昔のブログ
5~6年前にアメブロに書いていたブログを何の気なしに見てみることにした。
何故か公開していたブログが全て下書き扱いになっていて、内容を確認するのにひと手間かかった。自分で下書きに設定し直したのか、長い間ログインしていなかったせいなのか。そもそもアカウントが残っていたことすら忘れていたのだから、ひと手間かかろうとも今頃になって見れるだけラッキーなことだよな、なんて考えている間に下書き一覧のページが開いた。
ザッと数えてみると当時の私は約2年間で87もの記事を書いていたらしい。全て公開していたわけではなく書きかけのものも多くあり、このnoteにも書きかけのものが大量にあることを思い出した。思い付いた話の導入をパッと書くだけ書いて、結局書ききれずに放置してしまう癖は昔から変わらないことを思い知った。
思いの外、内容を全く覚えていないものの方が多かった。初め、こういったものを改めて読むときの羞恥心を覚悟しながら記事を開いたが、その心配は無用だということに直ぐに気付いた。覚えていないものはまるで他人の書きもののように客観的に読むことが出来るらしい。
昔も変わらずくだらない内容がほとんどだったが、いくつか(色々な意味で)笑ってしまうものもあり、過去の自分の記事に笑わされたということが少し悔しかった。
文章の書き方が今と違うのも面白い発見だった。「。」を使いたくない症候群だったのか、今なら「。」を入れるところに「、」を入れていて、やたらと「、」が多い文章を書いていた。併せて改行も多かったが、恐らく「、」の多用で読みづらい文章を少しでも読みやすくする方法が改行だったのだと思う。何故そこまでして「。」を入れたくなかったのか。
一番驚いたのは、詩を書いていたこと。「詩なんて縁のないものだ」と、つい先日思ったばかりだったので、何か運命的なものを感じてしまった。1つだけだったので、記事を書いたその時期に何かあったかなと思い返したが特に思い当たることはなかった。詩を書いていたこと以上に驚いたのは、この記事をちゃんと公開していたこと。「いいね」が2つほど付いていたので分かったのだが、昔の自分を思うとこういう創作物?を人前に出しているのは非常に珍しいことなので大変驚いた。
さすがに全部読み切ることは出来なかったが、色々なことに気付いたり、再認識したりすることが出来て、思っていた以上に有意義な時間となった。
アメブロは、当時本当に誰にも知らせることなく、ただひっそりと日常のことや思ったことを書いているだけだった。たまに、どこから探して来たのか不明のどこかの誰かが「いいね」をしてくれることがあったので「読まれることの意識」は多少あったと思うが、それよりも「自己を満足させるため」の意識が勝っているような文章だなと、今読み返して思う。
「書きたいことを書きたいように」というのは今も変わらないのだが、こうやって過去と今を比べると、「感性」が違うように感じる。違うというより、敏感だったというのだろうか。今なら見落としてしまいそうな日常の風景にしっかりとアンテナを張って、ああでもないこうでもないと自分の感情や考えを書いている記事が多かったことがそう思う理由なのだが、今は意識的にも無意識的にも「見て見ぬふり」をすることが増えた。例えば、私はここ数年、人に「気にしすぎ」と言われることがよくある。たしかに気にすることで辛くなったりするので「気にしない」のが一番なのだが、今度は「気にしすぎ」なことを気にしてしまい、「気にしすぎ」と言われるのが怖くなって人に伝えることも少なくなったし、自分の中で一瞬引っ掛かってもなかったことにするということに気を付けるようになった。それこそ文章にして発散すれば良いのかも知れないが、そういうことも自然に減ってしまった。自分に余裕がないことも一つの原因だと思う。
こういう積み重ねが、ネガティブなことだけでなくてポジティブなことにも影響してしまい、自分のアンテナがどんどんへし折れていったのではないか。昔のブログは、たしかに記事自体はくだらない内容で、文章も今より下手くそだったけれど、今の私から見れば自分の感性を大切にしていたあの頃の自分の方が生き生きとしているように感じる。
新しい春をこのまま迎える訳にはいかない。
自分を見つめ直そう。そして、もう一度「感性」を取り戻そう。