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なぜ日記をつけるのか

先日、友人がnoteを始めた。noteの存在は知っていたものの、大学の課題で、ただ単位を取得するために、最低限の文字数を稼ぐだけのゴミのようなレポートを大量に生み出した経験以外、文章を書いた経験がない私にとって、noteを書くという行為はハードルが高いものだった。

それでも、絶望的な記憶力のために、いつしか幸せな時間の温度さえ思い出せなくなっている自分に気づいてから、何とかして幸せを残そうと、たまに日記はつけていた。だから、文章を書くことが嫌いなわけではないのだ。むしろ、いつでも書いてみたいとは思っていたくらいだ。ただ、今まで書く勇気ときっかけと自信がなかった。

自信なんて後からついてくる、くらいの気持ちで、友人にあやかり、私もやっとnoteを始めてみる。

さて、なぜ人間は日記をつけたがるのだろうか。友人のnoteの初投稿で「日記をつけることにしました。」と書いてあった。先ほど言った通り、毎日ではないが、私も日記をつける。私は、記憶力が乏しいため、すぐになんでも忘れてしまう。母にやっておいてと頼まれた家事、バイトで次時間ある時仕込んでおいてと指示されたもの。後回しにすると、すぐに忘れる。

これは、些細なことだけではない。大切にしていた思い出や、自分がこの世で一番の幸せ者なんじゃないかとさえ思えた瞬間。そのときにもらった言葉。そのときの顔、声、天気、質感。絶対忘れたくないという私の強い思いと逆行するように、記憶はどんどん薄れていく。気づいた頃にはもう思い出せない。もはや、忘れたことにも気づかないことだってある。気づいてないから分からないけど、ないわけはない。多分ある。

まあ、幸運なことに忘れたことに気づけたとしても、それに気づいた瞬間はとても空しい。あの空しさはなんでなんだろう。確実に存在していたその瞬間は、今や記憶の中にしか存在できないのに、記憶の中でさえも、存在が危うくなっていることに対して空しいのだろう。

そんな空しさを感じたくない一心で私は日記をつけている。日記、というより、存在していた時間に鍵をかけて宝箱にしまっている感覚。思い出を冷凍保存している感覚。それに近い。「絶対忘れたくない」そんな気持ちで、手首が痛くなるのも忘れてボールペンをはしらせている。1秒でも遅れたら、なにか大事なものがこぼれ落ちてしまうから。なにもこぼしたくないから。

世界でいちばん読まれている日記はアンネ・フランクのものだろう。恥ずかしながら、小学生の頃に彼女の伝記を読んだり、テレビで彼女の特集を見たくらいの知識しかないので、それが誰かに読まれることを予想して書かれたのかそうでないのかは、私には分からない。

そもそも誰かに読まれる前提で書かれる日記なんてあるのか。まあ、人によるのだろう。少なくとも私は、人に日記を読まれたらかなり恥かしい。私が死んだら、読まずにそっと捨ててほしい。と思うのだが、それはそれで悲しい気もする。日記は、私が生きた証でもある気がするから。

ここに、人間が日記をつける理由があるのでは?と思った。
さっきから記憶の冷凍保存とか、格好つけたことを言っていたが、単に、生きた証を残したいのでは?つまり、自分が存在していた記録を残したいのでは?

生きた証を残すことで自分の生を誰かに肯定してほしい。そういう欲求が、人間にはあるのではないか。マズローの欲求階層説ではどの層にあたるのか、そもそも生きた証を残したいという感情が本当に人間の根源の欲求なのかなんて分からないけど。

ふと、京王線のホームで日記をつける理由を考えていた。


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