちゃんを部屋に留めておくなら音楽の話題を振るのが一番かな、と適当にラックから探してCDを再生する。そして声をかけようとして、私は、スプーンを握って残り少なくなった器を膝の上に乗せたまま俯いた彼女の頬が濡れているのを見つけてしまった。
「さ、桜ちゃん?」ベッドの隣にかけてしばらく様子をうかがっていると、やがて目が合って、彼女はどこか悲しそうな笑顔で首を振る。
 私は何ができるんだろうか、とずっと考えていた。人に重荷を背負わせたがらない彼女が自分の荒れた家族の問題を、やや発育不良の観もあるその小さな両手で抱えきれな いものを、たとえ断片なりとも言葉にして分けてくれた時から。
 ――澄んだ冬の夜を思わせる黒い瞳の奥に吸い込まれる錯覚。ベッドの縁に腰を落としたまま見つめ合う沈黙の先に待つものの気配を感じて、こんなただれた関係になってはいけないのに、とかすかな罪悪感が胸に差す。けれども冷静な意識に反比例して早まる鼓動は拒絶を示せず、私の体温は熱病に浮かされたように彼女の引力から逃れられなかった。
 手のひらに包まれた頬を寄せられかかる、熱い吐息。一瞬だけ開くことが躊躇われた唇を割って舌が入り込んでくる。激しく求めては掻き抱かれる背中。私の手は所在なく宙に浮いたままで、ああ、それでも今は彼女が行き場なんだろうか、と目を閉じる。
 背景には音楽が流れたままだ。年季の入ったオーディオコンポがノイズ混じりに吐き出し続ける、一昔前に欧州のどこだったかの国で流行ったロック曲。意識の端をその場違いに軽快なメロディに向けながら、私が堅く線を引いてきたすべてが、彼女に対する誠実さですらも、荒っぽく口内を乱す感触に溶かされていくのを感じていた。ただ、彼女の中の空虚を受けとめようと、その細くやわらかな髪を梳きながら心を委ねた。
 ――決して重ならない鏡合わせの相似形。けれども触れた輪郭からあなたの見ている夜空が見える。ああそうか、と思った。きっと気づいていない。あなたの演じる普通は、誰も触れさせないように身につけた普通は、とても寂しそうに映るんだって。心の窓辺を通して見える、銀色の意志と、きれいな空虚。どこまでも広がる虚無の荒野。とても寒々しくて、ただそこに立っているだけで体温を奪われて動けなくなってしまうような。

 私はただ、その笑顔から偽りの去る日を待ち望んでいるんだ。

「壊れてしまわないものも、永遠も、そんなものはどこにもないのよ」
 息を離したあとでおもむろにそんなことを言う。上気した頬に差すほのかな朱が、艶やかな長い黒髪とのコントラストで和美人というべき彼女の造形をさらに引きたてていた。私は、でもそれを誰よりも求めていたのは、と口にはせずに「そうだね」と応じて、絡めた指先を離せないままもてあそびながら、
「でも、桜ちゃんと出会えたことまでなかったことにしたくないよ」
 と、二人分の重みでひだをつくるシーツの空白に視線を落とした。
「――玲菜」

 桜ちゃんは、両親が離婚してから事務所のビルにほど近いこのアパートで一人暮らしを始めた。
 当時より一緒にユニットを組んでいたのにその辺りの事情を知らなかった私は、ただ同年代の友人の中にはいなかった親から自立した生活へのもの珍しさから、ちょくちょく部屋に顔を出すようになったのだ。
 招かれて最初に印象に残ったのは、けしてお金に余裕がないということもあるだろうけど多分それだけではない必要最低限のものだけがそろえられた室内の殺風景さと、壁の半面を占有するCDラック、所々に錆を浮かしながら主然と構えたオーディオ、ハンガーとともにかけられて存在感を放つ明らかに音質の良さそうなヘッドフォン。
 そしてプロデューサーさんには健康管理を言うわりに放っておくとすぐに自分の食生活を粗雑にする――しかも粗雑だという自覚がない――彼女の癖に気づいて、せめて夕飯くらいはどうにか、とレッスン終わりの暇を見つけては近所のスーパーで食材を買い込み台所を借りる習慣ができた。気を使っているとは思われたくなくて、プロデューサーさんに食べてもらうための練習だから付き合ってね、と適当な口実をつけて。
 メディアへの露出が増え、そこそこ名前も売れるようになったころ、たまに収録が長引いて終電を逃してしまったような時に無理を言って泊めてもらうことが何度かあって、そうしてたわいもない(主には事務所の仲間のこととか、最近食べて美味しかったお菓子とか、歌や音楽の)おしゃべりも尽きた夜更けに、一度だけ彼女の実家の事情に及んだことがあった。
「終わってしまったことにほっとしている自分と、やっぱりまだ何かできたことがあったんじゃないかって思ってる自分がいて――」
 両親と、彼女の歌が好きだった弟のこと。その時の私は話にうまく踏み込んでいくことができなくて、ただ、いつもすごいなと憧れを抱くばかりだった彼女の歌の中に潜む覇気ではない何か祈るようなものがどこからきているのか。その輪郭に触れた気がして。

 明かりもつけないまま、次第に陽の落ちていく暗さに慣れた目が、わずかに乱れた綿の波紋の中に横たわる彼女の肢体をいやがうえにも意識させる。
 細身の筋肉質。少しだけ不格好な自分と比べてしまうが、ただ静かに返される黒いまなざしが、そんなつまらないコンプレックスごと惹きつける。
 なだらかな丘陵の間から、引きしまった脇腹、骨ばった腰のラインを辿り、わずかに脂肪のついた大腿を掌底と指の腹で挟み込むようにしてさする。しっとりと熱を帯びてくる肌に指を滑らせながら、細い首筋に舌を這わせると、甘い体臭が鼻腔をくすぐった。まなじりをかすめる彼女の吐息と、何かに耐えるように強く握り返される左手。下腹部にたまった熱が、私を私の主人でなくさせていくようないやな疼き方をする。次第に汗のにじむ肌を吸い上げては鬱血を広げていき、多分ここが越えてはいけない一線なのだ、とかすかな後悔を頭の後ろのほうに泳がせながら、むさぼるように彼女を求めつづけた。

 ――痙攣に指が押し返されるのを感じると同時に、右肩に鋭い痛みが走る。んっ、と思わず低い呻きをもらして見やると、私をまさぐる手を固く止めたまま切なげに目をつむる彼女が歯を立てていた。浅く速く途切れがちに往復しながら湿った熱を吐き出す呼吸は、しかしやがて深く穏やかなものに変わっていく。
 ビルや街灯の光が遠くからささやかに差し込んでくるだけの静かな黄昏どきの沈黙。CDアルバムはすでに最終トラックを回しきっている。大通りから少し路地を入ったところにあるこの部屋に車の喧騒は届かない。
 余韻を残したままで指を絡めて手のひらを合わせ、鼓動も重ね、もう一度くちづけを交わす。離れ難さのままに舌と唾液を混ぜ合わせては互いの呼吸を奪いつづけ、二人ぼっちへと閉じていく。この瞬間、たしかに快楽よりも深い場所でつながっている、と哀惜にも似た何かが胸の奥に沁みわたっていくのを感じながら。

「――戻れなくなっちゃった、かな」
 ぽつりとつぶやいた私に、桜ちゃんはこぼれる髪を押さえながら少しだけ悲しそうな表情を向ける。
「玲菜は本当にこんなことを望んでいた?」
「わからない、けど、桜ちゃんを拒絶しなかった自分に安心した」
玲菜、と、ため息のような沈黙のあとで、
「せめて器用にできない言葉で、嘘つきな私は願いをかける」
「……歌詞?」
「ええ」
「……遠回しだね」
「玲菜がまっすぐすぎるだけ」
 そう言ってくすくす笑う彼女に私は何か気恥かしさを覚えてぷいと顔を背け、まぎらわしついでにこれからどうしようかな、なんてことを考える。彼女に向かう気持ちが今までと決定的に違ってしまっているから、同じではいられない。ゴシップ記者たちのネタになることを避けえたとしても、そもそも芸能界なんていう雰囲気読みの達人ばかりの魔窟でいつまでも気づかれずに活動していけるものなのだろうか。
 そんな私に困った子供を見るみたいな苦笑を残して桜ちゃんは几帳面に畳んであった上着をひっかけ、CDラックから一枚ケースを抜き出してコンポにかけた。ぷつっ、という若干のノイズ音の後、どこか耳に馴染みのあるピアノの旋律が流れだしてきて、
「あ、なんだっけ、この曲――聴いたことある」
と、迷子になりそうだった思考から顔を上げ、いつものように前のCDをもとの場所に戻していた桜ちゃんを辞書代わりにする。
「ボブ・アクリの『Sleep Away』よ。アメリカ人ジャズピアニストの。前に玲菜、新しく買ったパソコンに初期インストールされてた曲が良かったからって私に訊いてきたじゃない」
「んー…そういえば、そんな気が」
「CDも貸した気がするわ」
「えーと……うん」
 こめかみに人差し指を当てて記憶を探れば、そんなこともあったかもしれない、と思う。「そんなものよ、玲菜」と、穏やかに微笑む彼女の表情はそこに確かにあるはずの心の動きが読みとれないほどに深くて、私は何か、それが無性に胸が締め付けられることであるような気がした。

 ――今日はもう帰りなさい、と彼女の言う。あまり長居すると風邪をうつしてしまうわ、と。私は、うつされてるならもううつされてるし、それでもいいよ、とは言わなかった。
 白い息を吐き出し、後ろ髪引かれる想いを残しながら、街灯の明かりだけがお供の寂しい路地を歩く。容赦なく刺してくる寒さの中でつらつら考えていると身体の隅に残っていた熱っぽい気分も次第に醒めていった。家々の屋根と電信柱の影に切り取られたブルーグレイの空。おぼろ雲のカーテンに遮られた半月を見上げる。ひゅるひゅると髪にあそんで過ぎる宵の声が、夜の闇の近いことを告げていた。

 脱いだコートを右腕にたたみ、事務所の皆が忙しなく動くのを目だけで追いながらプロデューサーさんのデスクへ向かう。あの場所であったことは伏せたままで、桜ちゃんの様子が落ち着いていたことを報告すると、そうか、と彼は安堵の表情を浮かべた。
「――プロデューサーさん。桜ちゃんのこと、どう思います?」
 前後の継ぎを無視した私の質問に、「ん?」と片眉を上げる。
「えっと……」
 私がうまく説明する言葉を探せずにいると、彼はそこから何を察したのか、
「奥底に巣食うニヒリズムと、平凡な愛情関係への希求」
と、短い評を投げて表情を潜めた。
「桜の家のこと、聞いたのか」
「……あ、はい」
 彼は頭の上で両手を組んで天井を見やり、長い息を吐き出すと、
「あいつとはこれまで通り接してやってくれないか。同情とか、憐れみとか、そういうものを抜きにして。――って言っても、難しいかな」
と、片頬だけを上げて笑みを向けてきた。
「いえ。そんなことはないんですけど」
一瞬、彼女の唇が脳裏に思い出される。
「――でも、プロデューサーさんって、なんか学校の先生より先生っぽいですよね。言われません?」
 話を逸らそうと努めて平静を装って言うと、彼はぽりぽりとこめかみのあたりを掻いた。
「うーん…、教員免許は持ってるけど、俺、別に教壇に立ったことはないぞ」
「あ、ほんとに持ってたんですね……何科ですか?」
「国語だよ。一時期アイデンティティみたいなもので悩んでてな」
「アイデンティティ?」
「自分が何者であるのか。どこから来てどこへ行くのか。そこに属する構成要素をすべて集めた証明書。で、いろいろあって、結局国文科に進学して免許取ったんだ」
「いろいろ、ですか」
「そう、いろいろ」
「じゃあ、それでまたいろいろあって、プロデュース業に入ったんですか?」
「うん。そうだな」
「それなら、また別のいろいろがあれば、プロデューサーさんは全然違うどこかへ行っちゃうんですか?」
 ずっと、なんとなく、この人はひとつところに留まっていない人だと思っていた。それはまるでさっきの桜ちゃんみたいに、いつでも自分の意思でふっと離れていってしまえるような。そんな私の不安が外に漏れてしまっていたからだろうか、彼はひどく遠さを感じさせていた表情を優しく崩して、
「今の俺は玲菜たちのプロデューサーだよ」
 と、大きな手を乗せて私の頭をくしゃくしゃとなでた。いつもならそれはなんだか子供っぽいからみんなの前ではやめてほしいなあ、と面映ゆくなるのだけれど、胸を潰す後ろめたさはうまく私に笑顔をつくらせていただろうか?

 ――次の日もまた事務所に来て、すっかり回復した桜ちゃんと昨日のことがなかったかのように挨拶を交わす。おはよう、と言うと、おはよう、と笑う。そしてプロデューサーさんと三人で一緒に仕事場へ向かう。
 冬の乾いた空はとても高くて、遠く感じる。見上げると、その青さに眩暈をおぼえるような気がした。

 ――どこから来てどこへ行くのか。私は、どこへ行くのか?

     *

 うつぶせのまま横倒しになった枕元が視界に入って、寝ぼけてかけてもいない目覚ましを止めようとして、そういえば今日は久々のオフだったな、と思いだして枕に顔を沈める。そして、そのまますべてのやる気を失うことしばし。
「――ぷはっ!」
 時計を見やると、10時を過ぎていた。同じくオフである(そしておそらくトレーニングばかりでその意味を失っている)はずの桜ちゃんに連絡を入れようとして、しかし踏ん切りがつかないまま携帯の小さなモニタを閉じ、パジャマの上からカーディガンを羽織って階下の台所まで下りていく。
「おはよう。今日はお寝坊さん?」
 と笑うお母さんに「うん」と生返事をして、電気ポットのお湯から淹れたインスタントココアをかき混ぜながら、今年のバレンタインはどうしようかな、とため息をついた。
 だいぶ前に、新聞の家庭欄で見つけた美味しそうなレシピをスクラップしていたから、本当はそれをプロデューサーさんに作ってあげたいんだけど。なんだかそれって桜ちゃんの気持ちを裏切ったことになってしまうような気がする。だからといって、桜ちゃんにあげるのも変なように思うし。
 そうしてココアの表膜に回る白い気泡のようにぐるぐるぐるぐる考えていたら、いつの間にか着替えてニット帽を被り、駅前にあるデパートの地下食品売り場まで来てしまった。
 昼時の人ごみを器用に避けて進みながら、あー…もういいや、と末節の選択肢を切り捨てる。今年は事務所の全員に義理チョコ配ろう、とおいしいけどちょっと高めなブランド店のガラスケースまで来て、レジの係をしていたお姉さんに声をかけた。あとお父さんの分と、仕事の関係先の人のほうは佳乃さんたちが何とかしてくれるって言ってたから抜きで、と品数を指定して財布を出す。
 ――帰り際に、そういえばもうすぐ桜ちゃんの誕生日だったな、と思いだした。今度は何を贈ろうかとあちこちのテナントを物色して回るけれども、似合うものはなんだろう、というイメージがぼやけてしまって結局何も決まらなかった。

     *

 新曲の宣伝のために出演したラジオ番組で、それはわりあい真面目な進行で有名なものだったのだけれど、やはりバレンタインの時期だからか恋人についての話題を定型句的に振られた。桜ちゃんは「私は歌が恋人ですから」とやわらかな笑顔で淀みなく答え、私は、
(――あれ? こんな笑い方だったっけ?)
 と疑問がわいたものの、それは泡となって胸の中にすぐ消えた。前評判通りのストイックだね、とDJさんが笑い、自分に御鉢が回って来て、
「そうですね。やっぱりステージで歌っている時って楽しいし。私も同じようなものですよ」
 と答えた。
「なるほど。そういう価値観とか目的意識の一致とかが、新進気鋭の君たちに短い期間での躍進を成し遂げさせたんだね」
 と、彼が聴取者向けに解説するのをどこか画面の向こうのことのように聞きながら、少しだけ嘘をつくのが上手くなったな、と思った。

     *

 最近はプロモーションの一環で関東域のライブハウスを回ることが増えて、授業も休みがちになっていたのだけれど、登校しようと朝の支度をしていた時、前触れなく桜ちゃんから電話がかかってきた。
『玲菜。少し遊びに行かない?』
「え? でも――」
『一日二日多く休んだって単位は落ちないわ。ライブの準備を少し早目にすると思えばいいのよ』

 仕事の時間まで目いっぱい遊ぶために、向こうの駅で案内板に寄り添う黒いダッフルコート姿の桜ちゃんと待ち合わせて、同じく学校をサボっているのであろう制服姿の女の子たちに混じって繁華街を歩く。
 居並ぶ本屋、洋服店、菓子店、CDショップを冷やかしながら、途中で立ち寄ったペットショップで柵の中の子犬を抱き上げ楽しそうにはしゃぐ彼女は、私がいつもスタジオで見るのとは違う年相応の女の子の姿をしていた。
 そして外の看板を見て私が適当な直観で選んだ映画の帰り、一休みにと入った喫茶店で、桜ちゃんがそれを真剣な表情で切り出してきた。
「私、大学に進学しようと思うの」
 え、と私は口に運ぼうとしていたレモンティーのカップを停止させたまま、すぐにその意味がつかめなくて、だけどわざわざサボろうなんて呼び出して話をするってことはつまり、
「――アイドル活動をやめるってこと?」
 と呆然とつぶやいた。そういうことになるかしら、と彼女は髪を掻きあげる。
「もちろん歌はやめないし、事務所から籍を抜くつもりもないわよ。ただ、本格的に歌劇の勉強をしたいと思ったから」
 何だろう。全身からさあっと血の気が引いて、それが左手の先に溜まったみたいできりきり痛む。硬直しそうになる頭をのろのろ動かして、
「えっと……音大?」
 と何とか質問を絞り出す。
「いいえ。物語の中身の方。楽譜とかは以前から持ってたんだけど、中身の深い部分って、どうしても訳文じゃ伝わりにくいような気がして。歌劇の本場ってフランスとかイタリアとかドイツだから、まずはワーグナーを学ぶ手がかりにドイツ文学へ進もうかな、って思ってる」
「ドイツ――広瀬プロデューサー?」
「そうかもしれないわね。彼の影響が大きいかも」
 そっか、と私は俯いてカップの中で揺れる琥珀の波紋に目を落とす。
「――それで、私はどうなるの?」
「え?」
「どうすればいいの?」
 と、彼女の目を真っすぐに見る。ああ。やっぱりだ。なんにもわかってない。
「いやだよ。もっとちゃんと話してよ――」
 勝手すぎるよ。と、一度頬を伝ってしまうと、泣きたくもないのに後から後から涙がこぼれてきて止まらなくなってしまった。動揺し、困った顔でオロオロと席を立つ桜ちゃんは、
「れ、玲菜。ごめんなさい。私――」
 テーブルを回り込むと私に触れようとして一瞬ためらって、けれどもきちんとした強さで抱きしめて、ぽんぽん、とあやすように背中を叩いてくれた。バッグからティッシュを取り出して鼻をかみながら、何か思いっきり周囲の人たちの視線を集めてしまったような気がするけど、それで少し気分が落ち着いたのは事実だった。

 喫茶店を出た私たちは、とぼとぼと少しずれて並んで大通りを道なりに歩いていって、偶然見かけた森林公園の散歩コースに入った。私は、桜ちゃんの家から戻ったあの日にプロデューサーさんと話したことと、何かの新聞記事で見た“人間と社会に対する信頼の喪失”という言葉を反芻していた。もしも家庭環境の違いさえなかったら、彼女は最初から普通の女の子みたいに笑えていたんじゃないか、って。
 長く気まずい沈黙が続いたあとで、
「桜ちゃんは、お父さんとお母さんのこと、どう思ってるの?」
 と会話の端を切った私に、彼女は少し考える気配をさせたあと、心の中を整理するようにゆるゆると話した。
「今は――どうかしら。よくわからない。別に、自分が怪我をしようがそれは何とも感じなくて。ただ、彼らが言い争うとき、ヒステリーで滅茶苦茶になるのを見るのが、その人間喪失ぶりを見るのがとても辛かった」
 そっか、と。私はたまたま足元にあった小石を蹴って道の脇に飛ばした。
「アイドルをやめること、プロデューサーさんには話した?」
 いいえ、と彼女は首を振った。
「一番最初に、まず玲菜に話さなくてはいけないと思ったから」
 私はため息をつく。
「留学はするつもりなの?」
「……それが許されるなら」
 それは能力的に、だろうか。それとも私に、だろうか。半歩後ろを歩く彼女を見やると、そこにはまたあの悲しそうな困ったような顔があって、さらに深いため息をついた。
「――いいよ。行ってきなよ。あなたは歌がないと一歩も前に進めなくなってしまう人だものね」
 でも、と後ろ手に指を組んだまま踵でブレーキをかけて軸にし、くるりと振り返る。
「私、待ってるから。画面の向こうに立って、ずっとあなたを待ってるから」

     *

 今日、二月二十四日は桜ちゃんの誕生日だ。
 何を贈ろうかプロデューサーさんと相談して、私は本当はオペラのCDにしようと思ったのだけれど、ショップでさっぱりわからないタイトル群を睨んでいるうちに何だかどれもこれもすでに持っていそうな気がしてきたので、結局別のフロアの、自分の趣味で選んだ洋楽のアルバムをプレゼントすることにした。プロデューサーさんのほうは、シンプルで飾り気のない青い万年筆を。
 ――収録の帰りに三人で寄ったレストランでささやかなお祝いをする。私たちからのプレゼントを受け取った彼女ははじめ驚いて、しかしすぐに感慨深そうに「ありがとうございます。でも、さすがにこの場で歌うわけにはいきませんね」と口元に手を当てて笑った。
 そしてやってきた食事の皿が一通り片付けられたころ、桜ちゃんが進学の話に切り込んだ。今年度いっぱいでアイドル活動をやめて受験に専念すると彼女の口から聞いて、そうか、と向かいの席の彼は天を仰いだ。
「プ、プロデューサーさん?」
「――いや。まさかこんなに早く俺の手を離れるとは思わなくてな」
「いえ。そんな。私にはまだプロデューサーに教えてもらわなければいけないことが」
「どうかな。自信を失くした。少し意地悪してしまいたくなってしまったな」
 と、額に手を当てたまま表情の端で笑いをこらえている彼に気づかず、桜ちゃんは本気でしょげてしまう。少しじゃない。すごく意地悪だ。
「すみません。プロデューサー――」
「冗談だ。必要ならいつでも連絡してこい。俺は桜のプロデューサーだからな」
 プロデューサー、と騙されたことに気づいて頬を赤くした桜ちゃんの説教が始まりかけたところで、まあまあ、と私は苦笑しながらなだめに入った。

     *

 桜ちゃんの進学準備に対するプロデューサーさんの配慮があって、徐々に私と彼女の仕事の方向性が決定的に分かれ始めた三月の頃。テレビ局の楽屋でプロデューサーさんと二人お弁当を食べていたところ、
「――玲菜。演じるってことは、どういうことだと思う」
 といきなり彼が訊ねてきたので、私は咀嚼していた卵焼きを飲み込みながら首をかしげる。
「お前、ジェームズ・ディーンって知ってるか?」
「え? あ、はい。名前は聞いたことありますけど……すみません私、古い映画とかよく知らなくて」
「うん。まあいたんだよ。そういう、若くして自動車事故で死んだアメリカの天才俳優が。たしか俺が観たのは、深夜番組で西部劇スターのジョン・ウェインがアクターズ・スクールの生徒たちに講義していた話だったかな」
 ――それは彼の遺作となった『ジャイアンツ』からクランクアップしてすぐのことだったらしい。そこで演じた主人公の役と本来の自分との区別がつかなくなってしまって、鏡を見ても「自分が誰なのか分からない」って、夜中にかつての恩師に泣きながら電話をかけてきたというのだ。そして彼はそれからいくばくも経たないうち、友人たちとのドライブ中にスピードの出しすぎで事故死してしまった。
「……なんかそれって、ちょっと怖いですね」
 私は眉をひそめ、箸を口元につけたままつぶやいた。
「でもそうやって、自分と演じる対象との境界をなくすほどのめり込めるかどうかってのは、役者としてある種の分かれ目だろうな。もっとも彼の場合は、自分と役との間に線を引き直せなくて、決定的な破局に至ってしまったわけだが」
 ――玲菜。お前は才能あると思うよ。のめり込むのも、線を引き直すのも。
 ふいに向けられた笑顔に、私は何故か桜ちゃんとのこともすべて見透かされているような気がして、どきりとする。
「もしもお前がそちらの道に進みたいというなら俺は止めないし、プロデュースも変わらず続けていくつもりだ」
 ――優しいのか、食えない人なのか、やっぱりこの人はよく分からないなあ、と思った。

     *

 ユニットの解散を事務所からプレス向けに正式発表したあと、高校の終業式をまたいだ春休み中の四月三日。桜ちゃんから私の自宅あてに誕生日プレゼントが郵送されてきた。そのポストカードと同封されていたのは桜色の石がはめ込まれたブローチで、それはいつだったかクリスマスに私が彼女にプレゼントしたものと形が似ている気がした。
 部屋に戻り、外が薄いスミレ色で中地が白い二つ折りのポストカードを開くと、そこには「親愛なる玲菜へ」という出だしではじまる端正な文字が――きっとそれはプロデューサーさんが贈った万年筆のものだろう――青いインクで綴られていた。

 ――あなたのくれた記憶、心、そのすべてが私の描く色。これまでも。きっと、これからも。

 カードを胸にぎゅっと抱きしめて、その日、私は近所のデパートまでレターセットを買いに行った。

     *

 それが、君の――君の半身か。
 大学で君が書いた論文がすべてをおかしくさせた……だが、君はそのとき何を思っていたのか?

005:return : to

「――この車、運転しやすい?」
 乗り込んでシートベルトを締めながら尋ねる彼女に、私は「多分ね」と答え、自分は助手席に身をすべりこませてドアを閉めた。エンジンの駆動を耳と背中に感じながら、一瞬間をおいて、がちゃりと電子ロックがかかる音。
 撮影が巻いて早く終わったので合流しようと連絡を取って、日も暮れてきたころ、ゼミが終わって喫茶店で少しだけ待ちぼうけさせていた桜ちゃんを神楽坂で拾って、今日は桜ちゃんの運転で西新宿駅のそばにあるファミレスまで行くことになったのだ。
「あ、ちょっと混んでるっぽいね」
「いらっしゃいませー、何名様ですかー?」
 カランコロンと鳴るドアベルのあと、少々間延びした声で出迎えてくれた案内の人に、先導する桜ちゃんが細くしぼったピースで私たちだけですよと示す。
「二名様で、禁煙喫煙どちらでしょうかー?」
「禁煙で」
 店員さんに注文を終え、水の入ったグラスを傾けながら「最近、電話の回数が多すぎるんじゃないかしら」と彼女が言う。
「え、そうかな?」
 休憩時間とか、お昼終わりとか、仕事終わりとか寝る前とかつい声を聴きたくなって掛けてしまうのだが、ものには限度があると叱られる。付き合い始めの頃はいつも私が引っ張っていた気がするのに、最近では立場が逆転して遠慮していた頃の反動なのか、だらしないことがあると私の生活態度にまで踏み込んで注意してくるようになった(私があまり言われても引きずらないというか気に留めない人間であることを知ったから余計なのかも)。
 ――とはいわれてもなあ。仕事の都合で人より不規則な生活をしている私は、家に帰って着替えを終えてから次のロケ集合までの時間を持て余してしまい、今日(明けて昨日)桜ちゃんに言われたことを考えながら意味もなく部屋の中をうろついているのだった。
 ちらっと携帯を見る。
(うーん、もう夜も明けたし、学校始まる頃だし、いいよね!)
 と画面を開いて暗記している桜ちゃんの番号を押す。数回の呼び出し音の後、「玲菜っ!」お出迎えの怒声に、思わず通話口から耳を離してしまう。「昨日注意したばかりなのに、あなたは――」あ。まずい。不機嫌だ。
 クラスメイトとお話し中だったのかな? そう思ってお説教をやり過ごしながら車を歩道のわきに止めて以前なんとかかんとか聞き出した大講義室を訪ねると、(あれ? 桜ちゃん、一人でお弁当食べてる……)他にも人がまばらにいることはいるのだが、想像していたのと違った。

     *

 ――身の灯は目なるがゆえに、その働き正しからば全身あかるからん。
 玲菜に呼ばれて読んでいた本にしおりを挟んで閉じるときに、そんな句がふと脳裏をよぎった。
 美術史だったか社会なんたら(既に講義名を忘れた)の教授と学説に対する解釈でぶつかってひと悶着を起こした(終わりに出すはずだった出席票を四つにちぎってその場で捨てた)私は、その件のせいで講義終わりのレポートが500字から2500字に増えてしまったじゃないかとゼミ仲間に文句を言われ、入試に比べたら楽じゃないか、それくらいなんだと思う自分の価値観とそぐわず、何となく疎遠となった彼らや、ごく一部を除いた教授陣とも同じことを繰り返すことを警戒してほとんど口を利かなくなり、自然と口数が少なくなっていった。
 足早に中庭へ続く廊下を歩きながらそんなことを話しているうちに、自分は馬鹿だなあとどうしようもない気持ちになってしまった。
 もしも私が私の歌を歌えなくなってしまったら、私はただ腐るために生きていくことになってしまうのだろう。誰も傷つけずに誰かの手を取ることなんてできはしないのと同じだ、わかっている。――だけど、考えて意味のないことを考えて、結局私はこの程度の人間なのかと失望して、私は私を無理にでも型に填めていかなければいけないのにと思って、だけどすべては意味のないこと。
 泣くことは無意味だと、たぶん私はずっと昔からわかっていたのだろう。泣いたら、別に悪くもない誰かが謝って、私は少しみんなの輪から遠くなる。そんなことに意味などない、自分の弱さと幼さをさらすだけで。
 助けて、と――何をしてもらえばいいのかもわからないのに呼んだって、その人を困らせてしまうだけだ。困らせて、探してもらって、気づいてほしかった? けれどそれも結局は、期待する相手を間違えたって思うだけではなかったか。
 だけど――だから?
 私は弱い。どうしようもなく。だから、重荷を少し背負ってもらっても、完全に寄りかかってしまうべきではないことにすぐに気づけなかった。望みもしない命が生み落とされれば、それはそういう環境を破壊するために攻撃性を肥大化させていくのか、と皮肉めいた感慨で胸がいっぱいになってしまう。彼女の温かさ、心からの愛情とは何の関係もない、彼女と離れて向き合う自分の心のカタチ。拭えない、自分が異物であるという確信。対象を持たない怒り。私が、理性と秩序正しさで覆い隠したもの。

 ――時々、あなたがとても遠かったり、わからなくなったりすることがあるの。

 少し悲しげな表情をして彼女が言う。
 けれども私は、この胸の底でくすぶる暗い炎を誰とも分かち合いたくない。それが心から愛した人であるなら、なおさら。だってそれは、辛いとか悲しいとかじゃなくて、――世界への呪いに等しいのだから。
 私を形作ってきた因果。同じ生き方はしたくないと遠ざけていたはずの人に、本質ではどうしようもなく似てしまっている自分。あるいは、人間としてはその人より欠けていて、ひどいのかもしれない。どれだけあなたの優しさに触れて傷を塞いでもらっても、私は本当には人を愛せないんじゃないかって。
 ……それはまるで、告解のようだと思った。神様に向けるべき愚痴を、いつの間にか玲菜にぶちまけてしまっている。
「それもきっと少しずつ変わっていくから。今の自分がすべてだとは思わないで」
 何を感じたのだろう。そっと私を抱きしめて言い聞かせるように背中を叩く彼女は、どこにもない遠くを見上げるかのように震える息をはいた。私は、私を落ち着かせる体温に目を閉じる。
 ――玲菜。そうやって、いつだって、あなたはあなたの持つものを私に惜しみなく注いでくれる。けれど、私はあなたに何をあげられるだろう。それだけが、それだけがいつまでも答えが出ない。

「ちょっと最近、数学史に興味があって、何冊か買った本を読んでいたのだけれど……」
 近代西洋の和声理論を成り立たせるために音階の周波数の基準として採用されている純正律も、メロディの美しい周波数の基準として古代ギリシアからあったピタゴラス音律も、オクターブ内の各音階の周波数の分布が、前者は単純な整数の比、後者は対数(対数方眼紙だと人間の自然感覚を直線的な増加で表せる)でできているのよね。
 アラブだと半音の半音、つまり1/4音階が特徴的だけど、それはピタゴラスより古い時代の名残だそうなの。つまり体系だった音楽や楽器は、すべて数学が背骨になってでできているし、古代ギリシアでは音楽は数学の一部として学問されていた。
 私は、それ(音楽と数学の出自が同じだということ)を知ったとき、漠然と感じていた数学と音楽の親和性は気のせいじゃなかったんだと衝撃を受けたのだけれど、じゃあヨーロッパの上級音楽院で教えられているような『音楽は言葉の始まりである』というのはどういうことなんだろうっていう方に興味が向いてきたのよ。
 ――相槌を打ちながら私を落ち着かせるように話を引き出していた玲菜は、話題がそういう雑学的なものに移り変わってきたところで、しばし額に人差し指を当てて考えるような仕草をしたあと、切り出した。
「……うーん、ところで、根本的なことを聞いていい? 桜ちゃんは先生とどうしてもめたの?」
「たしか、その日のテーマは人口爆発による世界的な食糧不足やバイオエタノールをテーマにした遺伝子組み換え作物についての是非についてだったわね。で、私はちょうど意見を聞かれたから答えたの。
 たとえばスギ花粉に対する抗体反応を抑えるタンパク質の含まれたコメなど、継続摂取により疾病の治癒や軽減を目的とした遺伝子組み換え食物は法律上『食品』ではなく『医薬品』のカテゴリに含めて扱うべきだと思うのですが、そうすると法体系にはどんな影響が出るのでしょう? というより法的運用上、遺伝子組み換え作物はすべて『医薬品』のカテゴリ、あるいはその下位カテゴリに組み込んでしまえばいいと思うのですが教授はどう思われますか、どのみち安全試験など本来は医薬品と同じような経過を辿らせるんですし、その方が作ったら作りっぱなしで誰も責任取りませんとかの危険が少なくなるでしょう、って」
「……うーん、ごめん、よくわからない。でも、それで?」
「なぜ扱いを医薬品と同じにすべきだと思うのかと聞かれて、私は、別にそれが医薬品カテゴリである必要はありませんって答えたの。法的に臨床試験や特許の扱いが同じような経過をたどるのものであれば、って」
「……うん」
「医薬品として扱うことはもう一つの目的があって、遺伝子組み換え作物が継続摂取によって何らかの環境ホルモンと同じ予期しない働きをしたり、生態系の遺伝子を突然変異させないという検証データがない今の時点では、それは『自然の』作物ではありませんという差異を、取り扱う業者や消費者にもわかるように際立たせるという点で重要だと思うからです、って」
「それは、なんとなくわかるよ。はっきりさせちゃうといろいろ面倒なことが出てきて各所ともめそうだなあ、ってのもね……それでもめたの?」
「それは本筋とは何の関係もない話だと言われて、話にならないと思ったわ」
「それで、破って捨てた」
「そう。出席票を。抗議の意思よ」
 玲菜がうつむいて何かを考えるように額に人差し指を当てる。
「なんか、なんていうか……桜ちゃんは、自分が間違ったことを言ったと思ってる?」
「全く」
「そうだよね……なんていうかさ、桜ちゃんは桜ちゃんで難しい業界なんだね」
「業界?」
「そう。業界でしょ? それって。桜ちゃんの問題っていうか、もっと大きな……面倒な問題。だから悩むポイント、ちょっと違うかなあ、って思った」
「ごめんなさい、言っている意味がよくわからないわ」
「うーんと……まあ、抱え込みすぎるのは桜ちゃんの悪い癖だと思うよ」
「……そうね」
「ねえ、もう一つ根本的なことを聞いていい?」
「……どうぞ」
「桜ちゃんって、ドイツ文学を専攻しに行ってるんだよね?」
「そうね。……一応」
「うーん!……どういうことか理由を述べよ、二百字以内で」
「……えっと、一般教養の方に考古学の教授のゼミがあるんだけど」
 あのね、今はⅩ線解析で分子の形状からその分子を生み出した生物の遺伝子型を特定できる時代で、たとえば奈良女子大の論文だと、皇族らしい奈良地方の古墳の副葬品で絹織物があったんだけど、X線解析したその絹の分子の形状から絹糸を吐いた蚕の遺伝子型を特定し、あらかじめサンプルをとってあった世界各地の蚕の遺伝子型と照らし合わせ、それが中国の蚕の絹糸じゃなくてインド原産の蚕の絹糸だということ、つまりその地方との交易があった可能性を突き止めた……だったかしら?
 他にも北欧のヴァイキングたちが扱っていた銅貨。その銅貨がどこで生産されたのか物理学的(分子構造的)に正確な裏付けのとれたものの分布を地図に重ねて統計的に見ることで、当該銅貨を扱いまたは生産した集団の交易の範囲や交易のおおよその時期がわかるそうなの。地層に埋もれた花粉の遺伝子解析と同じ発想なんだけど、ちょっと面白いと思って……。
「桜ちゃーん、大幅にオーバーしてるよ」
 しどろもどろになりながら説明する私を少し恨めしげに見つめてくる視線が痛い。
「考古学行きたくなっちゃったの?」
「……というより、その道具の応用物理学」
「素直でよろしい」
「……あ、あのね! 玲菜はオーロラを見たことがあるかしら?」
「ないよ、もちろん」
 もう半分やけっぱちになってオーロラの放射線物理学的意味や聞きかじっただけの地球磁気学を解説してみたけれど、玲菜はお気に召さないようで、
「一緒にアラスカに行きましょう!」
 自分の顔が真っ赤にほてっているのは分かるが、頭はパニック状態で、よりにもよって出てきた言葉がそれだった。怒られるのを覚悟してぎゅっと目を閉じる。そしてちょっと沈黙が長すぎる、と思い始めたころ、
「……ふ」
「ふ?」
「……ふふふふ、あはははは!」
 ああ、これは逆に怖いパターンだ。どうせ素直なら素直に謝ればよかったのに、と後悔先に立たずを思った。もう言い訳はやめよう、と覚悟を決めておとなしく裁判長の判決を待つ。
「桜ちゃん、まず一つ。私やプロデューサーさんを悲しませたり、困らせちゃダメ」
「はい」
「もう一つ。転部してもいいけど、最初の約束はちゃんと守りましょう」
「……はい」
「そして最後に一つ。アラスカは休みができたら行こうね!」
 と、満面の笑みを向けて腕に組みついてくる。
 ――ああ、これは完璧に負けた。と思った。私は私以外の誰にも負けないという自信をささやかながら持っていたけど、やっぱり私は玲菜には勝てないようだ、と爽快な楽しさが胸に満ちていくのがわかる。
「――そうね。約束するわ」

 ――ふと眼を覚ますとそこはむき出しのままの玲菜の肩の上で、重い頭をもたげて時計を見やると夜半だった。私は彼女を起こさないよう少し痺れていた手先をそっと抜いて静かに身体を離して起き上がり、あどけない寝顔をさらしつづける無防備さにくすりと笑みをもらしてベッドから降り、無造作に脇に放られていた厚手のブランケットを風邪をひいてしまわないよう玲菜の上にかけてやる。自分もその脇の手狭なスペースに潜り込むが、やはり二分ほど余って縁からはみだした脇腹が新鮮な外気にさらされ温度差を生じた。
 寝顔を眺めているうちに悪戯心がわいて、ちょんと人差し指で頬を突っついてみてもまったく目を覚ます気配のない彼女がたまらなく愛おしくなりその髪を梳く。よほど疲れがたまっていたのだろうか。だとしたら明日は余計に身体が重くなる。少し悪いことをしてしまったかな、と。折った片腕を枕にしたままで、玲菜の髪を梳いていた手を向こうの頬に移す。いっそこのまま夜が明けるまで眺めていようか。そうしたら自分は柄にもなく幸福な眠気に誘われて講義中に船を漕いでしまうだろうか。
 玲菜の横顔を視界に収めたままうつらうつらとしはじめてはまどろみの手に落ちて復帰することを繰り返し、何度目かの思考がクリアになったとき、すでに明け方の冷たい青灰の光が薄くカーテン越しに這いこんできて室内に陰影を添えていた。そろそろシャワーで寝汗を流そうかとベッドを抜け出そうとすると、
「やだ」
 いつの間に気がついていたのか、こもった熱が急な肌寒さに入れ替わったためであろうか、へその下に回された手にぎゅっと引き留められる。
「行っちゃやだ」
「――玲菜」
「だって桜ちゃん、ちゃんとつかまえておかないとすぐどこかへ行っちゃうんだもん。あれ、けっこうトラウマだったんだから」
 上目遣いに顎を押しつけてきているので、しゃべるたびに直の振動が腰骨に伝わってくる。半身をひねったままで腕を回し肩を抱えて右手のこめかみからさらりと髪を掻きあげて耳元を頬を支え「今はここにいるわ」と額にキスをすると、どこか不満そうに口の先を尖らせるので、その下唇をむに、と親指と人差し指でつまむとしかめっ面をさらに深めて「むー」と擬音を発した。私は笑いながら頬にずらした手を添えたままその唇を奪ってしまう。
「ん――」
 不意を突かれて漏れる吐息。腰に回されていた手が指先の圧力を伴いながら背中へと引き上げられる。沈黙の代わりを満たすのは早朝から活動を始める近所の弁当屋の生活音と、わずかに開け放っていた窓から忍び入る初夏の風。そうしてしばらくお互いの意識を溶け合せていた空白を離れて、
「眼は覚めた?」
「――多分」
 彼女は不承不承ながらもごまかされるのを許容する表情に気を抜いて眉尻を下げた。
「なんかさ、桜ちゃん、私で遊んでない?」
「どうかしら」
「ひどいね」
「ふふっ」
 そんなたわいもない戯言を交わし、素肌に軽く衣服を羽織った私は着替えを腕にたくしこんで浴室へと向かう。

 髪にタオルを巻いたままで、安物の――しかし気に入ってはいる味の――インスタントコーヒーを淹れる鍋をコンロにかけ、ふつふつ沸き立って白く蒸気を上げいく様を見つめる間に玲菜の様子を窺うと、今ひとつ寝ぼけ眼でくるまっていたブランケットからようやく抜け出してちょうど薄ピンクのブラウスに袖を通すところであった。そんな彼女に、自分の分とは別の砂糖を追加したカップをもう一方の手から差し出す。
「気つけになるかしら」
「うん――ありがと」
 いまだ眠気が足を引きずる玲菜を浴室に送ると、そのうちシャワー音に混じって切れ切れにくぐもった鼻歌が響いてきた。お姫様の調子が戻ったろうか、とベッド脇にかけて思案しながらコーヒーを啜っていた私はたまには腕が上がった証拠を見せようと朝食の支度をしに台所へとつく。蛇口から走らせた水に両手の菌を洗い流し――と意気込んでも材料をそろえておくのを忘れたせいで、結局出せるものは機械に任せた焼きたてトーストと少々不格好な楕円に縁取られた目玉焼き、千切ったレタスとスライストマトとベビーリーフにクルトンを散りばめたシーザーサラダ程度のものであった。
 すべての皿をテーブル上にそろえると、まだ暑いのだろう胸元を大きく開けたままのしどけない姿でぱたぱたとタオルに挟んだ髪をはたきながら彼女がやってきたので「粗末なものだけれど、よろしければどうぞ」とフライパンを水につけながらおどけて示した。
 席に着いていただきますをし、久しぶりの独りではない朝食風景。言葉少なながらもこんな日がいつまでも続けばと二人のスケジュールを考えれば少々無謀な願いをどこの誰とも知れない誰かにかけてみる。かじりついていたトーストから視線に気づいて、どうかした? と首を傾ける彼女に私はいつかはそれほど無謀でなくなるかもしれないと微笑んで「なんでもないわ」ときつね色に乾いたパンくずの散った皿へと長くゆるいまばたきを落とし目を上げた。
「そ?」
「ところで玲菜、時間は大丈夫?」
「あ、それなら平気。予定より早いくらいだから」
 午前中の講義といえども一般企業の社会人からすれば重役出勤な私より今日から舞台の地方公演でしばらく関東を離れる玲菜の方が出立が先なわけだけれども、こうも清新な気分で人を見送る立場というのは人生の中でどれくらいぶりのことであろうかと思う。スポンジを絞り、皿を流し終わって洗剤の泡切れをきちんと確認してから水切りに立てかけると、私は、残りのコーヒーを飲み干して少しはにかんだような笑顔で振り向き「行ってきます」と水平斜角三十度に軽い敬礼をする彼女に手を振り返した。
「ええ――行ってらっしゃい」

 乗り換えの駅から電車を待つまでの間も、こんな日は玲菜の残響で自分の心を調律するに限るな、とすっかり初夏の陽気となって衣替えした薄手のパーカーに音楽プレイヤーを忍ばせずに駅中街の雑音をお供にして歩いていき、人々の喧騒にもよく和する彼女の仕草を心を胸中で何度もリプレイした。たった一人、玲菜の一曲ループ。道が分かたれてもあなたの心が私の中にあるように、私の心もあなたの歩みを支えるものであってほしい。たとえそれがすべてではないにしても、すべてとなるべきでないにしても。
 ――女声のアナウンスが日常繰り返されるが如くにホームに到着するであろう電車を予告し、やがてレールを両サイドから挟んで火花を散らし高く悲鳴を上げる車輪の音が近づいてきて、減速しきって両開きになったドアの向こうから吐き出されてくる人の群れを脇でやり過ごしながら、私も彼女への想いを抱いたままそこに人の流れとともに呑みこまれてゆく。そしてややまばらな長座席の前に立ち片手を吊り革に、残る手を鞄から引き出した文庫本にかけながら。今日はいくらページをめくっても玲菜のことばかりかもしれないな、と周囲の人間にそうと分からない程度に薄く苦笑をはりつけた。

 ――大丈夫だよ、桜ちゃん。私、変わらないよ?
 ――でも、私に見える玲菜は以前と違ってしまっている気がする。
 ――それは、本当の桜ちゃんの苦しいのとか痛いのとかが伝わってくるからだよ。

 私の中の歪な愛に触れるたび形を変えてゆく彼女を見ることに戸惑いをおぼえないわけではない。それは今でも残るためらい。玲菜が望む形に私の望みをより合わせていって、距離を縮めることに慣れるまでにも時間がかかった。けれどもこの歪さに染めてしまうのではないかと密かに抱かれつづけた怖れをよそに、玲菜は変わらない優しいキスをくれる。だから私は、澄みとおった川の流れに身を浸して沐浴するような冷静な苦しさこそが私たちに未来を与えるのではないかと思って彼女を抱いてはその日常へと送り返すのだ。
 永久の誓いはそれを形にした瞬間にあたかも生ける花の必ず枯れ萎んでいくようにその華やかさと清新さを失っていくものだが、それは自然の摂理で、ただ今がその時ではないというだけなのだ。後に残すものの無いが故に公然と社会に受け入れられるべき価値観ではないとしても、二人がこれから先も共に歩んでいこうとするのなら、秘密を秘密のままで守れるのなら、離れている時にこそその結晶は形を成してゆくのだろう。その摂理を言葉だけで永遠の愛という墓場に捧げる造花としてしまわない限り。
 車窓から映る景色そのものが変わりばえすることはないとしても、陰鬱さや日常の深みを導くのがそれをうち眺める人の心なのだろう。玲菜に触れることは、そんな、否応なしに一歩一歩の意味が創造されてゆく痛みに触れること。流れゆくオフィスビルの群れや高架橋、大交差点に猥雑な繁華街を臨む半透明の自分がそんな憂いとも希望ともつかないことをつらつらと算じている間に目的の駅を通り過ぎそうになり、はっと駅名を告げる掲示柱の正体に気づいて急かされるように、私はとうに両開いて大半の利用客が降りてしまっていたドアから黄色い点ブロックの向こうへと勢い余って飛び越した。

 ――涙の跡はもう遠い。言葉にするには遠すぎる。けれども私はあなたの望んだ答えになれるだろうかとその不安ばかりを気にかけるようになってしまうのが怖いのだ。あるいは、歌うことができないなら生きる価値はないと頑なに思い込んでいた未熟な頃の自分が完全に霧散してしまうのが?
 願えば必ず癒えていく幸福が不意をついて胸に差し込むすきま風に飛ばされてしまわないための重さなのだろうか。答えは永遠に出せないかもしれないという、その、確信めいた予感は。

006:Alt : Ctrl : …

 ――その不安定な幸福を断ち切ったもののことを、君は?

 今さらよ。

 そのあと、何があったかを話してくれる気は?

 ないわ。

     *

 ――ぶん、と意識の境界が揺れて現実に引き戻される。ラジエルの樹でたどれるのはここまでだった。私は、ヘッドセットを外してスタンドアロンPCの電源を完全に落とし、事務机の上にペーパーとして出力された論文集に手を伸ばす。目次で位置の目星をつけてからぱらぱらとページをめくり、あの場所でたどり着いた我らのルーツである・ラジエルの樹の真の設計者である・彼女が何を思い何を求めて何を残したのかを探ろうとした。

「――Wikileaksに落とすには資料が足りない。どのみちここまでやったら内々の処分どころじゃない、裁判になるかもな。そして運命は運命のまま、俺もシックザールになる……か」
 たどり着いた真実の欠片を今さら手放すわけにはいかないとしても、どうすればいいのか。逡巡が致命的なミスを犯す前に私は執務室から場所を移動して、インターポールが絶対に追ってこれない経路である自分の記憶にダイブすることにした。このVRゲームの中にはまだ、滅びてしまったはずの世界が、自分の故国がまだ生きているのだ。自分は、自分の母の記憶をたどって、結局は自分に帰っていく。それを皮肉の一言で片づけることは私にはどうしてもできそうになかった。

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