聖書とデザイン言語3)
妙なタイトルとお思いでしょうが、2014年春から、縁があってかこちらのブログに出会い、そのリンク先一覧を自前で掲載したのがこちら(最新版未掲載)です。
聖書との縁は、義母宅がクリスチャンで、義父が亡くなってすでに何十年かになることから、かなりになるのではありますが、自分宅は祖父の代から密教で、他に、天理教や神棚(神道=神社)まであり、宗教関連の環境としては混乱状態でした。
40年ほど前、1年持たないかもと言う障害を抱いた長女と次女が生まれ、「なぜこんなことが?」との思いは強烈で、長いことその答え探しで行き着いた先が上述のブログであり「聖書」だった気がします。
もともと、長男が早死にすることが3代続くのは、我が家の因縁(明治生れの祖母の口癖)だ、とはよく耳にしていた。それらに続く障害児を与わった「不幸」に、期待に応えない宗教に対する「疑念」が芽生えていたのも確かである。
自分の父親が亡くなって50年近いが、同時期に我が家のお寺で青年部が創設され、叔母がお寺の役員だったこともあり、流れにまかせ入部して現在に至るが、今は青年部はなくなり、親会の役員を請け負っているが、僧侶の引き継ぎで何度かの不運が続き、日本の宗教そのものに対する「何か違うな〜」と言う思いも重なり、お返しした天理教や神道に続き、墓じまいも終え、新たな門出を模索している。
一方、社会活動でも小さな町であることも手伝って、それなりに各種イベントや選挙、商店振興会、自治会などで役回りを経験、それなりの範疇であれこれ一般常識を学び、人それぞれの多様な考え方を知ることができた。
ただ、伝統的というか、長年引き継ぐ慣習を見直す機会も多く、逆に、国レベルでもそうだが、出来上がった組織を利用する「忖度」が地方の末端にまで及び、何の効果もない現在のマスク社会の闇を、深く追求することをさせない、政府やマスコミの「あやつられ人形」状態にはあきれている。
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