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私の幸せ

あけましておめでとうございます。

前々から思っていたことをようやく言語化できた。

2024年元日、恋人に対してもやもやした感情を抱いたまま恋人と初詣に行って、なんだかいまいち自分の感情を盛り上がらせることができないまま解散して、なんだかとっても寂しくなってひとりでお酒を飲んでいたら、バカでか感情に襲われてしまった。

私は、少し酔いが回ってくると、日頃考えていることが体系化できる。今すぐ書き留めておかないと、どうせまた、感情を言葉にできないもどかしさに苦しむことになる気がする。そうならないために、拙いながらも、思いついたまま取り急ぎ、綴っていこうと思う。

「幸せになりたい。」

なんて抽象的な願いなのだろう。人類みんな、同じことを願っているといっても過言ではないと思う。古今東西変わりがない願いであるに違いない。そんなことは分かっている。

では何をもってして幸せ?

そんなことは人それぞれ。もはやそれを見つけるために生かされているまであるかもしれない。今はそんな難しいことは考えられない。とりあえずその問いの答えは、今度じっくり考えたい。答えが見つけられるとは思えないが。

とりあえず、幸せになりたい。
なんだか、馬鹿馬鹿しい。でも、幸せになりたいのだ。

とはいえ、自分を幸せにする方法は十分把握しているつもりだ。現に今、幸せであると言えば、幸せであるのだから。ちなみに今私は、美味しいおつまみと美味しいお酒を用意して、リアルタイムでの視聴を逃してしまったM‐1グランプリを楽しんでいる。こんなことで、私は簡単に自分を幸せにすることができる。

でも、そうではないのだ。

好きなものを掛け合わせることで、私は簡単に幸せを得ることができるが、私が求める幸せはそういう質のものではない。そういう幸せは極めて刹那的である。簡単に求められる幸せは、それを得る容易さと同じだけ儚い。私が求めている幸せは、

永劫的な幸せ。

それが、頑張るきっかけになり得たり、それを思い出すだけで恍惚感を得られるような。そんな、永劫的な幸せを求めているのだ。

今私は、自分が知っている限りの方法で、自分を幸せにしているはずなのに、どこか空しさを拭うことができない。それは、今感じている幸せが、簡単に手に入れられるもので、この先この瞬間を思い出しても、恐らく、幸福感に浸ることができるような類のものではないからなのであろう。そして今この瞬間、やっと私は常日頃から抱いている感情を言葉にすることができた。

永劫的な幸せを掴みたい。

永劫的な幸せを見つけるために、終わりの見えない日常を生き抜きたい。そんなもの、俗世に存在するなんて思えないけれど。


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